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まよいが  作者: 水戸けい
宇梶和彦
9/21

(俺があいつらよりも劣っているなんて、ありえない)

 宇梶和彦はぼんやりと道を歩いていた。足元の乾燥した白っぽい土の道を見下ろして、トボトボと気落ちした人間らしい足取りで進んでいる。


 猫背になり、肩を落として歩く和彦の視界は自分の足と靴、地面とそこに生えている草しか映らない。左右から木々の間を抜けてきた、涼しく心地いい風が吹いてくるのに、そちらに顔を向けようともしない。


 ため息こそつかないが、まったくなんの気力もないと全身で示していた。


(どうして)


 なにが「どうして」なのか、和彦にもよくわかっていない。細かな「どうして」がありすぎて、総括しての「どうして」を見つけられないでいる。


 子どものころから勉強に励み、言われたとおりにしていれば、いい点数を取っていれば人生はすばらしいものになると言われてきた。それを信じて、和彦は遊びたい気持ちを抑え込み、勉強に没頭した。塾で習ったことは、同級生たちの知らないこと――まだ習っていない知識だった。それを披露すると「すごい」と言われ、尊敬のまなざしを向けられた。それが気持ちよくて、勉強を教えてほしいと頼られるのがうれしかった。


 だからますます勉強した。ガリ勉ではなく、そこそこ遊んだりもした。ただし、塾のない時間にのみだ。成績さえ上位を維持していれば、親はうるさく言わなかった。自由が欲しくて勉強を続けた。同年代のなかでは、遊んでいない方だと自覚している。けれど勉強しかしてこなかったわけではない。高校時代には彼女らしき雰囲気になった同級生もいたし、大学に入れば胸を張って「彼女だ」と言える相手ができた。


 なんの不満も不足もなく、人生は続くものだと思っていた。


(それなのに)


 なにが、どこで、おかしくなってしまったのか。


 それがさっぱりわからない。


 バイト先ではそつなく自分に与えられた仕事をこなしていた。誰からも不満をもたれることもなく、なんなら自分から進んで目に留まった作業をしてきた。頭もよくて気のつく自分は、バイト先でも重宝がられる存在だと自負していた。代わりなど誰もいないと、店長や副店長に次ぐ実力者だと考えていた。


(それなのに)


 店長会議に出席するため店長と副店長が留守をする間に、店を任されたのは和彦ではなかった。うんと先輩のアルバイトやパートならばまだ、経験の差だと納得できる。年齢が上なら、年の功というものもあるだろうと理解できた。


 だが、選ばれたのは和彦とともに面接を受けた、違う大学の――けれど年齢はおなじ男子学生だった。


 自分と彼の間に、いったいどんな差があるのか。和彦にはそれがわからない。なんなら自分のほうが優秀だとさえ、心の隅で思っていた。それなのになぜ自分ではなく彼が選ばれたのか。


(きっと、店長の見る目がなかったんだ)


 えこひいきをしている気配はなかったが、知らない場所でそういうものがあった可能性も否定できない。そう考えた和彦は、勉強が忙しくなってきたとさりげなく周囲にアピールし、シフトをすくなくしてほしいと店長に言ってみた。


(俺が入れなくなれば、きっと店長は困るはず)


 そしてもうすこしなんとかならないかと、相談をしてくるだろう。いくらバイトだとはいえ、優秀な人材がいる日といない日とでは効率が変わるから。


 その予測は大いに外れた。店長はあっさりと了承し、ほかのバイトに「もうすこし入れないか」と打診した。


 おまえの代わりはいくらでもいる。


 そう言われた気がした。


 学業はつねに上位。それなのに勉強一辺倒ではなく、そこそこ交友も楽しみながら、教師やクラスメイト達の信頼も獲得してきた和彦にとって、ちょっとした屈辱の瞬間だった。


(こんな簡単なバイトだと、俺みたいに優秀な人間は持て余してしまうんだな)


 そう思って、得体の知れない不快な感情をなだめた。こんな、覚えれば誰でもできるような仕事だと、へたに頭のいい人間が入ってしまえば輪を乱す。だから店長は平凡すぎるあいつに店の留守を任せたんだ。


 その瞬間、このバイトがバカバカしくなった。かといって、いきなり辞めるのも迷惑がかかる。だから徐々にシフトを減らして、あんまり入れなくなったのでと断りを入れて辞めた。


 あっさりしたものだった。


 もともと慣れあいは苦手なので、こんなもんだと気楽な気持ちで次のバイトを探した。大学の友人の紹介で家庭教師のバイトを手に入れ、これこそが自分の求めていたものだと感じた。


 自分にしかできない、代わりのいないバイトだと思った。


 生徒は可もなく不可もなく、不真面目でも熱心でもなく和彦の出した課題をこなし、わからない箇所を質問してきた。和彦は淡々と説明をし、相手が理解をするまで似通った課題を出して苦手を克服させるよう努めた。


 家庭教師をはじめてすぐのテストで、生徒はいままでよりもいい点数を出した。これからもよろしくお願いしますと生徒の母に頭を下げられ、当然のことですと答えつつ、まんざらでもない気持ちになった。やはり自分にはこういうバイトがふさわしい。そう思った。


 なにも問題はない。


 それなのに和彦は、紹介をしてくれた友人が家庭教師と生徒という立場以上に、生徒と友人関係に近いやりとりをしていると知って嫉妬を覚えた。勉強を教えるだけでなく、ふだんの話もできるっていうのが塾の講師と家庭教師の違いだよなと言われた和彦は、まあそうだなと答えながら焦燥に似た劣等感を抱えた。その気持ちのままに「まあ、塾の講師でもそういう気遣いのできる人間もいるけどな」と、批判的ともとれる言葉をぶつけてしまった。しまったと思ったが、友人は「なるほど」と素直に受け止め、己が思い上がっていたと軽い反省までして笑った。


 相手の機嫌を損ねなかったことにホッとはしたが、居心地の悪さが残った。だから和彦は「俺は正しいことを言ったのだ」と、反省した友人の言葉でそれを拭った。


(一方的な見解をしない、決めつけを嫌う俺は人格的にも優秀なんだ)


 自分自身にそう言った和彦は次のバイトの日、生徒に学校はどうかと問うてみた。生徒は勉強に関する答えをし、そうじゃなくてと焦れた和彦はキョトンとされた。


「友人のこととか」


 生徒は怪訝な顔をして、そんなことはどうでもいいと言いたげに顔を伏せると課題をはじめた。いきなりプライベートなことを聞かれても困るよなと、和彦は話題をやめにして、いつもどおりに接した。


 数日後に、なにか聞いていないかと生徒の母親に質問された。なにかとはなにか、と和彦は質問を返した。母親は困った顔で、学校の話や交友関係の話題を和彦にしていないかと問うてきた。そういうことはすこしも話さない。ひたすら真面目に勉強に取り組む、非常に優秀な生徒ですよと和彦は答えた。それに母親はうれしそうな、けれどどこか残念な気持ちを混ぜた笑顔を浮かべて、そうですかとつぶやいた。


(なんなんだ)


 疑念を持ちつつ、いつも通りにバイトをこなした。それからなにかを問われることもなく、バイトは順調に続いていった。――はずだった。


 家庭教師の仕事は問題なくこなしていたから、順調と言っていいはずだ。けれど和彦の頭の隅に、友人の言葉と生徒の母親の声が残っていた。


 ある日、和彦は「なにか困っていることはないか」と生徒に聞いてみた。生徒はノートから顔を上げ、すぐに興味がなさそうに顔を伏せると「べつに」と言ってペンを走らせた。


 なんでもないやりとり。


 そうかと言って終わりにし、いつもどおりに勉強を教えればいい。生徒の成績を上げることが、和彦に求められていること。それ以外は家庭教師の仕事の範疇ではない。それなのに「ふだんの話も」と言っていた友人の笑顔と、母親の「なにか聞いていないか」と問うた不安顔が、生徒の横顔やノートの上にちらついた。


 後で知ったことだが、生徒は成績が上がるとともに、やっかみ半分の嫌がらせを受けていたらしい。おとなしく気の弱そうな人間は、特出すると目をつけられやすくなる。どんな行為をされていたのかは知らないが、母親が和彦に聞いてきたということは、勘ぐるに足る変化があったからだろう。和彦はすこしも気がつかなかった。


 そもそも勉強以外の会話をするきっかけなどなかったし、課題をやらなかったり質問をしてこなかったりと、意欲のない行動をされなかった。いつもどおりに課題をこなし、わからない部分の質問を受け、説明しながら新たな問題に取り組む。その繰り返しの中には、ささいな変化も見受けられなかった。


(俺に気を使って隠していたのだろう)


 あるいは母親にバレるのではと、わざと態度を変えなかったか。


 その可能性もあると、和彦は生徒の抱えていた問題を知った瞬間、自分に言い聞かせた。


(俺が無能だから気づけなかったわけじゃない。もともと、そういう関係ではなかったんだ)


 脳内の自分の声に、友人の笑顔がかぶさる。成績優秀で交友関係も問題なく、頼られることもすくなくなかった自分が、まさか友人に劣っているなどありえない。


「ふう」


 歩き疲れて立ち止まった和彦は、ここではじめて顔を上げて周囲を見回した。


(ここは、どこだ)


 人がふたり並ぶのが精一杯の道幅しかない。


 コンクリートの存在など知らぬと言いたげに、土がむき出しの人に踏みしめられた道。手入れなどされていないと主張する、道端に茂っている草。両脇は背の高い木々がみっしりと立ち並んでおり、のびのびと枝を広げている。青々とした木の葉の隙間から、明るい陽射しが降り注いでいた。


(いつの間に、こんなところに入り込んだんだ)


 まったく記憶にない。どうしてこんな場所に……いや、こんな場所などあっただろうか。


 和彦はふたたび周囲を見回して、ここまでの自分の行動を手繰った。


 大学の講義を受けて、次の講義まで時間があるから、カフェにでも行こうかと考えた。向かう途中で家庭教師のバイトを紹介してくれた友人に声をかけられ、大変だったなとねぎらわれた。


「別に」


 そう答えた和彦は、わかっていると言いたげに友人にうなずかれた。


 そして言われたのだ。


「相談されてたけど生徒の気持ちを優先して、知らないふりをしていたんだろ」


 ゾワリと総毛立った和彦は、それが相手にバレていないかとヒヤヒヤしつつ、ぎこちない笑顔で肯定とも否定ともとれる動きで頭を動かした。そして、それじゃあと片手を上げて、さも予定があるかのようにそそくさとその場から逃げ去った。


 肌の上にある奇妙な冷たさと不快なざわめきを振り落としたくて、和彦は足早にカフェに向かった。アイスコーヒーを買ってブラックでそれを飲み、苦味で嫌悪感の上塗りをしていると、学友が数人やってきた。


 彼等は慣れた手際で当然の顔をしながら和彦の隣や向かいに腰かけて、就職活動はどうなっているかと、和彦を巻き込みつつ会話をはじめた。


 意識がさきほどの会話からそれたことをありがたく思いつつ、和彦は如才ない笑顔で顔見知り程度の彼等との会話に身を投じた。


「内定、なかなかもらえなくて辛いよなぁ」


 その発言に同意するところからはじまった話は、いくつエントリーし、そのうち手ごたえのあった会社はどこだったかというものだった。


(誰もなかなか、内定をもらえていないんだな)


 和彦は己がもらえないのだから、成績の劣る彼等に与えられるわけはないと優越感を浮かべた。さきほどの友人との会話で浮かんだざわめきが落ち着いて、いつものゆったりとした心地がよみがえる。するとアイスコーヒーだけでは物足りなくなって、ちょっとなにか食べたいからと断りを入れて席を立った。アイスコーヒーもなくなりかけていたので、なにか食べるなら飲み物もついでに買いに行きたい。


 空いたグラスを手に立ち上がった和彦に、じゃあなと気安い別れの言葉がかけられる。席に戻っても戻らなくてもいいと、それで判断した。


 去ろうとする和彦の背中に、会話を続ける彼等の声が届く。


「俺、まだ一個しか内定ないんだよな」


「もらえたけど、第一志望のとこじゃないから」


 ゾワリと不安が背骨を駆け上がる。自分の方が優秀だと考えている和彦は、ひとつも内定をもらえていなかった。


(俺があいつらよりも劣っているなんて、ありえない)


 きっと聞き間違いか、つまらない企業の面接を受けたのだろう。第一志望ではないと言っていたじゃないか。


 そんなふうに思いつつ、足元に絡みつく不安と不快から逃れるように、和彦は知らず歩速を上げていた。返却口にグラスを置いて、肩越しに自分のいた場所を確認する。誰も和彦を気にしていない。それに安堵を覚えつつ、どうしてコソコソした気持ちになっているんだと腹立たしくなりながら、和彦はカフェを出るとあてどもなく大学の構内を適当に歩き回った。


 そこまで思い出した和彦は、なるほどと腕を組む。


(ふだん入らない場所に来てしまったんだな)


 しかし大学の中に、こんな山道のような箇所があっただろうかと、脳内でキャンパスの全体図を広げてみた。


 この風景に該当するものは浮かばない。


(知らないうちに大学の敷地を出てしまったのかもしれない)


 きっとそうだと和彦は来た道を振り返った。まっすぐに伸びている道は、どこまでもおなじ景色に思える。それほど長く意識を内側に向けて歩いていたのかと、和彦は驚いた。


(せっかくなら)


 この道がどこに続くのか、確かめてから戻ってもいいだろう。今日はバイトが休みだし、この後の講義は休んでも問題ない。なにより和彦はいま、学校の誰とも会いたくなかった。

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