第32話 苦渋
「心臓が……ないだって……?」
驚く丹敷を差綺が振り向く。
「丹敷……君の首元に刻んだ印……何があっても絶対に捨てないでね」
「おい……なんだよ……差綺……お前、何言ってんだよ……」
「約束だよ」
丹敷を見ながらそう言うと差綺は、穏やかに笑った。
差綺の言葉を聞く俺は、差綺の覚悟は決して揺らぐ事はないんだと分かってはいたが、やはり簡単に受け入れる事は出来ない。
心臓に宿し力を持つ者……その心臓を掴む事が出来たなら、覆せると思っていた。
だが……来贅を貫いた俺の手は、来贅が背にする地面に届いている。
それでもこいつは死ぬ事はない……。何処に……隠した……。
来贅に触れた時に感じた呪術師たちから奪ったものも、その響きさえ伝わらなくなっていた。
差し出したのは心臓……それならば来贅の中になかったとしても不思議はないが、だがこいつは差し出しただけじゃない。
その力を宿し、その心臓も持ったままだ。だからこそ死ぬ事はないのだろう。
例え何処にあろうとも、その権利は自分にある。
考えが次々に頭の中を巡ったが、ゾッとする程の力だと感じた。
やはり……こいつに敵う術は……人体に特化する……。そんな思考が浮かぶと同時に、俺は頭を横に振った。
「貴桐さん」
俺の様子に気づいた差綺は、俺の浮かんだ思考を止めるように、にっこりと笑って見せた。
「大丈夫だから。必ず、取り戻せるから。それまで……許してよ」
「差綺……」
やはり俺が納得しない事は、分かっているのだろう。
……大丈夫。
その言葉を聞くのが……辛くなる。
「説教はその時に聞くから、ね?」
「馬鹿言うな……」
「僕の呪術は人体に特化する……それは貴桐さんも分かっているでしょう? だから……僕でなくちゃ、ダメなんだ」
「……差綺……」
差綺は、初めから分かっていた。だからこそ自分に出来る行動を取り続けていた。網を張り、干渉し、その時を覚悟しながら。
「ずっと狙われ続けるなら、自分から的に入った方が動きが取り易い。相手にとってはそれが的外れってあるでしょう?」
「お前……」
「僕でなくちゃダメだって言ってよ、貴桐さん」
向けられるその目は、真っ直ぐで、正直で、偽りなど一つもない。
だが……俺はやはり頷けなかった。
「……掛けるのか」
敢えて何を掛けるのかを口にしなかったが、差綺は頷く。
聞こえているのか、聞いてはいただろう、目を閉じていた来贅が目を開けた。
「……貴桐……やはりお前は何も……」
来贅の手が俺の手をグッと掴んだ。
「分かっていないようだな」
「咲耶っ……!」
「はい」
俺の呼び声に咲耶が動く。
咲耶は、俺から差綺を遠ざけようと差綺へと手を伸ばす。
だが差綺は、更に網を重ね、赤い光を放つと俺も含めて咲耶を弾き飛ばした。
「差綺っ……!」
俺の叫びにも差綺は穏やかに笑った。
その表情に、納得は出来てはいないが、差綺の思いを受け止める事に歯を噛み締めた。
「おい……! なんでだよっ……! 差綺っ……!」
丹敷が叫ぶ。
差綺の張った網を来贅が掴んだ。
来贅は、まるでこの時を待っていたかのように、ニヤリと笑みを見せる。
俺が貫いた来贅の胸元に、差綺が引き込まれていく。
「約束だからね、丹敷。君がいれば……僕は……」
来贅の中に取り込まれていく差綺を丹敷が追うが、俺は丹敷の腕を掴んで止めた。
これが……望まないものを掴む……タブーだ。
「なんでだよっ……! 離せよっ……! 差綺が……離せえーっ……!!」
差綺の姿が消えると同時に、差綺が残した言葉は、丹敷に届いただろうか。
「存在しているのと同じだから」