出会いのプロローグ
「さて、もうそろそろね」
お母様が優しく私の頭を撫でる。
「アリス、これから剣聖様がやってくるわ。あなたも失礼のないようにね」
「はい、お母様」
私はこくりと頷いた。
今、屋敷の召使い達はみんな大急ぎで剣聖様をお迎えする準備をしている。
いつもは冷静沈着なお父様も、今日は「剣聖様がいらっしゃる」と言って慌てていた。
御伽噺や英雄譚にも出てくる剣聖様。
今代の剣聖様とは一体どんな方なのだろう。
私は応接間のソファーで剣聖様がいらっしゃるのを今か今かと心待ちにしていた。
「メアリー、ちょっと一緒に来てくれ」
「ええ」
お母様は、お父様に呼ばれて一緒に部屋から出て行った。
今この応接間には召使いも誰もいない、私一人である。
少し心を落ち着かせようと深呼吸した。
(心臓がうるさい、お洋服変じゃないかなぁ)
そわそわと体を見回しても、特におかしなところはない。
「はぁ……」
諦めてテーブルのハーブティーへ手を伸ばしたその時。
「ねえ、ここはどこ?」
隣から声がした。
透き通るようで美しく、ふわふわしてて掴みどころのないような、そんな印象を持たせる声。
「応接間ですけど——」
特に考えもせず、反射的に答えた。
そして思う。
この部屋には誰もいないはずでは…?と。
私は背筋がゾッとして、すぐさま隣に視線を向けた。
「ひぇっ!?」
驚きのあまりソファーから転げ落ちる。
隣には私と同じくらいの歳の少女が座っていた。
この屋敷についてなら殆ど知っている私だが、彼女のことは見たことすらない。
「だっだだ誰ですか!? 一体どこからっ!?」
いつのまにか私の隣に座っていた黒髪の少女。
さっきまで誰もいなかったはずのこの部屋に、一体どうやって……。
「だいじょうぶ、なのるほどのものではない」
よく分からないが勝ち誇った顔でそう言う少女。
「どこも大丈夫じゃないです!」
私は顔をぶんぶん振って、謎の少女から距離をとった。
「それよりかくまって。わたしおわれてる」
「えっ、ええぇぇ!?」
衝撃的告白をする彼女、これのどこが大丈夫だと言うの!?
今から剣聖様もいらっしゃるのに私はどうすれば!!
「とっ、とりあえずこっちに来て!」
私は彼女の手を取ると、部屋の外に召使いがいないことを確認して応接間から飛び出した。
「私の部屋ならきっと見つかりません!」
「ん、きょうりょくかんしゃする」
廊下を走って大急ぎで私の部屋を目指す。
うぅ、もしこの姿をお母様に見られたら……。
また貴族らしからぬことをしたのですか!
あれほど何度も言ったのに、あなたという娘は!
もうよいです、あなたには淑女の嗜みというものを一から教えてさしあげます!
そしてそのまま何時間もお説教を……。
あばばばば!!
でもこれも、全ては何事もなく剣聖様をお出迎えするため!
「ここはやむを得ません」
私はそう自分に言い聞かせた。
その後も走り続けた私達は、結局誰とも会うことなく私の部屋にたどり着けた。
「はぁはぁ…とりあえずこの部屋で隠れていてください。私にはやらなくてはならないことがあるのでもう行きます」
「わかった、ありがと」
「絶対にこの部屋から出てはいけませんよ!」
突然現れた謎の少女。
本当なら屋敷から追い出したほうがいいのかも知れないけれど、困っている人を放ってはおけない。
私は私物が盗まれたりするリスクも覚悟の上で、彼女を部屋に残し応接間へと戻った。
それからすぐのこと、お母様が少し渋い顔をして戻ってきた。
剣聖様は相変わらずやって来ない。
「……アリス、ちょっと聞きたいことがあるのだけど」
「何ですか、お母様」
「……ここに誰か来ませんでしたか?」
鋭い問いかけに私は一瞬体を強張らせる。
お母様はその一瞬を見逃しませんでした。
「特に誰も来てないですよ」
「ではその額の汗は何でしょう」
「こっ、これは少し部屋が暑くて……」
走って火照った体は若干の汗を馴染ませていた。
でも、ある程度はしっかり拭き取っていた筈なのに!
「あなたが大好きなハーブティーはあれから少しも減っていないようですね」
「緊張のあまり喉が渇いてなくて……」
嘘だ。
私がどれだけ喉が渇いていないとしても、このハーブティーならば百杯はいける。
「では肩についたその埃は何でしょう」
「こっ、これは、その……」
さっきソファーから転げ落ちた時についたものだろう。
焦るあまり服の汚れなど気にしている余裕は無かったのだ。
まずい。
徹底的に追い詰められている。
もはや私は袋の鼠だ。
私の全神経が警報を鳴らしている。
先ほどから冷や汗が止まらない。
緊急事態である。
「あっ、剣聖様!」
私はここで逃げの一手を打った。
お母様の視線を私から逸らして、ここからの逃走を図ったのだ。
お母様は作戦通り誰もいない背後を振り返った。
その隙に、私はソファーから駆け出した。
上手くいった、逃げられる、そう思った。
お母様に首根っこを掴まれるまでは……。
ガシッ
「あらアリス、どこへ行くの?」
「おかあしゃま……」
あぁ、終わった。
私は直感的にそう悟ると、生まれたての子鹿のように体をぷるぷると震えさせたのだった。
「はぁ、では剣聖様は今あなたの部屋にいるのですね?」
「ぐすっ、はぃ」
「迎えに行きますよ」
「はぁぃ」
私はお母様にことの成り行きを全て話した。
実は謎の少女こそが剣聖様だったらしい。
お母様がお付きの方に聞いた話では、剣聖様はその幼さのあまり、おふざけで逃げ出してしまう事が度々あるそうだ。
それを知った時には驚いたが、何故だか妙に納得もしていた。
「アリス、今回の件に関しては後でみっちりお話ししましょうね?」
「わかりました……」
お怒りのお母様は本当に怖い。
いつも優しいお母様でいてほしいのに。
……まあ、全部私が悪いことはわかっていますけど。
そんな事を考えているうちに、私の部屋にたどり着いた。
いつのまにかお父様も一緒にいる。
その後ろには、知らない男性と女性も立っていた。
多分さっきお母様が言っていたお付きの方々だろう。
特に気にすることもなく、私は部屋の扉を開けた。
そこには……
「「あっ」」
私のベッドに腰掛けながら、ハーブティーと一緒に食べようととっておいたクッキーを勝手に食べている黒髪少女。
ものを盗んだわけでもないようだし、まあこれくらいなら別に……。
私は苦笑しながらも謝った。
「ごめんなさい、バレちゃいました」
「ん、だいじょうぶ」
頰にクッキーのカケラをくっつけて舌足らずにしゃべる様子に少しキュンときて、私はちょっとだけ頬を染める。
一方、ベッドに腰掛けていた少女は、そんな私の反応に首を傾げながらも特に気にすることは無かった——。
これが私達の物語のプロローグである。
この出会いは、後に世界を大きく動かすことになる……なんて大それたお話があるわけでもないのだけど。
それでも、少なくとも私にとっては、この出会いが人生でとても大きな出来事だったというのは、言うまでも無かった。
すーっ、やらかしました。
予約投稿で書き溜めていこうと思っていたのに、気がついたら投稿されちゃってましたっ…!!
また書き溜めてから改めて本編を続けていこうと思うのでよろしくお願いします!