第21話:パスワード
十一月二十九日木曜日、訓練は四ヶ月目に入っていた。この頃になると麗香は気配の殺し方を習得していた。
午後十一時過ぎ、麗香は寝付けず喉の渇きを潤すために一階のキッチンに向かった。
キッチンに向かうとダイニングテーブルの椅子に腰掛けて一人悲しげな表情でウイスキーを飲んでいる丈太郎に征二が声をかける場面に遭遇した。
「浮かない顔をされていますね。私もご一緒してよろしいですか?」
「ああ、征二さん一緒に飲みましょう」
征二は丈太郎の隣に座った。
「麗香、明日も朝早いんだぞ。寝るのも訓練の一つだ。早く寝ろ!」
「わかってるわよ」
丈太郎はかなり酔っているようだった。
麗香は冷蔵庫からペットボトルのミネラルウォーターを一本取り出すと寝室に戻るために階段に向かった。
「丈さん、ひどく酔っ払ってますね。どうしたんですか?」
「惚れた女のことを思い出してました。今日はそいつの命日なんです」
「そうでしたか。私で良ければお話を伺いますが?」
征二は丈太郎の心情を察していた。
三年前の二〇〇四年十月、丈太郎はプログラムが保存されたUSBメモリと、プログラムを起動するための約二千桁のパスワードを記憶しているキャサリン・マッカーソンという女性をFBI本部まで護送する任務についていた。
「傭兵は戦場で戦うのが主な任務だと思っていたのですが、要人の護送といった任務もされるのですか?」
「いえ、征二さんの言うとおり傭兵の主な任務は戦場で戦うことです。護送任務のクライアントは俺の親父でした。親父は俺に傭兵を引退させるために引退後不自由なく暮らせるほどの報酬を提示しました」
キャサリンの護送は追っ手を巻きながら約二ヶ月をかけて行われた。追っ手から逃れる中で丈太郎とキャサリンはお互いに惹かれ合うようになった。しかし、丈太郎は「つり橋効果」と呼ばれる不安や恐怖を強く感じている時に持ちやすくなる感情として捉えていた。
「十一月二十九日にFBI本部のあるワシントンD.C.に入りました。FBI本部まであと約二百メートル、俺はまったく油断していなかった。しかし、前から歩いてきた二十歳くらいの青年とすれ違った後、キャサリンがガクンと崩れ落ちました。彼女の腹部にはナイフが根元まで刺さっていました。奴からはまったく殺気が感じられませんでした」
丈太郎はキャサリンをすぐさま救急搬送するよう手配をしようとしたがキャサリンに止められた。意識を失ったら記憶しているパスワードを忘れてしまうかもしれないという懸念があるため、キャサリンはこのままFBI本部に連れて行くように丈太郎に頼んだ。丈太郎は自分のマフラーを包帯代わりにキャサリンの腹部に巻いてやりFBI本部に向かった。
「彼女は意識を失いかけながらもすべてのパスワードを入力してプログラムを起動させました。彼女は最後に俺の心の扉を開くパスワードを口にしてから亡くなりました」
「そのパスワードはどんなパスワードだったのですか?」
「『I NEED YOU』でした」
「お辛かったでしょうね……」
「キャサリンが亡くなった後のことは何があったかはっきり覚えていません。ただ、一人の職員が『犯人はFBIが総力を上げて必ず逮捕します』と言ってくれたのだけは覚えています」
そう言うと丈太郎は左手をそっと胸に当てた。
「このTシャツはキャサリンが俺の誕生日にプレゼントしてくれた物なんです。バーのマスターが『COFFEE』って書かれたTシャツを着てるのおかしいでしょ? 彼女は俺に『あなたは傭兵じゃなくてカフェのマスターのほうが似合うかもね』って言ってたんです」
「そのTシャツにはそんな思い出が込められていたのですね」
丈太郎の着ているTシャツは麗香と征二が丈太郎のバーに初めて訪れた時に着ていた可愛いペンギンのイラストが描かれたTシャツだった。
「復讐を諦めていた俺に麗香はチャンスをくれた。麗香に感謝しなければならない。俺が必ずキラーゼロを殺します」
丈太郎は鋭い眼光で壁を睨みつけていた。隣に座る征二は丈太郎が放つ殺気を痛いほどに感じていた。




