第5話:白に近いグレーと黒に近いグレー
住崎夫妻及び沢井春菜殺人事件の捜査は難航していた。
まず、自らをキラーゼロと名乗ったとされる犯人の犯行前及び犯行後における屋敷の防犯カメラと付近の防犯カメラに犯人と思しき人物が映っていないこと。
次に、征二の証言を全面的に認めた場合、キラーゼロに殺人を依頼したとされる首謀者に対する手がかりが何一つ無いこと。
最後に、夫妻は公私共に誰からも恨まれるような人物ではなく、大吾においては、製薬業界の競合他社のトップたちと厚い信頼関係にあった。大吾は麻薬撲滅運動を推進する団体に対して多額の寄付を行っていたが、その寄付活動に対する暴力団関係者からの妨害を目的とした犯行の可能性は極めて低いと捜査本部では判断していた。その判断の理由の一つには征二の存在があった。
征二は、住崎家の執事になる以前は大吾の父の住崎仁衛のボディガードと住崎製薬の経理を兼務していた。それ以前の征二は、一九七二年当時、木蔦勇を会長として構成されていた暴力団「木蔦極星会」の直系組織「木蔦組」の若頭補佐を務めていた。征二が仁衛に仕えるようになった経緯は、重傷を負った木蔦を仁衛が救ったことが起因している。木蔦は、仁衛を義理の兄として慕う兄弟盃を交わしたいと申し出たが、仁衛はその申し出をあっさりと拒否し、あくまで親しい友として、お互いの住む世界のしがらみなどを考えず対等な立場で酒を酌み交わしたいと申し出た。その申し出にますます仁衛に惚れ込んだ木蔦は、兄弟盃を交わす代わりに、不幸な出来事をきっかけにして極道の道に身を落とした征二にまっとうな生活をさせて欲しいと仁衛に申し入れた。仁衛はその申し入れに対して当初は断っていたが、征二の極道には不釣り合いとも言える優しい人柄に触れていくうちに徐々に打ち解けていき最終的に木蔦の申し入れを了承した。その際、木蔦は全国の暴力団から住崎家及び住崎製薬株式会社に対して未来永劫にわたり損害を及ぼさないことを約束させた不可侵血判状を仁衛に手渡した。不可侵血判状の効力は絶大で、住崎家もしくは住崎製薬株式会社に損害を与えた暴力団員や暴力団の名を記した書面を征二が木蔦極星会に提出すれば、提出した翌日には書面に記した組織は解散処分となる。「癒着」とも「黒い交際」とも違う特別な関係が成り立っていた。
ここまで捜査が難航していることについて述べてきたが、逆に征二の証言を全面的に否認した場合、首謀者として三人の容疑者が浮かび上がる。
一人目は、執事の斎藤征二。
犯行現場及び、大吾の邸宅の敷地内からはキラーゼロのものと思われる指紋・足跡、DNA資料等の鑑識資料が一切採取されておらず、今のところキラーゼロの存在を示すものは征二の証言だけである。そもそもキラーゼロは存在せず、征二による単独犯行ということも考えられる。
しかし、征二は執事としての報酬に加え、住崎製薬の特別顧問としての役員報酬も得ており、金銭目的による犯行は考えにくい。そして、住崎家で長年働いているメイド長の話によると、大吾と征二は若い時代から同じ屋根の下で生活をともにした間柄で、主人と執事の関係を越えた兄弟関係にも似た信頼関係にあり、真理子とも良好な関係にあったとのことで、二人に対する怨恨による犯行も考えにくい。
二人目は、住崎製薬株式会社副社長の神代治。
彼が容疑者として考えられる理由は、犯行当日が住崎製薬でのアルツハイマー病の新薬の開発成功を記者発表した日だという点が挙げられる。
株主総会で新薬の記者発表を行うことを事前に知っていたのは、会長兼社長の大吾と、副社長の神代、そして広報部の一部の者のみで、会長秘書の宍倉は大吾から株主総会当日に伝えられたと言う。
あまりにもタイミングよく行われた犯行なので株価操作を目的した内部の者によるものという推測が立てられた。
しかし、神代及び神代の近親者による犯行日前後における住崎製薬株の売買取引の履歴は無く、なおかつ神代は大吾自身から次期社長のポストを約束されていた立場にあったため、社内での地位を上げるために犯行に及んだ可能性は極めて低い。
三人目は、大吾と真理子の娘である長女の住崎麗香。
捜査本部に参加している捜査二課からは麗香による遺産を目当てにした犯行を考慮して名前が挙がっている。
しかし、大吾と真理子との親子関係は極めて良好で、これまで何不自由なく育てられ二人を殺す理由が見つからない。前述した二人よりも犯人の可能性は低い。
最後に、麗香、神代、征二の三人による共謀も考えられている。
麗香は遺産、神代は社内での地位を上げ、征二は犯行を行うことにより二人から報酬を得るという図式が成り立たなくもない。
捜査本部ではあらゆる可能性を視野に入れ、三人については重要参考人として引き続き任意での事情聴取を行っている。
しかし、事件発生から九日後の七月七日、住崎夫妻及び沢井春菜殺人事件は一気に急転した。
渋谷のスクランブル交差点で発砲事件が発生。犯人はスクランブル交差点のほぼ中央で真上に向かって一発発砲した後、右こめかみを撃ち抜いて自殺した。この事件による負傷者はおらず、犯行現場付近からは弾丸が二発見つかった。犯人の顔はキラーゼロの似顔絵に酷似していた。古谷は麗香と征二が滞在しているホテルに向かい、征二に対して検視した際に撮影した犯人の顔写真を見せたところ、この男がキラーゼロで間違いないという言葉を得た。そして、犯行現場から採取した弾丸の線条痕は、征二が警察に提出した弾丸の線条痕と一致した。犯行に使われた銃は、警察の推測どおりコルト・ガバメントだった。
しかし、犯人の顔はあらゆる整形が施されており、個人を特定するための鍵となる歯型すらも整形していて個人を特定することができなかった。ただ一つ判明したのは、歯の治療履歴が歯科医院や大学病院に残っていないため、歯の整形治療は六年以上前に施されたと思われるという推測だけだった。
「古谷係長、この事件なんか腑に落ちませんね。警察庁長官に圧力かけて捜査の妨害をしたと思ったら九日後に犯人と思しき人物が自殺する。そして被疑者死亡のまま書類送検、最終的には不起訴処分になるじゃないですか。変な言い方ですけど、この事件で得した奴はいるんですかね?」
「企業のトップはその企業の顔、人格と言ってもいい。住崎大吾会長の死は少なからず住崎製薬の株価に影響したはずだ。二人の死によって必ずこの事件の黒幕は得をしているはずだ。この事件、俺はとてつもなくドス黒いものを感じているよ」
「古谷係長、新庄主任、至急署長室においでください。署長がお呼びです」
古谷と新庄が捜査本部の会議室で話していたところに婦警がやって来て二人に伝えた。古谷と新庄は急いで署長室に向かった。
「失礼します」
「忙しいところ申し訳ない。君たちに今日付けで異動の辞令が出た」
「このタイミングで私たち二人が異動ですか? 住崎家の事件の捜査はまだ途中なんですよ」
古谷は松前署長に質問した。
警察庁の場合、異動の辞令は、通常国会の始まる前の一月と終わった後の八月に発令するのが一般的とされている。
「私も疑問を抱いている。しかしこうして実際に辞令が出ている」
「あの、ところで僕たちの異動先はどんな部署なんでしょうか?」
「警察庁刑事局刑事総務課だ。特に異動にあたっての準備はしなくて良いそうだ。もうしばらくしたら先方から迎えの車が来る。それに乗って異動先に向かってくれ」
「了解しました」
古谷は内心で不可解だと思いつつも松前署長の言葉に返事をした。
約三十分後、古谷と新庄は迎えの車に乗り込み警察庁刑事局刑事総務課に向かった。