風邪
西の果てに彼女実る木ありけり。
ある男、それを抱きてこう言いけり。
「やっべ、めっちゃ気持ちいい」
これは中国五大奇書にして三大演義の一つ、『彼女演義』の冒頭の一節である。
物語では玄奘なる男がお供とともに西の果てにたどり着き、彼女を持ち帰ってきた事が、中国における彼女の始まりだと記されている。
これを裏付けるように古代中国ではこの頃から彼女が爆発的に拡がり、それは日本まで伝わる事となる。
ここから後に遣彼女使として、弘法大師や小野妹子が中国に渡った事は、高校で日本史を学んだ御仁ならば常識だろう。
因みに彼女の木があった西の果てには諸説あり、インドであるとか、更に西のヨーロッパであるとか、既に滅んだ楼蘭であるなど、その議論はいまだに続いている。
(変な夢見たなあ。だるい。頭痛い。鬱かな)
その日起きた太郎が思った事は、そんな自虐な諧謔だった。
上司をライダーキックで蹴飛ばして以来、すっかり鳴りを潜めていた鬱が再発したのか? とも思ったが、体がゾクゾクする事で、どうやら風邪である、と認識した太郎は、普段ヒートテックを一枚の所を二枚重ね着し、暖かい格好にマスクをして医者に向かった。
病院の待合室というのは、ご老人の井戸端会議の場である。
年を取れば誰しもどこかしら具合が悪くなる訳で、自然と皆病院に向かい、行けば誰かしら見知った顔に出会うのだ。
一応病院と言う事で小声で話しているが、そこかしこから言葉と認識出来ないレベルの声が雑音として太郎の耳に入ってくる。
止める者はいない。病院に来ているのは体調の悪い人間か、その付き添いであり、皆自分達の事で手一杯だからだ。
ザワザワとした小声のさざ波に漬かっているうちに、太郎の順番となり医者の前へ。
時期が時期だけにインフルエンザを疑われ、その検査をして、結果を待つ。
検査の結果インフルエンザではないとの事で、風邪薬を処方されて帰途に。
途中で昼である事に気付く。そういえば朝から何も食べてなかったなあ、といつものマックに寄って帰ろうとした所に、ラーメン屋があった。しかも家系である。
そういえば前に家系ラーメンが風邪に効くとかテレビだかネットで見たなあ、と変な事を思い出した太郎は、そのラーメン屋に入る事にした。
冬だというのに湯気の熱気で暑い程の店内。どうやら食券タイプの店らしい。
食券機の前に立つと、意外と色んな種類がある事に驚く太郎。
どうしようか? と迷っているうちに後ろにどんどん行列が出来てくる。焦った太郎はこれなら外れはないだろう、と店名の付いたラーメンを選ぶ。
カウンター席に座り食券をテーブルに置く。店員がそれを回収して仕込みに入る。その間左右の客の食べている物をチラチラリと確認してみると、野菜、焼豚、味卵で山盛りになっている。
あんなには食べられないなあ、と思っている太郎の前に出されたのは、左右の客よりはボリュームの少ないラーメンだった。焼豚は入っているが味卵は無い。
味卵欲しかったなあ、と思いながらラーメンをすする。味は豚骨醤油だった。
それなりのボリュームだったが、なかなかの美味で汗をかきながら一杯完食した太郎は、家に帰ると薬を飲んでジャージに着替えて直ぐに寝た。
夢を見た。母親の夢だ。
太郎が五歳の時に家を出ていった母。それ以来父は太郎に暴力を振るうようになった。
母に優しくされた記憶なんてほとんど無いが、風邪の時に嫌々ながらも看病してくれた事を覚えている。
慣れない料理をしてくれた。どんな料理だったかもう覚えていないが、母の手料理を食べたのはその時が初めてで、あまり美味しくなかった事だけが記憶に残っている。そんな夢だった。
ペリペリと何かを剥がす音が聴こえて目が覚める。
冷たい物を額に付けられ、ボヤけた視界でそれを行った人物を太郎は見遣る。
「お母さん?」
何故そんな事を口にしたのか? 恥ずかしいと思ったが、体のだるさが恥ずかしさに勝って直ぐにどうでもよくなった。
「あ、起こしちゃった?」
視界が鮮明になって眼前の人物を見れば、譲が心配そうにこちらを見ていた。
額に手をやれば、ひんやりしている。多分冷えピタを貼ってくれたのだろう。
「何で?」
自分の事で手一杯で、譲には風邪の事は連絡していなかったはずだ。と思った太郎だったが、肉じゃがの時のように記憶が不鮮明な時に連絡したのだろうか? とも思った。
「だって、LINE送っても全然返信くれないんだもん。そりゃ心配になって来るわよ。そしたらタロちゃん寝てるし、触ったら熱あるし、風邪? インフル?」
なるほど、と得心する太郎。
「風邪。病院にも行ったし、直ぐに治るよ」
まだだるいが、作り笑いを浮かべる太郎。
「そう。もう夜だし、何か食べるでしょ?」
もうそんな時間か、と窓の方に目をやると、外は暗い。
昼にそれなりのラーメンを食べたから、まだ腹が減っている程ではなかったが、薬を飲む為には胃に何か入れておいた方が良いだろう、と太郎は考え、
「そうだね」
と応える。
「じゃ、ちゃっちゃと作っちゃうね。って言ってもレトルトのお粥だけどね」
そう言って譲は笑顔で太郎の部屋を出て行った。
ありがたいなあ、と太郎は思う。風邪を引いた時、今までは一人だった。風邪の時一人というのは結構堪えるのだ。
何をやるのも大変で、でも代わりにやってくれる人はいない。風邪の時に家事をやってくれる代行サービスなんてあったら儲かりそうだなあ、とか思ったが、その代行サービスの人が風邪になりそうだから誰もやらないだろう、と直ぐに思い直した。そちらに関しては家事が出来るロボットの誕生を待つしかなさそうだ。
そして風邪の時というのは、何故か人恋しくなる。
今まではその寂しさを埋めてくれるものはなかったが、今の太郎には譲がいる。風邪で気が弱っている時に一言二言誰かと会話が出来るだけで、なんだかホッとする太郎がいた。
確かに出されたのはレトルトのお粥だった。
だがまあそこに不満はない。この後は薬飲んでまた寝るだけだ。
だが太郎の心は寂しさ侘しさで一杯だった。自分が寝れば譲は自分の家に帰って行くだろう。それが不満。とは言いたくない、なんともモヤモヤした感情だ。
と太郎が薬を飲み終えると、譲がクローゼットから布団を取り出す。
「え? もしかして泊まっていく気?」
「そうよ」
何が不思議なの? といった顔で返事をする譲。
「いや、でも、風邪が伝染るかもしれないし」
「例えそうなっても、このままタロちゃんを一人にしておく方が私は嫌なの!」
譲の強い口調に太郎は押しきられ、譲が泊まっていく事を太郎は許す事になった。
部屋の灯りが消され、暗い部屋の中、太郎はベッドで、譲は床に布団を敷いて寝ている。
「タロちゃん」
「何? ジョーちゃん」
「ごめんね、ワガママ言って」
「いいよ、そんな事」
部屋に微睡んだ静寂が佇む。
「ジョーちゃん」
「何? タロちゃん」
「ありがとう」
「…………うん」




