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まよいが  作者: 水戸けい
井上香澄
6/21

(私……あれ? なんで……どうやってここまで来たんだっけ)

「ほわぁ」


 入った瞬間、あまりにも珍しい光景に、香澄は間の抜けた声を出した。土を踏みしめ固められた玄関に、大きな石が置いてある。その石を踏めば腰かけるのにちょうどいい高さに、上がり框があった。


(この下、なにがあるんだろ)


 床の下には半地下の部屋があるのか、収納庫なのか。香澄は沓脱石に靴を脱いで部屋に上がった。


「どうぞ、こちらへ」


 そう言って案内されたのは奥の間だった。


「わあ」


 裏庭は見事な日本庭園で、香澄は思わず歓声を上げていた。


「降りてもいいんですか?」


「ええ、どうぞ」


 わくわくしながら下駄をつっかけて庭に出る。池にはちいさな滝が流れて、水面には鯉の背中がきらめいていた。大きな岩に囲まれた池のほとりに立った香澄は、身を乗り出して鯉をながめる。


「すごい」


 こんなに立派な庭のある店なのだから、値段も相当するに違いない。ハッと気づいた香澄は、あわててお気に入りのリュックを下ろして財布を探した。


「あ……れ?」


 真っ白な封筒がある。こんなもの、いつの間に持っていたっけと取り出すと、粗品という字が書いてあった。


(なんだろ)


 開いてみると招待券と書いてある紙が出てきた。


(こんなもの持ってたっけ。ていうか、なんの招待券?)


 なにやら蔓っぽい模様が描かれた中に、ただ“招待券”という文字が書かれているだけで、店名などは記されていない。ひっくり返すと白紙だった。どこのなにへの招待なのか、ちっともわからない。


「ええ。なにこ……れ」


 ぶわんと脳みそがたわんで、香澄は軽いめまいを覚えた。よろめきながら傍の岩に座って深呼吸をする。するとめまいはすぐに治まった。


「あ、そっか」


 商店街の福引で、この店への招待券を当てたんだった。思い出した香澄は顔を上げて、通された部屋に人影があるのを見つけた。


「あれ……おばあ、ちゃん?」


 にこにこと笑っているのは、間違いなく祖母だった。


(なんで、おばあちゃんがこんなところにいるの?)


 祖母は確か老人施設にいるはずだ。ひとり暮らしでは不便な上に不安だし、介護も必要になってくるからと、両親が資料を集めていたのを覚えている。


(おばあちゃん、いつの間に施設から出てきたんだろう)


 共働きで同居は難しいと言った両親に、さみしそうな笑顔で施設行きを了承した祖母の顔を思い出しつつ、香澄は庭から部屋に戻った。


「おばあちゃん」


 きちんと正座をしている祖母の横に座ると、祖母はにこにことお茶を淹れてくれた。その横に、ふっくらまるい饅頭が添えられている。


「いただきます」


 手を合わせて茶をすすり、饅頭にかぶりつく。ふわっとやさしい甘さが口の中に広がって、香澄は至福に目を細めた。


「んんーっ」


「おいしい?」


「うんっ!」


 反射的に返事をしてしまった香澄は、幼すぎる反応だったと口を閉じた。そんな香澄の心の機微のすべてを読んで受け止めたかのように、祖母は温和な笑顔を浮かべてお茶を注いでくれる。


 祖母の前では子どもの部分を出してもいいと、香澄は本能で知っていた。親に対するよりも心がくつろぐ。両親に対して不満やわだかまりがあるからではなく、祖母ならなにをしても――もちろん、非人道的な言動は別として――まるごと受け止めてくれるとわかっていた。だからついつい祖母に対しては、幼い部分が出てしまうのだと香澄は思う。


(おかあさんとかに子ども扱いされるとムッとするけど、おばあちゃんになら平気なの、なんでだろう)


 饅頭を食べながら、香澄は考えるつもりもなく疑問を浮かべた。


「もうひとつ、あるよ」


「でも、おばあちゃんのは」


「おばあちゃんはいいから。香澄が食べなさい」


「それじゃあ」


 香澄は饅頭を半分に割った。


「はんぶんこ」


「あら、ありがとうねぇ」


 ふくふくとした祖母の笑顔に、香澄の心が蒸し饅頭のようにふっくらほっこりあたたまる。


「ねえ、おばあちゃん――」


(どうしていっしょに住まないの?)


 言いかけた言葉を呑みこんだ香澄は、言葉の続きを待つ祖母の瞳を見返してほほえんだ。


「おまんじゅう、おいしいでしょう?」


「うん、おいしいねぇ。ありがとねぇ」


 礼を言う必要はないのに、心底うれしそうに言ってくれた祖母にもっと、おいしい饅頭を食べさせてあげたい。


(今度、施設にお見舞いに行くときに買っていこう)


 いくらするのかはわからないが、高くても祖母が食べるぶんだけならば、お小遣いの中でも買えるはず。そう決めた香澄は部屋の中を見回して、両親の気配がないことに気がついた。


(あれ? なんで、おばあちゃんだけなんだろう)


 足が弱っているから、ひとりで外出はさせられないと母親が言っていた。だから施設に入れるのだと。施設では付き添いの介護士が、移動の時に手を貸してくれるから安心だと祖母に説明をしていた。


(施設の人もいないし)


 祖母がひとりで、あの坂を歩いて店にやってくるのは難しい。かといって道幅は香澄よりもすこし広い程度の小道だったから、車で店前まで運んでもらったとも考えにくい。


「ねえ、おばあちゃん」


 どうやってこの店に来たの。そう言いかけた香澄の耳がヒィインと高い音を拾った。耳鳴りに意識が向くと、目の奥がチカチカした。香澄は目を閉じて耳をふさぎ、眉間にしわを寄せた。しばらくして症状が治まると、問いの答えは香澄の裡にあった。


(そうだ。招待券が当たったから、おばあちゃんとここに来たんだった)


 施設に迎えに行って、施設の車でここまで送ってもらったんだと香澄の疑問が霧消する。終わったら施設の人が迎えに来てくれるんだった。それまでは祖母とふたりでのんびりと過ごせるんだと思い浮かべた香澄は、立ち上がって祖母に手を差し伸べた。


「ちょっと、お散歩に行こう? おばあちゃん、リハビリで歩かなきゃいけないんでしょ」


 祖母はちょっと困った顔でテーブルに手をついて腰を上げると、香澄の手を取った。しっとりとやさしいロールケーキみたいな指触りに、香澄の心がくすぐられる。


(年寄りの手は干からびているなんて、ぜったいウソだ)


 シワシワだけれどやわらかく、なめらかな肌触りに香澄の心はふわふわのふかふかになる。


(赤ちゃんを触っているみたい)


 年を取ると赤ちゃんに戻っていくんだと、なにかで聞いたことがある。祖母はその途中なのだろう。ゆっくりゆっくり足元を探るように歩を進める祖母よりすこし前に立ち、手を引くというよりは添えているという在り方で部屋の外を目指す。


 香澄ならば数秒で出られる距離を、祖母はじっくりじっくり進んでいく。焦りも苛立ちもないおだやかな表情に、香澄の顔は自然とほころんだ。


 ようやく廊下に出たところで、祖母は膝に手をつくと深く深く息を吸い、細く長く吐き出した。


 辛そうには見えない。


 顔を上げた祖母が、困った顔でほほえんだ。気にしないでと香澄は普段通りの笑顔を向ける。祖母のペースで歩くのはきらいじゃない。どちらかと言うと好きかもしれない。一歩一歩、大切に踏みしめる歩き方をうらやましいとも思う。


(そういうと変だって言われるかもしれないけど)


 祖母の気持ちはわからない。うらやましいと言えば失礼になるかもしれない。あるいは気を使われていると受け止められるかも。


 だから言葉にはしない。すまなそうな笑顔を浮かべつつも、ごめんなさいとは言わない祖母の、しっかりと位置を確かめているような歩みをうらやみながら、香澄は気持ちを笑顔に乗せる。


 こういうものも会話だと、香澄は思う。


(言葉を交わしていても、会話をしている気分になれないこともあるのに)


 不思議だけれど、とても居心地がいい。互いが互いの存在を認めて、ありのままを受け入れている。


 気の置けない関係というか、甘えられる相手というか、素直になれる場所というか……とにかく、香澄にとって祖母はそういう存在だった。


 無意識の気負いがさらりとはがれる。自分にまとわりついている、他人からむけられる“らしさ”という記号が消えている。無意識に身構えてしまう、他人から向けられる“らしさ”という枠を気にしなくていい関係は、なんてのびのびとしていられるのだろう。


 香澄にとって、それを得られる相手は祖母だけだった。


(どうして)


 わからない。わからないけれど、祖母は久しぶりに会うと過去の香澄と変化した香澄の双方を、そのままに受け止めてくれる。それがとてつもなく心地いい。


 そんな祖母との時間が、香澄のこわばった心を和ませてくれる。


 かなり時間をかけて、香澄は祖母とともに玄関にたどり着いた。上がり框は地面よりもずいぶん高く、祖母は降りるのがつらいのではと香澄は案じた。


「おばあちゃん」


「あちらなら段差もすくなく、降りやすいですよ」


 呼びかけた香澄の声を遮って、いつの間に現れたのか青年がにっこりと廊下の先を示した。


「あ、ええと」


 廊下の奥までどのくらいあるのだろうと、香澄は部屋からここまでの時間を振り返った。そこまで行くのと、ここで手を貸して祖母を下ろすのと、どちらが楽で時間もすくなく済むか。


 迷う香澄がふと祖母に目を向けると、その肩の向こうにぽっかりと長方形に口を開けた光が見えた。しばらくすると光が薄れて、緑豊かな原っぱの姿が現れる。


「え……あれ?」


 玄関の前にいたはずが、いつの間にかわずかな段差しかない勝手口らしい場所にいた。意識が靄に包まれている。


(私……あれ? なんで……どうやってここまで来たんだっけ)


 眉根を寄せて思い出そうと下を向くと、愛らしい鼻緒の草履がふたつ並んでいた。片方は赤、片方はハニーマスタードだ。


「あら、からし色」


 にこにこと祖母が言う。そういえば祖母はこの色が好きだったなと、香澄は赤い鼻緒の草履に足を入れて、祖母の手を支えた。祖母はうれしそうに草履を履くと顔を上げ、景色を見回す。


「いい風だこと」


 そよとも吹いていなかった風が、祖母の声に引き寄せられてふたりを包む。さらりと髪を撫でた風に目を細め、香澄は深呼吸をした。肺の中にみずみずしい草の香りが飛び込んでくる。吐き出すのが惜しいくらいにさわやかで、命の輝きにあふれた空気を惜しみつつ口からこぼすと、祖母がゆっくりと歩きはじめた。


 祖母の三歩は香澄の一歩で事足りる。そのくらい歩幅のせまい祖母の足取りに合わせると、いろいろなものが目に入る。


 足元の草の間に咲いた、ちいさなちいさな花の姿。おなじように見えて、すこしずつ違う葉の形。遠くに見える緑の濃淡や影の形。ゆったりと浮かぶ雲が、形を変えつつ移動していく。


(落ち着くなぁ)


 時の流れを静かに味わえる。いつもよりもたっぷりと空気が吸える。のびのびするとはこういうことだと、香澄は両腕を思い切り広げた。


「あー」


 意味のない声を発すると、ふふっと笑いがこみ上げた。振り向くと、祖母は目を細めて香澄を見つめていた。


 祖母の幸福な笑みに、香澄の心がくすぐられる。照れくさくなって肩をすくめた香澄は、軽く広場を駆けてみた。


(子どもに戻ったみたい)


 世間からすれば子どもだと自覚している。けれど大人が思うよりは子どもではない……はずだ。


(ああ、そっか)


 香澄の脳裏にひらめくものがあった。


「おばあちゃん」


 駆け戻った香澄に、祖母はかわいらしく小首をかしげる。


「あのね、私……子どもかな」


 すこしの間を空けてから、祖母はのんきな声を出した。


「香澄は、香澄だよ」


(ああ、そっか)


 そうだよねと香澄は破顔した。


「私は、私か」


「そうよ。香澄は、香澄よ」


 うんうんと首を動かした香澄は、なんだかうれしくなって祖母のまわりをくるくる回った。


 ひとしきりよろこびを体現してから空を見上げた香澄は、胸から喉奥にせり上がってくる希望を叫ぼうとして思いとどまる。


(ああ、でも)


 両親の顔が空と香澄の目の間にうっすらと浮かんでいる。


 しゅんとうつむいた香澄の腕に、祖母の手が置かれた。


「香澄」


 一音一音、大切に発音された自分の名前に、香澄の心は震えて目の奥が熱くなった。


「おばあちゃん、あのね……あのね」


 祖母の腕を掴んで、香澄はぽつぽつと小石のように胸の奥に溜まって、ザラザラと心にこまかな傷をつけているわだかまりを言葉に変えた。


「私なんだか、おかあさんたちが決めた人生を歩かされている気になるんだ」


 ちらりと祖母の顔色をうかがう。祖母は静かな笑みをたたえているだけで、非難の色はすこしもなかった。けれどいつ、とがめられるかわからない。あるいは嫌悪を浮かべられるかも。


(でも、おばあちゃんなら)


 大丈夫なんじゃないかと期待して、香澄はおずおずと言葉を続けた。

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