コミット 193:『ヴァローナの悪夢、「失われた砦」が再び!?』
乳白色の濃霧は、音も光も、そして仲間との繋がりさえも無慈悲に飲み込んでいった。どれほど声を張り上げても、返ってくるのは自分の声の虚しい反響だけ。ヴァローナは剣を抜き放ち、背中を預けられる仲間がいない心細さを、鋼の意志で必死に押さえつけていた。
「ニーナ! セレスティ! ゼフィラ! フィリップ! どこだ!」
返事はない。魔力感知に優れたニーナやゼフィラですら、この異常な魔力ノイズの中では互いの位置を探るのは困難だろう。リーダーとして、パーティの剣として、仲間を守らねばならぬという焦りが、ヴァローナの冷静さを少しずつ蝕んでいく。
その時、ふと霧が晴れていくのを感じた。視界が、ゆっくりと開けていく。しかし、そこに広がっていたのは、黒くねじくれた木々が立ち並ぶクロノスの森ではなかった。
「――なっ!?」
ヴァローナは息を呑んだ。鼻をつくのは、血と鉄、そして肉の焼ける焦げ臭い匂い。耳に届くのは、男たちの怒号と断末魔の叫び、そして天を焦がす炎の爆ぜる音。目の前には、黒煙を上げて燃え盛る石造りの砦が、まるで巨大な亡霊のようにそびえ立っていた。
「灰色狼の砦……なぜ、私がここに……」
そこは、彼女の記憶に深く刻み込まれた、決して忘れることのできない絶望の場所。彼女が騎士団長としての自信と、かけがえのない部下たち、そして腹心の友を失った、「失われた砦」そのものだった。
「団長! ご決断を!」
背後から、聞き覚えのある切迫した声が飛んだ。振り返ると、そこにいたのは、血と泥に汚れながらも、必死の形相でこちらを見つめる、かつての部下たちの姿だった。幻だ。分かっている。これは森が見せる悪夢なのだと。しかし、彼らの瞳に宿る恐怖と、自分への信頼の光はあまりにも生々しく、ヴァローナの心を締め付けた。
「敵の第二波が、西の城壁を突破しました! このままでは、本丸まで持ちこたえられません!」 「東門は、地中からの奇襲で壊滅状態です! 応援を!」 「団長! 指示を! 我々はどうすれば!」
次々と叩きつけられる絶望的な報告。それは、かつて彼女が下した判断が、ことごとく裏目に出た結果の再現だった。経験則に基づき、完璧だと信じていた戦術が、予測不能な敵の前に脆くも崩れ去った、あの日の光景。
「(まただ……また、この状況に……)」
ヴァローナの身体が、鉛のように重くなる。手足の先から急速に熱が奪われ、思考が麻痺していく。どうすればいい? どの選択が正しい? 自分の判断は、またしても部下たちを死地に追いやるだけではないのか?
『私の選んだ戦術に間違いはない』
かつての自分の、傲慢で、そしてあまりにも未熟だった声が頭の中に響く。その声が、今の彼女を嘲笑っているかのようだった。
「団長! 早く!」
部下の幻影が、悲痛な叫びを上げる。砦の城壁がガラガラと崩れ落ち、そこから異形の魔物たちが、津波のように押し寄せてくるのが見えた。
「(動け……動かなければ……!)」
しかし、身体は動かない。過去の失敗という名の巨大な鎖が、彼女の四肢を、そして魂を縛り付けていた。自分の判断が、仲間を死なせる。その恐怖が、彼女から全ての力を奪い去っていく。
「すまない……すまない……」
ヴァローナの唇から、か細い謝罪の言葉が漏れた。それは、目の前の幻影に対してか、あるいは、あの日に失った本当の部下たちに対してか。
絶望が、彼女の心を完全に覆い尽くそうとしていた。燃え盛る砦の炎が彼女の金色の瞳に映り込み、悪夢の終わりを告げるかのように、不気味に揺らめいていた。




