第22話 共感
ジジイがいつも座っていた椅子。
この部屋の窓からは、宿木がよく見えていた。
俺は、椅子に座らず、背もたれにそっと手を置いた。
明かりをつけない暗がりの部屋に、月の光がうっすらと差し込む。
月明かりは戻っても、戻らないものもある。
……溜息、だ。
「貴桐さん」
咲耶の声だ。
俺は、咲耶を振り向いた。
咲耶は、ジジイが大事に抱えていた書物を手にしている。
「全て……読まれましたか?」
「……いや」
「それでも……分かっていたんですよね……?」
「……ああ」
「それなら何故……」
「読んだのか?」
咲耶の言葉を遮って言ったが、読んだと分かって聞いている。咲耶が何を思い、その書物を手にしたのかが、咲耶の表情に出ている。
何故、の先の言葉は、俺には必要なかった。咲耶も聞いたところで、仕方のない事だろう。
「……はい。全て読みました」
「……そうか」
「貴桐さん」
「じゃあ……話は早いな」
俺は、真っ直ぐに咲耶を見つめ、少し間を置いて口を開いた。
「俺はまだ、俺のままか?」
少し驚いた顔を見せる咲耶に、俺はふっと笑みを浮かべる。
咲耶は、少し俯いたが、直ぐに顔を上げ、穏やかに微笑んで答えた。
「いつもと少しも変わっていませんよ、貴桐さん。勿論、これからもずっと」
「当然だろ」
俺は、そう答えて笑うと、咲耶の手から書物を手に取った。
「……ジジイは、何を使ったんだろうな」
「契約する時に、ですか」
「ああ。自身にあるもの……それを譲ったら無くなる訳だろ。だがその分、代わりに力を手に入れる事が出来る訳だ。俺から流れ落ちた血は、力となって俺の中に入り、それが体中に巡るように流れ込んできた。まるで……血が変わったみたいに。体中を這い回るんだ。あの苦しさに負けたら、俺が俺でなくなる気がしていたよ」
「……許容を超えれば侵食される……そう書いてありました」
「……そうか。やっぱりな」
「代償は伴うものだと知っていながら、敢えて望んだのですね」
「類感呪術や感染呪術と同じだろ。そこにあるのは共感で、互いに繋がりを持つ。だがこれは……タブーだ」
「タブーって……だってその書物には、肯定的文言が……」
「『望む事、全て、思いのままに』か?」
そう言って俺は、ははっと笑った。
「ええ」
咲耶の声を聞きながら、パラパラと書物を捲った後、最初のページを開いてその文字を見る。
「なんでジジイはわざわざ、ここに書き込んだんだろうなってさ……」
ジジイの書いた文字を、そっと指先でなぞる。
「……貴桐さん……」
「そんな顔するなよ、咲耶。俺は、初めから分かっていたんだからな」
俺は、書物を閉じると、咲耶に手渡した。
そして窓際に立ち、宿木があった場所を見つめた。
咲耶は、書物をギュッと握り締めるように持ったまま、俺の隣に立った。
「……ついて行きます。何処まででも。例え……」
咲耶は、外を見つめ続ける俺を振り向いたが、俺は外に目を向けたままでいた。
分かっているからこそ、視線を合わせられない。
そして、そんな俺たちの後ろ姿をそっと見ている差綺に、俺は気づいていた。きっとそれは咲耶にも分かっていた事だろう。
咲耶は、目線を俺と同じに外へと向けると、止めた言葉の先を口にした。
それは、俺が初めから分かっていた言葉だった。
「『望まないもの』を掴んだとしても」
俺は、咲耶の言葉にただ静かに頷いた。