第26話 信頼
亜央の言葉が脳裏を過ぎった。
『大丈夫。必ず治ると約束したままなんだ』
苦しみと憎しみが声になる。
「……嘘つき。嘘つき……治るって言ったじゃない……嘘つき……だったらいっその事……殺してくれればよかったのに」
……嘘つき……か。
なんだか切ないな。
「あと二十秒」
差綺は、そう言ってクスリと笑った。
それもそうだな。
俺の口からも笑みが漏れた。
目の前で白衣が翻る。
置いてあった白衣に手を伸ばし、それを羽織ったのは侯和だった。
迷いなく、真っ直ぐに『彼女』へと向かう侯和は、落ち着いた声で『彼女』にこう言った。
「信頼を置かない者に、救いの手は届かない。本当に救って欲しいのなら、我慢しろ。少しの間だけだ」
侯和の声に……いや。その白衣に反応したのだろう。
『彼女』の目線が動いた。
「あと十秒だよ。出来る?」
差綺は、試すような目線を侯和に向けて、クスリと笑った。
侯和は、そんな差綺に堂々とした口調で答えた。
「当然だ」
「……白衣……」
やはり『彼女』は、白衣に反応を強く示していた。
震えるような声は、懐かしさを思わせる。
『彼女』の目から涙が零れ落ちた。
『彼女』の反応を見た侯和は、差綺に言う。
「差綺。眼鏡貸してくれ。どうせ伊達だろ?」
「あはは。よく分かったね? 別にいいけど? でも、そこまで必要かなー?」
「さあな? 俺だって伊達で掛けるだけだからな?」
本当に……困った奴らだな。
そう思いながら、漏れるのは笑みだった。
差綺は、カウントダウンを始めた。
侯和の手が『彼女』へと伸びる。
差綺がゼロを口にすると同時に、侯和が言う。圭と一夜が描いた円が、媒体へと刻みつけられた。
「『時間だ。薬はちゃんと飲んだか? 痛みが止まるまで側にいてやる。だから泣くな』」
侯和が伸ばした手へと、『彼女』の手が伸びる。
「『先生』……」
解放されるように『彼女』がするりと抜け落ち始めると、シンと部屋が静まり返った。
「差綺ぃっ! 俺は止めたからなっ! 一人でだっ!」
その中で響く、丹敷の声。
俺は、片手で頭を抱えた。
「まあまあ、貴桐さん。丹敷も一人で頑張ったんですから……」
「それは分かっているけどな……本当に空気が読めない奴だよな……」
「……そうです……ね……まあ……でも」
「ああ……そうだな……」
「一夜さんたちの描いた円が刻みつけられたから……なんですけどね……」
「咲耶……俺は何も言ってねえからな? 今、お前……珍しくお前らしくない事を言ったぞ」
そう言って俺が笑うと、咲耶も笑う。
「え? そうですか? まあ……でも、差綺には敵いませんよ」
「はは。そうだな」
俺と咲耶の目線が、差綺と丹敷に向いた。
「丹敷って……本当に空気読めないよね?」
きっと誰もが思ったであろう事を、差綺ははっきりと告げる。
「あ? あれ? 差綺、眼鏡、どうした? まさか、見えてなかったとか言わないよな?」
「ねえ……僕とは長い付き合いだよね?」
「え? なんだよ……今更……」
「僕がいつ、視力が悪いって言った?」
「え……だって……ずっと眼鏡掛けてんじゃん……」
「そーいうのが、単純って言うんだよ」
「なんだよ? なんか怒ってんの? 珍しくねえ?」
「僕の目つきが悪いから、眼鏡でも掛けた方が優しく見えるんじゃないかって、丹敷が言ったんじゃないか」
「そーだっけ……?」
「そーだよ、僕より丹敷の方が、遥かに性格悪そうに見えるのにねっ。あはは」
……同感だ。
流石に毒を持っているだけあって、毒を吐くなあ……。まあ、丹敷には耐性があるから平気か、そんな毒も。
その姿を追うように『彼女』が侯和へと落ちてくる。
侯和は『彼女』を受け止めた。
安心したような表情で目を閉じた『彼女』の頬に伝う涙が見える。
最期の言葉になるだろう。
だが……その言葉は、亜央も聞いた事があるはずだ。
目を閉じたまま『彼女』は、ゆっくりと呼吸をするように言葉を残した。
「ただ……会いたかった……先生……『亜央先生』」




