第三話 銀髪の放浪者 3
ようやく大将軍閣下の英雄譚を語ることに満足したらしい男から報酬を受け取り、交易所を出た頃にはすっかり陽が沈んでいた。
おっさんの話が長かったというのもあるが、冬も終わったばかりなので、まだまだ一日は短い。外へ出た途端に吹き寄せた風には、陽光のぬくもりも残っていなかった。
本当なら、このあと屋台巡りをするつもりだったのだが。
溜息を一つ漏らして、胸元の物入れから革袋を取り出す。
受け取ったばかりの討伐報酬の入った袋はずっしりと重い。
殺した魔物全部から証拠品を切り取ってこなくてよかったと思う。
これ以上重くなったら邪魔でしょうがない。
まあ、途中から殺したゴブリンやらオークから耳だの手だのを切り取る作業が面倒になったというのもあるが。あと、山奥の湖で出くわしたやけにヌルヌルして、腕がたくさんある化け物は何処を切り取れば良いのか分からないから放置してきたし。
なんてことを考えながら、革袋の中身を確認する。
今回の報酬は全部で金貨二枚と、銀貨が十一枚、それから銅貨が二十六枚だった。
ええと、確か金貨一枚で銀貨十二枚分。銀貨一枚が銅貨三十六枚分で……。
つまり、金貨一枚は銅貨に換算すると……ええと。
金の計算は苦手だ。
故郷じゃ、他所の人と取引するのにも物々交換が主だったし。
屋台での買い食いで使うのは普通、銅貨だけ。一枚から、高くても三枚。
銀貨を求められたら、それはこちらを騙そうとしている。
それが金に関する、俺の知識の全てだ。
金貨は使ったことないから分からん。
そういえば、城勤めの兵士が一月に貰う給料は銀貨七枚だと聞いたことがある。となると、今の俺は中々の大金をもっているという事だろう。
もっとも、屋台や露店はもう店じまいをしているので、金なんぞいくらあっても今の俺には宝の持ち腐れだが。
仕方がない。今夜はさっさと宿を取って、屋台巡りは明日だ。
そう決めて、先ほど受付のおっさんから教えてもらった宿を探すことにした。
躍る仔牛亭という屋号で、鍵付きの部屋もある、この街でも老舗の宿屋だと言っていた。
この通りにあると聞いたが、さて。どれかなと辺りを見回す。
ちょうど通りかかった街の住民らしき人に声を掛けて場所を尋ねたところ、すぐに見つかった。
見つかったというか。
交易所と道を挟んで真向かいに立つ、三階建ての石造りの建物がそれだった。
さてはあのおっさん、適当に一番最初に思いついた宿を教えたなと思わなくもないが、まあ、それでもいいか。
店構えはしっかりしているし、かっての分からない街で今から別の宿を探すのも面倒だ。
そう決めると、教えてくれた人に礼を言って、通りを横切って宿へ。
中に入ると、一階部分は酒場として営業しているらしい。幾つかのテーブルでは陽も落ちたばかりだというのに、早くも酔客たちがジョッキを傾けていた。
ちょうどは良いから、今日の晩飯はここで済ませようかなと考えながら、店の奥へ向かう。
途中、客の何人かが俺に気付いて、怪しむように眉を顰めていた。
彼らの視線を無視してカウンターに近づき、その奥で作業をしていた恰幅の良い女性に声を掛ける。先ほどから、他の客とのやり取りを聞いている限り、たぶんこの店の女将だ。
「あの、鍵付きの部屋を二晩、借りたいんだけど」
そう声を掛けた俺に、女将は警戒するような顔で振り向いた。
薄汚れた身なりの、いかにも旅人然としたヤツに対する反応としては当然か。
それが鍵付きの部屋を借りたいというのも変なのだろう。俺のような旅人は普通、他の客と一緒に雑魚寝だが、安くすむ大部屋を借りる。
良い部屋には値段に応じた調度も整っているだろうし、どこの誰とも分からないヤツに部屋を貸して、それを壊されでもすれば……。
しかも、銀髪だ。
女将が俺に向ける目からは、そうした心理がありありと読み取れた。
その前で俺は、金貨を一枚、カウンターの上に置いて見せる。
鍵付きの部屋の相場がどんなもんなのか分からないので、駄目だったらなけなしのもう一枚も出そう。
そう考えていたのだが。一枚だけでも、金貨の効果は思った以上だった。
「鍵付きを二晩だね? 食事はどうするね、お兄さん」
金貨を見た途端、明らかに目の色と表情を変えた女将から、朗らかにそう訊かれた。
「とりあえず、今晩はここで貰おうかな」
「はいよ」
俺が答えると、女将はにっこりと笑った。現金なものである。
「明日の朝も欲しかったら、その時に声を掛けとくれ。追加のお代はいらないから。部屋は三階だけど、その前に汚れを落としてくれないかね、兄さん。すぐに湯を沸かさせるからさ」
そう言って、女将はカウンターの下から剣の模様が刻まれた鍵を取り出した。多分、同じ模様の刻まれた扉の部屋を使えということなのだろう。
それよりも、有難いことに湯浴みをさせてくれるらしい。
しかも、湯が沸くのを待つ間にと、お茶まで出てきた。
金貨すげえ。
湯を浴びて、ついでに着ていたものも洗う。身体と服から旅塵をすっかり洗い落とした俺は部屋に荷物を置き、剣だけを持って一階へ戻った。
盛り上がっている席からは少し距離を置いて、隅のカウンター席に腰を下ろす。
すると、見計らったように女将が料理を持ってきてくれた。
目の前に並んだのは、焼き立ての肉と、付け合わせの蒸かした芋が乗った皿。野菜を煮込んだスープと、固焼きのパン。
田舎街にしては、中々豪勢な取り合わせだ。
そう思いながら、まずは一緒に出された木のコップに手を伸ばす。
並々と注がれているのは蒸留酒だ。
口を付けると、かっと熱い酒精が口を、喉を焼いて、腹の中へ流れ落ちる。
途端、空っぽだった胃が驚いたように騒ぎだした。
早く、何か食い物を寄こせと叫ぶ胃に命じられるがまま、肉にフォークを突き立てる。
ナイフなどというお上品なものは、ここにはない。がぶりと齧りつくのが、こういうところでの流儀なのだ。
というわけで、フォークで持ち上げた肉に豪快に齧りつく。旅の間は固い干し肉ばかりだったから、柔らかい肉の食感に思わず頬が緩んだ。
肉にはざっくりと塩が振られているだけでなく、何かの果実を煮込んだものらしいソースが掛かっていた。濃い味付けだが、これが実に酒に合う。
肉、酒、肉、酒、と口が休まる暇もなく、肉はあっという間になくなってしまった。
なので、ちぎったパンで皿に残っている肉汁とソースを拭う。
行儀の悪い食べ方だが、ここでは誰にも文句は言われない。
合間にスープを啜る。こちらは肉と違って薄味だ。しかし、そのおかげで溶けだした野菜の旨味がしっかりと感じられた。
最後のパンを口に放り込み、残っていた蒸留酒で飲み下して、完食。
「ふぅ……」
味には十分満足だが、量が少し物足りない。
そんなことを思いながら、空になった食器を見つめていたところへ女将がやって来て、酒をもう一杯注いでくれた。
よほど金貨が効いたのか。
一緒に、軽く炙った腸詰と干した果物が乗っている皿まで持ってきてくれた。
「ところで、兄さんは何処から来たんだい?」
男一人の晩酌を楽しんでいると、女将からそう声を掛けられた。
「ん。王都から」
口の中にあったものを飲み込んでから、短く答える。
「へえ。それはまた。このご時世に随分と遠くから来たもんだねえ」
「あっちの方じゃ、もう仕事が無くてね」
感心したように言う女将へ、軽く肩を竦めて見せる。
嘘だ。
仕事は山ほど残っている。
いや。今こうしているこの時ですら、俺を縛り付けるあの豪華な黒檀の机の上には恐るべき書類が積み上がり続けているはずだ。
「羨ましいねえ。あっちはもう、そんな平和になったのかい」
もちろん、そんなことを知る由もない女将はどこか納得したように、ため息を吐いていた。
その目が、俺の脇に立てかけてある剣にちらと向けられる。
たぶん、女将は俺のことを傭兵だと思っているのだろう。
その俺の仕事がなくなったという言葉を、王都の方ではもう倒すべき魔獣や魔物がいなくなったのだと解釈したのだ。
「こっちは王都に向かう途中の山に化け物が住み着いて困ってるってのに」
恨み言のように、そう零した女将へ。
「ああ。それなら、もう大丈夫。全部倒したから」
「へ?」
腸詰を摘まみながら答えて、蒸留酒を呷る。
ふーと息を吐いたところで、女将がなんとも言えない表情で俺を見ていることに気が付いた。
何だろうかと考えて、いま自分が口にした言葉を思い出す。
「お、俺じゃないぞ、もちろん! 俺はほら、しがない旅人だから! 王都の騎士団がさ。この街に来る途中まで、一緒だったんだ。山に住み着いてるゴブリンやらオークを全部倒すって言ってたから。まさかトロルまでいるとは思わなかったけど。うん。もう大丈夫だ」
慌てて、適当な嘘を捲し立てる。
「そりゃ本当かい!」
案の定、騎士団の名前が出ただけで女将は俺の話に納得してくれた。
危ないとこだった。少し、酔いが回ってきたかな。