第31話 欠落
「奇跡……」
来贅の言った言葉を、俺は呟いた。
何故、こいつがそんな言葉を言ったのか、それは来贅自身がそれを表しているからだろう。
追い詰められた時に望むのは、現状を覆せる事の起こりだ。自分に手段がなければ、何処からか与えられる、現状回避の手助けだ。
そこに回避出来る術が与えられたなら、与えられるまでに失ったものは多い。
この結果からすれば、既に代償を払っているからこそ与えられたと言うべきだろう。
逆に返せば、奇跡を呼び起こす為に、払えるだけの代償を払う……。
それは来贅が言う、奴にとっての『不要なもの』だ。
本当に守りたいもの……自分を優先する為に。
「……は……はは」
俺は、少し顔を伏せながら、静かに笑った。
それは苦笑ではなく、呆れていたからだ。
そして直ぐに顔を上げると、来贅を見たまま、差綺を呼ぶ。
「差綺。やれ」
俺の声に、差綺が返事の代わりにクスリと笑った。
同時に張り巡らせた網が、光を帯びて真っ赤に染まる。
来贅の手に絡み付いていた糸が網を作り、来贅を捕えた。
「咲耶」
「はい」
咲耶が先に地に下りる。差綺と丹敷が咲耶に続いた。
俺は、差綺が張った網を掴むと、来贅を押し倒して共に落ちる。
地へと落ちて行く中、張り巡らせた網がバチバチと光を放った。
火花のように弾ける光が熱を帯びて体に当たるが、咲耶の防御で俺の体は守られる。
鈍い音を地にぶつけ、来贅が地に倒れた。俺は、網を使い、衝撃を受けずに降り立つ。
網に押さえ付けられ、地に仰向けに倒れた来贅に俺は近づくと、来贅の胸元に手を置いた。
どんな状況になろうとも、こいつは動じる事もない。
来贅の胸元に置いた手に重力を掛ける。
歪めて見せたその表情は、わざとにも作ったものだろう。
「……奇跡、か。来贅……。全ての命を囲い、呪術医を集め、その奇跡を持続させる……お前の存在そのものが奇跡だというのなら、塔はその奇跡の象徴そのものだ。選ばれた者だけが生き永らえる……そこに集えばその奇跡は約束でもされるのか……? だが……」
俺は、来贅の胸元を押し付ける手の力を緩める事はなかった。
「……お前……」
押し付ける俺の手が、来贅の中に沈んでいく。
「足りないな」
そう言葉を吐くと、来贅の目をじっと見た。
互いの目が合ったまま、少しの間が開く。
その間は、来贅の漏らした笑みで終わった。
「ふ……貴桐……やはりお前は何も……」
俺を見る来贅の目が強く開いた。
同時に俺は、来贅の中に沈む手を貫く。
飛び散る赤い雫が俺の頬を濡らしたが、俺は奴から手を抜く事はなかった。
「貴桐さん……!」
手を離さず、硬直したようにその場を動かない俺に咲耶が近づいた。
俺は、来贅を貫いたままの手をじっと見ていた。
差綺と丹敷も気になったようだ。俺の近くに歩み寄って来る。
「貴桐さん……」
やはり差綺は気づいたか。
来贅から手を離さない俺の腕に、差綺がそっと触れた。
「……ダメだ、差綺。俺から離れろ」
俺の言葉に差綺は首を横に振る。
……代償は、既に支払っている。
その言葉が再度、頭の中を通り抜ける。額に滲む嫌な汗が、俺を染めた赤い雫と共に落ちる。
「おい……なんだよ……? どうしたって言うんだよ?」
苛立ちを交えた丹敷の声にゆっくりと振り向く。
「……ないんだよ」
「ないって……何がだよ……?」
怪訝な顔を見せる丹敷に、俺は答えた。
俺の手には何も掴めていない。
「こいつの中に……心臓がない」




