「こんな家、まだ存在してたんだ」
井上香澄はぼんやりと草の生えた小道を歩いていた。道の左右は背の高い木々が立ち並んでいる。ただまっすぐにだけ進めと言われている気がして、香澄は鼻の頭にシワを寄せた。
(うちの親みたい)
こういうふうになりなさい。こういうふうにしなさい。ああいう人になりなさい。こんな人生を歩みなさい。
そんなことを言っては、すこしでも香澄が違う道に逸れかけると手を伸ばして、親の望む道へと引き戻す。
(私のためを思っているからっていうのは、わかっているけどさ)
だからこそ息苦しいのだと、香澄は深くて重い息を足元に落とした。
自分の望みをかなえたいがために、子どもをその道へと連れて行く親……というほどでもない香澄の親は、本気でその道が香澄のためになると信じていて、すこしでも娘の人生をよりよくしようと考えて、あれこれと口出しをしてくるのだ。
(中途半端にコントロールされてるっていうか、なんていうか)
だから反抗をしにくいんだと、香澄は歩きながら空を見上げた。枝葉を伸ばした木々に遮られ、空の姿は細切れにしか見えない。けれどすごく高く広い場所だというのは伝わってくる。
(世界みたい)
世界という単語を、まだ香澄は漠然とした感覚でしか知らない。インターネット経由でいろいろな世界と繋がれる、という程度の知識はある。地球上にはいろいろな文化を持つ国があり、いろいろな地域があり、さまざまな人種が存在するということも。
しかしそれは単なる知識でしかなく、香澄にとっての世界は家庭と学校を中心とした行動範囲内だった。
(もっと広い世界がある、なんて言われてもね)
そうなんだとは思うけれど、実感をともなって受け止められない。言葉は、心の上をつるんと滑ってどこかに消える。
(大人の言葉って、みんなそう)
木々の向こうに見える空みたいに遠くて、足元の草木ほどの実感も与えてくれない。ちっとも心に響かない。そんなことはわかっているけど、知っているけどわからない。そういう気持ちを大人は持っていないのだろうか。
自分とおなじ年齢だったころ、いまの大人は似た感覚を味わってはいなかったのか。
(忘れちゃっているのかもね)
幼児のころの感覚を失っている自分のように、大人も思春期時代の意識をすっかり忘れているのかもしれない。あるいは、残っていてそのアドバイスなのか。
(頭のいい人とか、成功している人の言葉って、なんだかんだで似ているし)
それを繰り返し、偉い人が言い続けているということは、それが真理であり大切であり重要であり……とにかく、とってもためになる言葉なんだろう程度には受け止めている。
けれどそれが、どうしても実感に繋がらないのだ。
(私の頭が悪いから、じゃないよねぇ)
唇を尖らせて、香澄は道の先を見た。小道はまだまだ続いている。まっすぐに、曲がることを許さないぞと言いたげに。なのに風はやわらかく、風景はとても優しくて、強要されているとは感じられない。
親の教育みたいな道。
ふっと香澄は口元に笑みをただよわせて、道なりにまっすぐ進んでいく。目の端に時折ちいさな花の影が映るけれど、立ち止まってゆっくり見るなんてしない。きれいだな、かわいいなと思いつつ通りすぎるだけだ。
子どものころ――いまも子どもと言える年齢だけれど――目についたものにはなんでも興味があって、立ち止まって満足するまでながめていた気がする。いまはそれがなんなのか、どういうものなのかを知っているから、不思議に思うこともなく、じっくりながめることもなく、たとえば「ああ、花が咲いているな。白くてちいさな花だな。かわいいな」くらいの感想を浮かべつつ横目で見ながら通り過ぎるだけだ。
(友達がいたら「花が咲いてるよ」「ほんとだ、かわいい」「なんて花なんだろうね」「ねー?」なんて、中身があるようでない会話をしながら、これといって気にも留めずに素通りするんだろうな)
メンバーと会話の内容が容易に想像できて、香澄はクスクスと肩を震わせながら地面に視線を落とした。
黄土色の土がむきだしになっている道に、ちらほらと草が生えている。
(どうして、こんなところに生えているんだろう)
わきの、人が踏まない場所に生えればいいのにと、香澄は不思議に思う。
(まあ、種はどこに落ちるかわからないもんね)
好きでこんなところに生えているんじゃないと、草から反論される妄想をして、香澄はまたクスクス笑った。
(はぁ……なんで私、こんなとこ歩いてんだろ)
さっぱりわからない。
けれど足は勝手に動いて、どんどん奥へと進んでいく。いつの間にこの道に入ったのか、この先になにがあるのか知らないままで、香澄はずんずん前へと進んでいた。自分の足で進んでいるのに、ベルトコンベヤーで自動的に運ばれている気がする。
(変なの)
自分で選んでこの道を歩いているはずなのに、ちっともそんな意識がない。ただこの道を行かなければならないから、立ち止まってはいけないから、おなじ速度でただひたすら前に進んでいる。
そんな感じだった。
左右に目を向けてみると、右手にちょっとした小道があった。そこはいま進んでいる道よりも草が多くて、ぱっと見は道に見えない。けれど両端にすっくと茎をのばしている、どこかで見たことのある花が両側に並んで、道があるよと主張していた。
(お花の小道だ)
そちらに行ってみたい衝動にかられた香澄は、つま先ですこし迷ってから体を小道に向けた。すると左肩にコツンとなにかが落ちて当たった。見ればそれはドングリで、拾った香澄はキョロキョロとドングリの木を探してみた。
(ない)
ドングリの木どころか、肩にあたったドングリのほかに、ドングリらしきものは落ちていない。
(鳥かリスが落としたとか?)
そう考えても、木の葉の影にそれらしい姿は見当たらず、香澄は首をかしげた。
(なんだろ)
ドングリをながめていると、いままでどおりの道に行かなければならない気になってきた。未練のある目で小道を見つめる。そよとも風は吹いていないのに、並んだ花がしずかに揺れて、香澄は招かれている気分になった。
(ああ、でもダメ)
そちらに行ってはいけないと、心に訴えるなにかがある。それは手の中に握りしめたドングリから、香澄の心に流れてくる感情だった。
(どうしてドングリが)
ドングリが肩に当たり、拾ってから小道へ行く気が失せてしまった。気のせいだとは思いつつ、それでもドングリに自分の道程をさりげなく指示されたという意識があった。しっかりとドングリを握りしめている手を見つめ、捨ててしまえば花の小道に行けると思いつつも、香澄は指を開くことができない。
(なんで)
わからないが、このドングリはどうしても捨ててはいけないものだと、香澄のどこかが訴えている。
しかたがないなと息を漏らして、香澄はドングリを握りしめたまま、もともとの道の先へと向かうために足を動かした。
花の小道に気づいたのがきっかけなのか、それともいままでなかっただけか、香澄は左右にちらほらと別の道があることに気がつきだした。なんとも思わない道もあれば、心惹かれる道もある。
ちょっとそっちに行ってみようかなとつま先を向けると、手の中のドングリの存在がひときわ大きく感じられて、その道に行く気が失せてしまった。
(なんなの、いったい)
疑問と腹立たしさと困惑とを混ぜ合わせた感情を抱えつつ、香澄はドングリを握ったまま脇道を通り過ぎ続けた。いっそドングリを捨てて行ってしまいたいと思う小道もあった。そのたびに悩み、迷い、けれど結局はドングリを持ったままあきらめる。
そんなことを繰り返していると、目の前に建物の影が見えた。
(あれは、なんだろう)
この道の最終地点はあそこなのかと、香澄はまっすぐに建物を目指した。
「うわぁ」
それは写真や映画、ドラマなんかでしか見たことのない、古い日本家屋だった。庭先で鶏が散歩をしている。
「こんな家、まだ存在してたんだ」
祖父の子ども時代よりも前のものだと香澄は思っている。なのでいまどき、縁側のある日本家屋が現存しているなど、香澄にとっては信じられない光景だった。
(なにかの映画のセットとか……ああ、えっと古民家カフェとか、そういうのかも)
日本の古い家は頑丈で歴史もあるし、雰囲気もいい。そういうものをリノベーションして、おしゃれな飲食店や民宿にする流れがあるとテレビで観た。きっとこれは、そういうものなのだろうと、香澄は物珍しく建物をながめまわした。
(こんなのが近所にあるなんて、知らなかったなぁ)
個人の家かもしれないという考えを、香澄は持たなかった。なんの店なのだろうと看板を探してみるが、それらしいものは見当たらない。ただ鶏が平和そうに散歩をしているばかりで、人の姿も見えなかった。
(お留守なのか、お休みなのか)
どうなんだろうと香澄は玄関をじっと見つめた。表札がないから、やっぱりお店なんだと思いつつ、それでも看板がないのは不思議だと首をかしげる。
(まあでも、お店が開いている間だけ看板とか暖簾を出す店もあるし)
ということはやはり定休日なのかなと、香澄はさらに好奇心をかきたてられた。それほど高くないお店なら、友達とともに訪れてみたい。
(きっとカフェかなにかのはず)
そうだったらいいなと希望交じりの確信をして、香澄はそっと玄関の隙間から中が見えないかと顔を近づけてみた。
すると――。
「わっ」
カラリと引き戸が開けられて、和装の青年が顔を出した。
「おや」
青年は軽く眉を上げて香澄を見つめ、すぐに笑顔を浮かべると手のひらで奥を示した。
「いらっしゃいませ」
「え……っと、あの」
(このお店の人なのかな?)
まじまじと観察する香澄に、和装の青年はにこにこしながら店の中に手のひらを向けている。
(いいところのお坊ちゃんというか、なんだかそういう感じ)
着物はしっくりと身になじんで、着慣れている雰囲気がある。おだやかな笑顔は上品で、落ち着いた物腰は育ちの良さをにじませていた。
(それに、ちょっとイケメン)
二十代後半から三十代前半といったところだろうか。ますます同級生とともにこの店を訪れたくなった。
(でも)
「あの、ここはなんのお店なんですか」
まずはそこを知らなければ。
青年は香澄の質問には答えずに、さあどうぞと店の中に入るよう促すばかりだ。不審に思いつつ、それでも好奇心には勝てなくて、香澄はドングリを握りしめた手にもう片手を重ねて、胸に当てつつ敷居をまたいだ。




