第十五話
「いつか、お父さんが迎えに来てくれるからね。」
それが、母さんの口癖だった。
物心ついた頃から、ずっと母さんと二人暮らしだった。正直、お父さんがいなくて寂しいとは思わなかった。優しい母さんがいてくれれば、それだけで十分だった。けれど、俺は喘息持ちで、幼い頃はよく入退院を繰り返して、母さんに迷惑をかけた。
喘息は、すごく苦しかった。
でも、病室で母さんが果物ナイフで丁寧に向いてくれる林檎はたまらなく大好きだった。
母さんは、とても優しい人だったが、俺の名前を呼ぶときはとびきり愛おしそうに頬を緩めていた。
誠ちゃん。誠司くん。
何度も何度も名前を呼ばれた。
「ほら、これが誠ちゃんのお父さんよ。」
ある日、病室で、母さんが嬉しそうに見せてくれたのは一冊の医療雑誌だった。
『医薬品業界 期待のホープ!櫻葉 誠一郎』
そこには、とても優しそうに穏やかに微笑む男性が写っていた。その顔は綺麗に整っており、同性の自分でも格好良いと思ってしまった。
「こんなに格好良い人が、俺のお父さんなの?」
「えぇ、そうよ。今はお仕事がとても忙しいから、私達に会いに来れないの。でも、落ち着いたら、必ず迎えに来てくれるからね。早く一緒に暮らしたいね。」
そう言って微笑む母さんの顔を見て、子供ながらに母が恋をしていることが分かった。お父さんの写真を指でなぞる母さんの横顔はとても綺麗だったから。
俺はお父さんに期待した。
お父さんはどんな人なのだろう。
きっと母さんがこんなに大好きな人なのだから、とびっきり優しい人なのだと思った。
一緒に暮らしたら、俺と遊んでくれるかな。
休日は、お出かけに連れて行ってくれるかも。
何より、お父さんを待っている母さんのためにも、早くお父さんと暮らしたいと強く思った。
時が流れ、俺の体は成長と共に少しずつ強くなっていった。小学生になる頃には、もう咳き込んで入院することも少なくなり、元気に外で遊べるようになっていた。
母さんがパートに出ている間は、一人で留守番をすることもあったが、そんなのは平気だった。きっと、もうすぐお父さんと暮らせると思っていたから。
そんなある日の事だった。
小学校から帰り、アパートの階段を登っていた時だった。
パリーンッ!!!
何かが割れるような大きな音が聞こえてきた。
アパートの自分の部屋からだった。
俺は走った。急いで鍵を開けて中へ入る。
すると、リビングで母さんが蹲っているのが見えた。
「かあさんっ!!!」
床には、昨日まで壁にかけてあった鏡が割れ落ちて、一面に破片が飛び散っている。蹲る母さんの顔は見えず、栗色の長い髪が床について広がっていた。
「かあさん!かあさん!どうしたの!?大丈夫!?」
母さんの体はブルブル震えている。俺は、必死で母さんの背中をさすった。
その時、何かが聞こえて来た。
「ゆるさない…。ゆるさない…。ゆるさない…。」
一瞬、それが母さんの声だと分からなかった。
今まで聞いたことのない、ゾッとするほど低い声だったのだ。
「ゆるさない…。うそつき、うそつきー!!!」
母さんが目を見開いて俺に掴みかかってきた。髪を振り乱して俺を押し倒す。強く打ちつけた背中を痛がる間もなく、母さんの細い指が俺の首に食い込んだ。
「貴方が子供が欲しいと言ったから子供を産んだ!貴方が待ってくれと言っていたから待っていた!なのに…、なのに。どうして、結婚したの?」
乱れた髪の隙間から見えた母親の目は正気じゃなかった。
食い込む指に息が出来なくなる。たまらなく苦しくて、母さんを呼んだ。
「か、かぁ…さん……。」
ハッとしたように母さんが手を離した。
「…せいちゃん?」
すると、慌てて手を離し、今度は俺を起こして力一杯抱きしめた。
「あぁ、ごめんね!ごめんね!大切な誠ちゃん、誠一郎さんの誠ちゃん。私の大切な誠司。」
この時、俺はわかった。
もう、ずっとずっと。随分と前から。
母さんはすでに正気じゃなかったのだ。