自分の目で物を見る難しさ
いわゆる普通の人と話していると、とにかく普通だという事に驚かされる。
というのは、彼らの言う事がことごとくステレオタイプだという意味だ。「夏休みにディズニーランドに行く」とか「東大を出たから賢い」とか「京都に寺を見に行く」とかまあそういった事を彼らは言う。
彼らの言う事はことごとくそういう範疇に収まっているので、私としては何か言いたい気持ちになるが、それをやりだすと生活が成り立たないので黙っている。
例えば、「普通の人」は、テレビに映し出された観光地には喜んで赴くが、もし、その観光地がテレビに映されていなかったから、その前をたまたま通り過ぎてもその「美」には全然気が付かないだろう。同じ物を見ても、メディアという義眼を通さなければ、彼らの視界には何も映らない。
しかし、芸術家というのはそうではない。ゴッホがアルルの風景を見た時、彼は自分の目で物を見たのだと思う。しかし我々にとってアルルは、「ゴッホが感激した風景」という情報込みでしか見る事ができないあるものである。ここでも我々は何も見ない。
今は意地悪い言い方をしたが、好意的に見るなら、普通の人は生活の為に認識の力をセーブしているとも言える。要するに認識に支払うコストが低いのだ。芸術家は世界を見る事に注力する。
過去の芸術家らが、大抵、ニートのような連中だったのも、今はなんだかよくわかるような気がしている。彼らがのらくらしていたのは、生活に支払うコストを低くするためだったのだろう。彼らはその代わり、認識に対して大きなエネルギーを支払った。だが、これは大抵、普通人の賛同を見ずに終わる。
では、何故、そんな芸術がいいものかと言えば、人は認識で生きているからである。認識が広がるとは、生きる世界が豊かになるという事だ。この点は科学者や哲学者とも大差ない。
普通の人が「テンプレ」を当たり前のように受け入れて生きているのも、こうして考えるとごく自明の事に見える。彼らにとってそれは生きる上で楽な姿勢なのだ。
しかし、問題は、現代の大衆社会がやろうとしているように、世界はテンプレ的な認識通りのものかどうかという事である。彼らの認識から漏れた現実はどう処理されるのだろうか。私はこの大衆社会、普通の人の普通さが、ある臨界点を越えると、一気に非常識に変わるだろうと思っている。歴史を見ればそういう事はしばしばあった。
その時、人は自分たちの普通を反省する立場に移行せざるを得ないだろうか、しかし、彼らはまた違う「普通」の中で過去の「普通」を断罪して、自分はもう過去の自分とは違うというとぼけた表情をするだろう。
その時、芸術家はどんな表情をしているだろうか。彼らはとにかく見る。そして描く。表現する。しかし彼は彼の見た世界をどこか語り難い事を知っている。一般に優れた芸術家の「気難しさ」とはそういう所から来るのではないか。
彼はより豊かな世界に通じる鍵を持っているが、その鍵を受け取らないのは彼が意地悪だからというより、彼がその鍵を我々に渡そうとしたのを、我々がずっと拒否してきたからなのだ。そこで芸術家は気難しい表情で、自分の世界のみを信じ続けなければならないという風になる。
そうして彼が見た世界が、表現として、象徴として定着され、それを後にやってきた人が少し見る。そしてやっと、彼の孤独にほんの少しヒビが入る。だが大抵の場合、彼は既に亡き者になっている。