第1話 払
亜央は『彼女』に目線を落としながら言った。
「返せる器がないと言っただろう」
「亜央……」
侯和の不安が顔に出る。
俺は、差綺へを目線を送った。
差綺は、返事をするようにゆっくりと瞬きをした。
圭が首に絡めた腕を、来贅は掴む。
「ケイ……」
名を呼ぶ来贅の口元が、笑みを見せた。
「……貴桐」
侯和が不安を見せた。
そう思うのも分かるが……。
圭が描いた円と来贅が描いた円が交わろうとしている。
「心配するな」
はっきりとした口調で言った俺の目線は、差綺に向いている。
侯和も差綺へと目線を向けた。
「差綺っ……!」
侯和は、差綺へと眼鏡を投げる。
差綺は、受け取ると眼鏡を掛けた。
クスリと笑う差綺は、小さく呟く。
「じゃあ……仕上げ……」
差綺の指先が来贅へと向いた。
クスリと静かな笑みを漏らす差綺は、来贅に言った。
「僕を取り込んだ事……後悔してね……?」
圭が描いた円と、来贅が描いた円が重なっていく。
その上に流れを止めない圭の血が、来贅を伝って落ちていく。
来贅は、圭の手をグッと掴んだまま、離す事はなかった。
冷ややかな目を向ける差綺を、じっと見ている。
「丹敷、その網……切れないようにちゃんと張っててね?」
差綺は、試すような笑みを丹敷に向けて言った。
「言ってるだろ、差綺。お前に出来て、俺に出来ない事はねえ」
「あはは。期待してるよ?」
「いいから、さっさとやれ、馬鹿差綺」
「大丈夫……」
差綺の笑みがスッと止まる。
差綺が動かす指に従い、網が来贅に絡みつき始めた。
その網を追うように、圭の血が伝っていく。
「貴桐……お前……もしかして最初から……」
差綺の動きから目を逸らさず、侯和が途切れ途切れに言葉を漏らした。驚いているのだろう。
「見えていたんだろ……? 最初から……だからお前は、その筋道通りに進むよう、余計な手を加えなかった。違うか?」
「人は……抗えない苦難に遭遇した時、それが運命だったと言う。そしてその苦難に立ち向かうと決めた時、それが宿命だと言う。そこから抜け出す為に考える事は、当然、回避する手段だ。だが……」
「抗えない運命なら、回避する手段も役に立たない……そういう事にはならないのか……?」
「ふん……それでも『選択』出来るものがあるんだよ」
「選択……? 回避する手段が役に立たないなら一体、どんな……?」
俺は、侯和にちらりと視線を向けたが、直ぐに差綺へと視線を戻した。
「望まないものを掴むという選択だ」
俺の言葉を聞くと、侯和は苦笑した。
「それが……反転させる術だと……? そんな事……いや……それでどうやって……」
侯和は疑問に思ったようだ。
侯和が思う事は、今、目の前に起こった事に対しての回避手段だ。
当然、そんなもの直ぐに対処出来る訳がない。
そもそも苦難とは、受け入れさせようと、強制的に迫ってくるものだ。
だからよく分かる。
押し潰そうと迫ってくるものが、何を望んでいるかが。
それは勿論、潰される側は望まないものだ。
だからこそ俺は、掴むと決めた。
だが……それは最終結果に繋げる為の……。
「それが……」
俺は、クスリと笑みを漏らすと、後に続く言葉を言った。
俺のその言葉に、侯和は驚いた顔を見せた。
「俺が払った『代償』だ」