ラジオの声
私の側には古びたラジオがあった。
いつからあるのかは思い出せないが、小学生の頃にはもう側にあったと思う。母に聞いても、ラジオが私の元に来た経緯は一切わからなかった。
『死ね』
『出来損ない』
『役立たず』
ラジオから次々と流れるのは、私が今までの人生で出会ってきた人達の声だ。
小学校の同級生なんて十年以上姿も見ていないのに、未だにラジオを通して私の心を傷つけてくる。
幼い頃に両親に相談したが、ラジオの声は私にしか聞こえないのか「幻聴だ」と吐き捨てられた。
ラジオを止めようとした事もあるが、電源コードや電池もない。完全に電気を使わずに自動で動いていた。
私が何処にいようと関係無しに目の前に現れるラジオ。近所のゴミ捨て場に捨てても、庭に埋めてみても、ラジオは私の側に戻ってきた。
ラジオから流れる言葉はどんどん酷くなる。そして、ラジオは私の未来を壊す力まで手に入れた。
楽しい事があった時も『どうせすぐに痛い目に遭う』とラジオが言えば、散々な事が起きた。
好きな人と付き合えた時も『どうせすぐに捨てられる』と言われると、二股されて捨てられた。
就職活動の時も『まともな会社はお前みたいなダメ人間を採用しない』とラジオに言われて、三十社以上落ち続けた。
何とか就職出来た時も『どうせ失敗して皆に嫌われる』と言われれば、その通りになって孤立した。ブラックな職場だったという事もあって、たった四ヶ月で会社を辞めてしまった。
二十年以上生きてきたのに何も手に入れられていない私を、ラジオは嘲笑う。
『お前の人生は惨めだ。何をしてもうまく行かない。だから、死んだ方がいい』
「もう嫌だ!!」
部屋の隅で蹲っていた私は、ラジオから流れ続ける言葉の暴力に耐え切れなくなった。
このままでは、私の人生はラジオに支配されてしまう。
どうにかしなければと考えた私の頭の中に海の映像が浮かんだ。
電車で五駅行けば海がある。海の中に沈めてしまえば、流石にラジオも戻って来れないだろう。まだ二十一時で電車は動いている時間だ。私は鞄とラジオを抱えて家を飛び出した。
夏の匂いが鼻を掠める。電車の中は日曜日の夜という事もあってか、人が少なくてホッとした。メイクもせずに着古した部屋着とサンダル、ボサボサ髪でラジオを抱えて座る私は、さぞかし変人に見えるだろう。
『恥ずかしい奴』
『ちゃんと人並みに生きられないのかよ』
私はラジオを抱え込んで音を抑えようとする。万が一、ラジオの声が周りの人に聞こえて迷惑をかけてしまうと思うと怖かった。
『わかっていないな。お前は生きているだけで迷惑なんだよ』
ラジオの声に言い返せない悔しさに下唇を噛み締めながら耐え続ける。
目的の駅で電車を降りて改札口を抜けると、外灯がポツポツとしかない暗い夜道が続いていた。恐々と進んでいくと、次第に波の音が聞こえて潮の匂いを感じた。
近くの砂浜には、花火を楽しんでいる男女の姿が見える。私は砂浜沿いの道路を歩いて、誰もいない静かな場所へ移動した。
柔らかい砂浜の上に立つ。
黒く濁っている夜の海を見つめていると、引き摺り込まれてしまいそうな気がして怖かった。私は鞄を砂浜の上に置き、数歩前に進んで海に近づく。
戻ってこれないように、出来るだけ遠くに投げなければいけない。
ドクドクとうるさい鼓動を感じながら、震える両手でラジオを頭上に掲げる。私はギュッと目を瞑って腕に力を込めた。
「ねえ。何をしているの?」
背後から聞こえた声に驚いて目を見開く。背中に感じる人の気配とライトの明かりに、一気に冷や汗が噴き出した。
ここにきて、ようやく自分の行動が不法投棄という犯罪に当たる事に気づいたのだ。
「ねえ、聞こえてる?」
躊躇いながらもチラリと横目で振り返る。ケイタイのライトでもぼんやりとしか姿は見えないが、声からすると若い男性だろう。
私は腕を下ろしてラジオを抱え込み、視線を彷徨わせる。走って逃げたいが、鞄が男性の足元の近くにあった。
「まさか、自殺する気?」
「ち、違います!」
私は慌てて否定する。
『死ねばいいのに』
ラジオの言葉に息を呑む。聞こえないようにスピーカー部分を腕で覆うが、音はどんどん大きくなっていく。
『死ねばいいのに死ねばいいのに死ねばいいのに』
大音量で流れ続ける言葉に、顔が引き攣った。
「どうしたの? もしかして、具合悪い?」
私は首を横に振る。男性は黙ったまま、私が答えるのを待っていた。無言に気圧された私は、上手い言い訳も思い浮かばないまま口を開く。
「ラジオを捨てようとしていたんです」
「ラジオ?」
首を傾げる男性に、私は抱えていたラジオを見せる。男性は眉を寄せた後、私の顔を見て黙り込んだ。
沈黙に気まずさを感じていると、ケイタイの着信音が響く。男性は手にしていたケイタイを操作した後、私を見た。
「とりあえず、ついておいで」
「え? あ、あの……」
「変な事を考えてる訳じゃないから安心して。僕はそこのカフェの人間だ。お茶くらいならご馳走してあげる。この辺り、夏にはあまり良くない人がうろつくから、帰るならタクシーの方がいい。タクシーを待つ間に店で休憩していいから」
男性が指差した方向には、砂浜沿いに設置された外灯の明かりに照らされた小さな平屋建ての建物があった。閉店しているのか、店内の明かりは見えない。私が躊躇っていると、男性は苦笑した。
「断ってもいいよ。でも、君は何か悩みがあるんでしょう? 解決しなくても、誰かに話す事で少しはスッキリするんじゃないかな?」
普通なら断るだろうが、少しでも楽になりたかった私は無意識に頷いていた。
私は鞄とラジオを抱えて、少し距離を空けながら男性の後ろを歩いた。
店の前に辿り着くと、一人の青年が店の前に足を放り投げて座っていた。
目が隠れる程の長い前髪と寝癖が爆発したボサボサ髪。体は細く、ブカブカの白いTシャツと黒のワイドパンツの緩い服装。見た目からして、まだ高校生くらいだろう。
「おっそーいっ! 腹減ったぁ!」
「はいはい。ごめんね。ほら、お客さんもいるから退いて」
「お客さん?」
青年は、ようやく私に気づいたようだ。私が会釈をするより早く、青年がニコニコと笑いながら手を振った。
「初めましてー。俺は野良。お姉さんと同じお客さんだよー」
「お客さんじゃなくて、タダ飯食いの男子高校生でしょ」
男性は野良の頭をコツンと軽く叩いた後、私を振り返る。
「そういえば、僕も名乗っていなかったね。僕は飯屋崎。この店の店長だよ」
「覚えにくいから、”飯屋”って呼んでいいよー」
「それは野良が言う事じゃないからね。まあ、好きに呼んでくれて構わないよ」
私も名乗った方がいいのかと悩んでいると、飯屋崎は追求することなく、鍵を開けて店の扉を開いた。
「とりあえず、中へどうぞ」
「おじゃマンボウ♪ とりゃあ!」
「こら! ソファにダイブしないの!」
野良は窓際にある緑色のソファの上に寝転がった。立ち尽くしたままの私に気づくと、野良は対面のソファを指差す。
「お姉さんも、そこの席に座っていいよぉ」
私はソファに座った後、店内を見渡す。清潔感と木材の温かみを感じる店内は、男女問わず落ち着ける場所だろう。
飯屋崎は客席からも見えるキッチンへ移動する。
明るい所で見ると、飯屋崎はモテそうな顔立ちをしていた。年齢は二十代後半くらいだろう。背も高く、紺色のシャツと黒のスラックスがよく似合っている。少し垂れている目元が優しそうで、親しみを感じた。
エプロンを身に着けた飯屋崎と目が合うと、にこりと微笑まれる。
「何飲みたい? 紅茶、コーヒー、自家製のレモンジュースもあるよ」
「えっと、紅茶で」
「ホット? アイス?」
「あ、ホットで」
野良は体を起こすと、上機嫌で手を挙げた。
「はい! 俺はハンバーグとミートソーススパゲッティがいい!!」
「野良の今日のご飯は、ツナと小松菜としめじの和風スパゲッティです」
「ええー」
「嫌ならご飯抜きね」
野良は頬をぷくりと膨らませて黙った。
飯屋崎がキッチンで作業する音だけが店内に響く。
どうしたらいいか分からずに居た堪れない気持ちでいると、飯屋崎が「野良」と声を掛けた。
「その子の話相手になってあげてよ。野良の好きな相談事かもしれないよ」
ソファの上でゴロゴロしていた野良は勢いよく起き上がる。ボサボサの髪の隙間から見えたキラキラした猫目が、私を見つめた。
「何? どんな悩みを持ってるの? 変な事でも遠慮なく言ってよ。むしろ、変な悩み大歓迎!!」
野良の勢いに引きながら、救いを求めて飯屋崎を見る。
まさか、自分より年下の男の子に相談しろと言うのだろうか?
話した所で解決は出来ない上に、いい歳した大人が何を言っているんだと馬鹿にしてくる可能性が高い。
不信感を察知したのか、野良は苦笑した。
「自分とは全く立場が違う第三者視点だからこそ、見えるものがあるかもよ? それに、お姉さんの日常に関係の無い人間なら、変人だって思われたって何の害もない。俺はよく変人だって言われるから、変な事を相談するには打ってつけの相手じゃないかな」
野良は私の膝の上のラジオを指差す。
「お姉さんが持っている物に何か関係しているの?」
ラジオを抱え込んでいる力を少しだけ強めた。話すか踏ん切りがつかずに俯いていると、目の前のテーブルがコトリと音を立てる。
「紅茶と、おまけのマドレーヌ。売れ残りだから、お腹空いているなら食べちゃってくれると助かるな」
オシャレなカップに注がれた紅茶と皿の上に載った二つのマドレーヌに、少し気分が上がる。
カラカラになった喉へ紅茶を流し込むと、緊張が解れるのを感じた。
私は思い切って口を開き、不気味なラジオに苦しめられ続けている事を野良に話した。
「このラジオは、ずっと私の死を望んでいるんです。もう、このままじゃ頭がおかしくなりそうで……」
ラジオは、今も私を糾弾している。
野良は運ばれてきたスパゲッティを口に頬張りながら私をジッと見つめる。野良の反応を恐れて、私は俯いた。
「すみません。やっぱり、変ですよね。こんな心霊現象みたいな事、信じられませんよね……」
ラジオから怖い声が聞こえると主張した私を煩わしそうに見る両親の目を思い出す。悲しかった思いがブワリと蘇って息が詰まった。それから、私はずっと……。
「ずっと誰にも言えずに耐えてきたんだね。辛かったね」
私が顔を上げると、野良は優しい微笑みを浮かべていた。野良の言葉がジワジワと胸に広がり、私の目に涙が滲んだ。
そうだ。私は、ずっと辛かった。
どうして、自分がこんな目に遭うのか。何故、誰もわかってくれないのか。
一回だけでも傷ついた言葉を、繰り返し聞かされる苦痛。
あの人達が簡単に口にした酷い言葉に、何故こんなにも長い間苦しめられ続けなければならないのか。
「お姉さん。俺ね、お姉さんと同じ事に悩まされている人に会った事があるよ。お姉さんがおかしいわけじゃない。お姉さんのラジオは、れっきとした心霊現象だ。そして、起こっている理由がちゃんとある」
私は野良の言葉の意味が飲み込めずに固まった。理解した瞬間、私は両手をテーブルに付いて前のめりになる。
「それって、一体」
「まあまあ。これでも食べて落ち着いて」
野良はスパゲッティに添えられていたプチトマトを私の口に押しつける。口の中に半分以上入ったので、私は仕方なく咀嚼して飲み込んだ。
「こら! 野良! 好き嫌いしないで、トマトも食べなさい! 栄養あるんだから!」
「体が拒否している食べ物に栄養なんてないよー。食べられる量に限りがあるんだから、美味しい物で栄養とった方がいいじゃん」
嫌いな物を押し付けられた事に複雑な思いになる。私の表情に気付いたのか、スパゲッティを口にしようとした野良は苦笑してフォークを下ろした。
「ごめんって。お詫びにちゃんと話すよ。まず、お姉さんが聞いているラジオの声は、実体のない亡霊達の声だよ。そいつらは、お姉さんを苦しめる事で、お姉さんの世界の中に自分達の存在を得ようとしているんだ」
「亡霊って、……相手は生きていると思うんですけど」
意味がわからずに首を傾げると、野良は自分自身を指差した。
「お姉さんは今、俺が見えるよね?」
何を当然な事を聞くのかと戸惑いながらも、私は頷く。
「一時間前に俺の姿は見えた?」
私は首を横に振る。野良と出会って、まだ三十分も経過していない。
「そうだね。俺はお姉さんの世界では、二十五分前に生まれたばかりだから。んで、店を出て見えなくなると、俺はお姉さんの世界から消える」
「え? は?」
意味がわからずに顔を歪める私を見て、野良はニコリと笑った。
「俺はね、俺の世界では十七年生きてきた。けど、お姉さんの世界に登場したのは二十五分前。それまで、お姉さんの世界では俺の存在は”無かった”事になっている。俺の世界にも、お姉さんは存在していなかった」
野良の目がスッと細くなる。
「物も人も、全て誰かが認識しないと存在出来ない程に曖昧なモノなんだ。自分の見えている世界が全部。それ以外は”無い”んだ」
「ちょっと待って! 何か、話が変な方向に進んでる気が……」
混乱する頭を押さえながらストップを掛ける。これ以上聞いたら、こんがらがってしまいそうだ。
野良は最後の一口のスパゲッティを口に頬張って咀嚼した後、満足そうに息を吐いた。
「要は、お姉さんが認識しない限り、存在出来ないモノだって事」
「……それが、亡霊?」
「正解! わかってるじゃーん」
「でも、ラジオから聞こえる声は、私が前に会った人達で……」
あやふやになっているけれど、確かに存在していた記憶がある。亡霊と言われても、納得出来ない。
「うん。確かに、お姉さんの世界に存在していた。そして、酷い事を言ったのは間違いない。その人達は、お姉さんに関心を持っていたんだよ。だから、傷付けた」
「……何で関心があるから傷つける事になるの?」
「曖昧な存在だから、関心を持った相手に自分の存在を認めてもらいたい欲求が働くんだ。好意だったり、悪意だったり様々だけど。行動したり話したりして、その人の中に自分の存在を安定させようとする。悪口を言うのは、自分の存在に自信がないから。誰かを傷つけて他人の世界の中に自分の存在を得ようとするんだ。人は無視されるのが一番辛いって言うけど、どうしてだと思う?」
「……自分が『無いもの』にされるから?」
昔、無視された時は、本当に怖かった。自分が空気となって、足元がぐらついて。自分が何処に立っているかも分からなくなった。
「そう。人は認識する事で存在出来る。自分が”有る”と思う存在に、自分を”無い”ものにされると、自分の存在が揺らいで怖くなるんだよ」
「でも、そんな簡単に、存在が消える訳が……」
野良は私の前に置かれた皿からマドレーヌに手に取り、口の中に放り込んでニッと笑う。
「ほらね。このマドレーヌみたいに、存在って簡単に世界から消えてしまうんだよ」
「あ……」
確かに存在していたマドレーヌが、数秒で消えてしまった。野良の言いたい事が少しだけ分かって、理解を拒否していた脳内に光のように差し込む。
野良がもう一つのマドレーヌに手を伸ばす。私は慌ててマドレーヌを手に取って口に運んだ。卵とバターの優しい味わいと甘さが口に広がる。野良の残念そうな顔を見ながら、幸せな気分で咀嚼した。
「今マドレーヌ消したように、お姉さんは自分の意思で自分の世界に不要なモノを消す事が出来る。もちろん、殺人とか物騒な事じゃないよ。拒絶すればいいだけの事。そのラジオもね」
野良に指差された事で、今までラジオの存在を忘れていた事に気づいた。
「でも、ラジオから聞こえる声の音量は変えられないの。だから、無視をする事は私には難しい……」
「ラジオの存在を消せないなら、聞こえる言葉を変えればいいんだよ。それなら、簡単に出来る」
「ど、どうやって?」
野良はジーンズのポケットからケイタイを取り出して操作する。野良が見せてきた画面には、古いラジオの画像あった。
「よく見て。ラジオには、チャンネル合わせる為のスイッチみたいな物が必ずある。それで、チャンネルを変えればいいんだよ」
チャンネルという物があった事も知らなかった私は、改めてマジマジとラジオを見る。表面には、音が出るスピーカーしかない。やはり無いかと諦めようとした時、野良がラジオの上部を指差した。
「ほら、ここ。小さくて気づかなかったと思うけど、今見せた写真と同じようにスライドしてチャンネル変えるスイッチがあるよ」
「あ!」
私は目を見開く。今まで全く気づかなかったが、確かに写真と同じ小さなスライド式のスイッチがあった。
野良はニコリと笑う。
「ラジオには、お姉さんが今まで生きてきた中で出会った人達の言葉が詰まっていると思うんだ。悪口の印象が強すぎて、受け取れていない好意の言葉達がラジオの中に有る。スイッチを切り替えて、そっちに周波数を合わせてみて。お姉さんと同じ悩みを持った人も、それで解決出来た。つまみを横に動かすだけだから、お姉さんにも簡単に出来る」
私は恐々しながら、指先でつまみをゆっくりと横に動かす。
「今、悪口が遠のいたね」
野良に言われてみれば、確かに亡霊達の声が遠くなってきた。私はドキドキしながら、つまみを更に横へ動かす。
「あ! ちょっと戻ってみて。今、”ありがとう”って言っている女性の声が聞こえたよ」
「え!?」
私は慌てて、つまみを少しだけ戻す。確かに女性の聞こえた。
「聞こえた? 一個だけじゃなくて、もっと沢山聞こえる筈だよ。耳を澄ませてみて」
『いつもありがとう』
『あなたがいてくれて助かったよ』
『生まれてきてくれて、ありがとう』
お客さん、友達、家族から貰った温かい言葉がラジオから次々と流れ出す。じわりと胸が温かくなった。
「お姉さんは聞きたい声を選んでいいんだ。聞きたく無い声は拒絶する権利があるんだよ」
今まで悲しい言葉に踊らされて、大事な言葉を蔑ろにしてしまっていた事に気づく。
憎くて捨てたくて壊したかった存在に愛しさを感じて、私はラジオを抱きしめた。
***
電話で呼んだタクシーに乗って帰って行った女性の姿を見て、飯屋崎は安堵する。
買い出しの帰りにフラフラと砂浜を歩く女性の姿を見て、自殺する気かと思って慌てて声を掛けた。
女性の憔悴しきった顔を見た時、野良の事を思い出した。以前も悩みを抱えている人が野良と話して表情が変わった事があったので、少しでも和らげられたらいいと思って店に連れて来た。
帰り際に見た彼女の目には、少しだけ前向きな光を感じた。これからどうなるかは分からないが、笑顔が増えて楽しく生きてくれるといい。
飯屋崎は食器を片づけながら、チラリと店内を見る。野良はソファに寝転がって洋楽を口ずさんでいた。
「ねえ、野良。僕には見えなかったんだけど、あの子が言っていたラジオって本当にあったの?」
飯屋崎には、ラジオが見えていなかった。
女性が心に病を持っていて幻覚を見ているのかと思ったが、二人の会話からすると、本当にラジオがあったのだろう。
野良は起き上がると、飯屋崎の不安そうな顔を見てケラケラと笑った。
「ラジオはあるよ。お姉さんの世界にはね。でも、飯屋の世界にはない。飯屋がおかしくなったわけじゃ無いから安心してよ」
「どういうこと?」
「言ったでしょ? この世界の存在は曖昧なんだって。俺らの見ているもので、何が正しいかなんて分からないんだ。その人の認識しているものが、その人の世界にあるだけ」
混乱する飯屋崎を置いてけぼりにして、野良は話を続けた。
「俺らは、自分の世界を自由に創造できる。あの子は、自分の世界に『怖いラジオ』を作り上げたんだ」
「ちょっと待ってよ。そんなこと」
「出来る訳がないって思うから出来ないんだ。飯屋の世界では、それが常識なんだよね。でも、俺の世界では出来る。だから、俺はお姉さんが持っているラジオを見る事が出来た。そして、お姉さんの世界のラジオに干渉したんだ」
「どういう事なの?」
「写真と言葉で誘導して、ラジオのチャンネルのスイッチをお姉さん自身に作らせたんだよ」
実物の写真と、”ラジオには必ずチャンネルを変えるスイッチがある”という言葉で、ある物だと思わせる。”同じような経験をした人が解決したから”という言葉も効果があったと、野良は笑った。
「でも、電源コードや電池の話はどうなるの? あの子もラジオにある筈と思って探したって言ってたじゃない? 野良の言葉が本当なら、それもあるんじゃないの?」
「それは、お姉さんが”普通のラジオじゃない”って認識だったからだよ。ひとりでに自分の悪口を言い続ける怖いラジオを作り上げた。そうした方が都合がいいから」
「待ってよ。それじゃあ、まるで彼女が悪口を聞きたかったみたいじゃないか」
「そうだよ。お姉さんは自分から選んだ。他人の悪口を信じて、”自分なんて”って責める方が楽だったんだよ」
野良は肩を竦めて眉を下げる。
「自分と自分の世界を信じる事が怖いから、期待しなくていいように、行動しなくて済むように、亡霊の言葉を信じちゃうんだ。自分自身の世界で認められないから、他人の世界で認めてもらおうと一生懸命になる。そうして、いつの間にか、自分も同じ亡霊になっちゃうんだよ」
「……なんか、霊というより、心の問題に聞こえるんだけど」
「そうだね」
「ちょっと!? 何で心霊現象なんて言ったの!? 僕、野良の話を聞いてて結構怖かったんだけど!」
「俺は心霊は心の問題だと思ってるから。実際、お姉さんのラジオはお姉さんには見えてたけど、飯屋には見えてなかった。見えないものが見えるって、霊と同じじゃん。れっきとした心霊現象でしょう?」
飯屋崎は言い返す言葉を見つけられなかった。しかし、このまま黙っていると、野良のペースに飲み込まれそうで、苦し紛れの問いを口にする。
「でも、何でラジオだったの? テレビとかじゃなくてさ」
「それは、お姉さんしか答えを持っていないけどね。俺の推測では、お姉さんにとって、ラジオが曖昧な物だからだと思う」
「曖昧な物?」
「テレビだと身近にあるから操作も理解出来るけど、ラジオはお姉さんの中では『人の声が聞こえる物』というだけで、操作方法は知らない程に曖昧な物だった」
野良が「ラジオにはチャンネルがある」と説明をした時、女性は首を傾げていた。飯屋崎もだが、ラジオに触れる機会の少ない人間からしたら、操作方法やラジオのチャンネルの存在を知らなくてもおかしくない。
「人間は、曖昧なものほど怖いんだよ。未来とか、心霊現象とか。そして、都合がいいんだ。怖いから動かなくていい、知らない方がいいって言い訳が出来る。『自分を責める声が聞こえる怖い物』として扱いたいお姉さんには、ラジオがピッタリだったんだろうね」
野良は再びソファに寝転がって、ゴロゴロし出す。
「曖昧なものは怖い。でもさ、そもそも多くの人が見ていると思っている『現実世界』が正しいかなんてわからないんだよ。今見えているものは全部虚像で、生きている人間は誰一人いないかもしれない」
野良は口角を大きく引き上げて、怪しく笑った。
「ねえ。この世界は、自分は、本当に存在していると自信を持って言える?」