第十八話
俺は、母の望んだ特待生として高等学校に進学した。
母は、制服姿の俺を愛おしそうに見つめては、抱きしめてくれた。その頃には、俺はすっかりと背が伸びて、大人の男性に身体が変化し始めていた。
ある晩、母さんが言った。
「誠一郎さん。」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
けれど、母さんの瞳は真っ直ぐに俺に向けられていて、自分が呼ばれたのだと分かった。
「………….。」
俺は声を出さなかった。
ただ、母さんに微笑み返してあげた。すると、母さんの瞳からはポロポロと涙が零れた。
「誠一郎さん。抱きしめて。」
言われるがまま、俺は母さんを抱きしめる。
それは、空が朝焼けに染まるまで求められた。
その晩から、毎夜この儀式は行われた。
「誠一郎さん、どうして結婚してしまったの。」
「誠一郎さん、どうして会いにきてくれないの。」
「誠一郎さん」
「誠一郎さん」
「誠一郎さん」
そして、決まって言うのだ。
「誠一郎さん、愛してる。」
俺は、ひたすら耐えた。夜明けが待ち遠しかった。
叫びたくなる衝動を必死で堪えた。
どうしても、言いたくなったのだ。
「母さん。俺の事は愛していないの?」
言いたかった。でも、言えなかった。
表情で微笑みを作るうちに、俺の心はなくなった。
けれど、そんな日々も長く続かなかった。
7月のある朝、母さんが随分と久しぶりにエプロンをつけて台所に立っていた。俺は驚いて、まだ寝ぼけているのかと自分の頬を思わずつねってしまった。
「おはよう、誠ちゃん。」
母さんは久しぶりに、俺を呼んだ。そして、固まる俺を笑って、ダイニングデーブルへと座らせる。
「久しぶりに、林檎を剥いてみたの。」
その手には、懐かしい果物ナイフが握られていた。
目の前に、ウサギさんの形で綺麗に切り揃えられた林檎が置かれる。懐かしい、幼い日に病室で食べた林檎だった。
「どうぞ、召し上がれ。」
そう言って、母さんは俺の頭を撫でた。
その手は、あの日の母さんの手だった。
「…いただきます。」
俺の目からは、もう涙は流れない。
けれど、情けなく声は震えてしまった。それを誤魔化すように林檎を頬張る俺を、母さんは、ただ見つめていた。
「ごめんね、誠司。」
不意に、静かな声が部屋に響いた。
それが、母さんの最後の言葉だった。
その日の夕方、俺が学校から帰って来ると、母さんは死んでいた。浴槽で自分の首を切って、呆気なく死んでいたのだ。
手に握られていたのは、あの果物ナイフだった。
浴室は、赤く赤く染まっていた。
リビングには、一冊の雑誌のインタビューページが開かれたまま置かれていた。そこには、とても幸せそうな親子が写っていた。
『自慢の我が子です。この子さえいれば、他には何も要らないくらい、可愛い子です。』
小学生くらいの子供と写っている男は、俺のお父さんだった。優しく微笑み合い、本当に、幸せそうな姿がそこにはあった。
母さんは、幸せではなかったのにー…。
その瞬間、ずっと何も感じられなかった俺の心に、強烈な殺意が沸騰した。それは、随分と久しぶりに感じた、確かな自分の感情だった。
「俺は大切な母さんを奪われた。俺も、貴方の大切なものを奪ってやる。」
俺は、死に物狂いでターゲットの情報を調べた。時には直接後をつけて、行動を確認した。
そうして、母さんの火葬が済んだ後、ついに決行する日を迎えることとなる。