コミット 192:『見えざる脅威!森が仕掛けるデバッグ不能の罠!?』
強烈な空間の歪みは、巨大な波のように私たちを飲み込んだ。一瞬、天地が逆転し、視界が真っ白に染まる。内臓が掻き回されるような不快感に耐えながら、私たちは必死で互いの手を握りしめ、離れ離れになることだけは避けようと踏ん張った。
数秒か、あるいは数分か。時間の感覚すら曖昧になった後、ようやくその歪みは収まった。私たちは、森の中の、先程とは明らかに違う場所に立っていた。周囲の木々の形状も、地面の様子も、先程までとは異なっている。
「……みんな、無事!?」
私が荒い息をつきながら叫ぶと、仲間たちから苦しげではあるが確かな返事が返ってきた。幸い、誰も怪我はないようだ。しかし、全員の顔には疲労と、そして未知の脅威に対する緊張の色が濃く浮かんでいた。
「くっ……今のは、一体……。何かの罠か……? 無理やり移動させられたぞ!」
ヴァローナが、周囲を警戒しながら悪態をつく。
「それだけじゃないわ。なんだか、頭の中に直接、嫌な声が響いてくるような……」
ゼフィラが、こめかみを押さえながら顔をしかめる。彼女の言葉通り、私の頭の中にも不快なノイズのようなものが響き始めていた。それは、特定の言葉ではない。しかし、聞いているだけで不安や焦りを掻き立てられるような、精神的な不協和音だった。
「(精神攻撃まで仕掛けてくるってワケ……? しかも、広範囲かつ持続的……厄介すぎるでしょ、このエリアの仕様……!)」
森の奥へ進むにつれて、その精神的な干渉はさらに悪化の一途を辿った。時折、仲間の一人の姿が、一瞬だけ全く別人のように見える幻覚。あるいは、どこか遠くで誰かが助けを求めて叫んでいるかのような幻聴。森は、私たちの五感と精神を、じわじわと蝕み始めていた。
『精神干渉を伴う魔力波を検知。魔導防壁の展開を推奨します』
モニカからの警告を受け、私は即座に論理魔導で簡易的な精神防壁を展開し、仲間たちにも同様の指示を出す。しかし、森の干渉はあまりに強力で、私たちの付け焼き刃の防御など気休めにしかならなかった。
そして、ついに森は、最も古典的で、かつ最も効果的な罠を私たちに仕掛けてきた。
「――霧……!?」
どこからともなく乳白色の濃い霧が湧き出し、瞬く間に私たちの周囲を覆い尽くしていったのだ。ほんの数秒前まで見えていた仲間たちの姿が、霧の中に霞んでいく。視界は、もはや自分の手元すらおぼつかないほど完全に奪われてしまった。
「みんな、声を出し続けて! 絶対に離れないで!」
私が叫ぶが、自分の声すらも霧に吸い込まれていくようにくぐもって聞こえる。仲間たちの返事も、遠く、そして途切れ途切れになっていく。
「ニーナさん! どこですか!?」
「ニーナ! 手を離すな!」
セレスティとヴァローナの切羽詰まった声が聞こえたのを最後に、私は完全に一人になってしまったことを悟った。魔力的な繋がりで仲間たちの位置を探ろうとしても、森全体を覆う強烈な魔力ノイズがそれを阻む。まるで、全ての通信が遮断された、孤立無援のサーバーに取り残されたかのようだった。
「(くそっ、最悪のパターンじゃん……! 分断されて、各個撃破されるとか、完全に定石通りの負けフラグ……!)」
焦りが、心臓を鷲掴みにする。私がしっかりしなければ。このパーティの司令塔として、みんなを導くための道筋を見つけなければ。そう思うほどに、思考は空回りしていく。
そんな私の耳に、不意に、聞き覚えのある声が響いた。
『――おい、斉藤! この程度のバグも修正できないのか! それでもSEか!』
「――ッ!?」
それは、前世で私を精神的に追い詰めた、あのパワハラ上司の声だった。幻聴だ。分かっている。しかし、その声はあまりにもリアルで、当時の絶望的な感情が、まるで昨日のことのように蘇ってくる。
『斉藤君のせいで、プロジェクトは大赤字だよ。どう責任取るつもりなんだい?』
『あいつ、またミスったらしいぜ』
『使えない奴』
同僚たちの冷ややかな声、嘲笑う声が、霧の中から次々と聞こえてくる。それは、私が心の奥底に封じ込めていた、最も触れられたくないトラウマだった。
「(やめろ……やめてくれ……!)」
耳を塞いでも、その声は頭の中に直接響いてくる。私はその場にうずくまり、必死でその声に抵抗しようとした。
『ニーナの心拍数、魔力波の乱れを記録。過去の精神的外傷に起因する脆弱性と判断。同様の精神攻撃パターンに対する防御プロトコルを構築します。優先度は最大に設定』
耳元で響く、モニカの無機質な声。そして、頭に響く声が小さくなっていく。モニカは感情を理解できない。ただ、観測されたデータに基づき、論理的な最適解を導き出しただけだ。
しかし、その無機質で、どこまでも私を守ろうとしてくれる応答が、今の私の心には何よりも温かく響いた。
「……あんたは、本当に最高の相棒だよ」
私は、溢れる涙を乱暴に拭い、そう呟いた。モニカは、何も答えなかった。
そして、私は気づいてしまった。この森が、何をしようとしているのかを。
「(まさか……この森、私たちの記憶を……精神をスキャンして、それぞれの『心のバグ』を直接攻撃してきてるってこと……!?)」
だとしたら、他の仲間たちも、今頃、それぞれの最も辛い過去と、一人で向き合わされているのかもしれない。ヴァローナは? セレスティは? ゼフィラは? フィリップは?
仲間たちの顔が脳裏に浮かび、焦燥感が全身を駆け巡る。私が、何とかしなければ。
そう思った瞬間、ふと、霧の向こうに揺らめく赤い光が見えたような気がした。それは、何か巨大なものが燃え盛っているかのような、不吉な光。そして、その光景は、私が最も見てはいけない、ヴァローナの心の深淵に刻まれた絶望の光景――「失われた砦」の炎と、あまりにも酷似していた。




