第百一話 ダブルベッドと、君の寝顔
「……部屋、戻るか?」
デッキの上で、僕がそう言うと、優愛は、繋がれた手を見つめたまま、小さな声で、「うん」とだけ、答えた。
僕らは、どちらからともなく、ゆっくりと歩き出す。
目指すのは、船内に一つだけ割り当てられた、僕らの部屋。
カチャリ、とカードキーでドアを開け、部屋に入る。
昼間、あれだけ心を奪われた、丸窓の向こうの海の景色も、今はもう目に入らない。
僕らの意識は、部屋の中央に、堂々と鎮座する、一つの家具に、完全に釘付けになっていた。
大きな、ダブルベッド。
「……」
「……」
シーン、と静まり返った部屋。
先に口を開いたのは、僕だった。
「……僕、ソファで寝るから」
部屋の隅にある、小さな一人掛けのソファを指差す。
「え、だめだよ! そんなところで寝たら、絶対、風邪ひいちゃう!」
「でも……」
「だめ!」
優愛は、僕の言葉を、きっぱりとした、でも少しだけうわずった声で、遮った。
そして、顔を真っ赤にしながら、蚊の鳴くような声で、こう続けた。
「……ベッド、広い、から。……大丈夫、だと、思う」
その、あまりにも健気で、あまりにも可愛い提案に、僕の心臓は、もう、どうにかなってしまいそうだった。
(……優誓おじいちゃんめ……。絶対に、こうなることを見越して、この部屋を取ったに違いない……!)
僕は、今はここにいない優誓おじいちゃんの、してやったりな顔を思い浮かべて、心の中で悪態をついた。
結局、僕らは、それぞれシャワーを浴びた後、ぎこちない動きで、その大きなベッドの両端に、そろりと腰を下ろした。
(……やばい。意識したら、眠れるわけない)
枕が、一つしかないことに、今さら気づく。
僕らは、背中合わせになるようにして、ベッドに横になった。
優愛の、規則正しい寝息が聞こえてくるまで、一体、どれくらいの時間が経っただろうか。
僕は、そっと、体を反転させた。
月明かりが、丸窓から、静かに差し込んでいる。
その、淡い光の中で、僕のすぐ隣で眠る、優愛の無防備な寝顔が、浮かび上がっていた。
少しだけ開かれた、唇。
穏やかな寝息に合わせて、上下する、華奢な肩。
僕の方に、無意識に伸ばされた、小さな手。
(……好きだ)
その、どうしようもないくらい溢れ出す気持ちのままに。
僕は、そっと、手を伸ばした。
そして、彼女が、寒くないように、掛け布団を、肩のあたりまで、そっと、引き上げてあげた。
その瞬間。
「……ん」
優愛が、小さく寝言を漏らし、身じろぎをした。
そして、次の瞬間。
彼女は、僕の腕を、ぎゅっと、枕か何かと勘違いしたかのように、抱きしめてきた。
「……!」
至近距離に、彼女の寝顔。
僕の腕に伝わる、彼女の柔らかな感触と、温もり。
そして、首筋にかかる、甘い寝息。
もう、ダメだ。
僕の心臓は、とっくに限界を超えていた。
眠れるはずなんて、到底、なかった。
僕らの、初めての夜は、僕にとって、人生で一番、長くて、幸せな、試練の夜として、静かに、更けていった。




