「もうすこし、あなたにかまってほしかった」
「その言い方はなんだ」
「だって、そうじゃありませんか。それともほかに、どこかに出かけるつもりだったんですか。観光なんて面倒くさい、勝手に行けといつも言っていたあなたが」
グッと言葉に詰まった正彦は、きょろきょろと視線を動かした。壁に祭りのポスターが貼ってある。
「ああ、ほら。あれだ……あれ」
言いながら近づいた正彦は、すばやくポスターに書かれている文字に目を走らせて、いかにも前から知っていたという顔をした。
「この提灯まつりの様子でも観に行こうかと思っていたんだ」
「私を置いて、ですか」
「いや。くわしい場所を聞いてから、おまえに教えようと思ったんだ。やみくもに行くのはめんどうだろう」
「それが旅のだいご味でもあると、私は思うんですけどね」
「俺は、おまえをわずらわせまいと思ってだな。――ああ、まあいい。とにかく、そういうことだ。どうだ、かあさん。これを観に行くか」
まだ日が高くて、はじまってもいないだろうがと言いかけた正彦は、窓の外の景色に目をまるくした。
(いつの間に夜になっていたんだ)
ここに到着してから、それほどの時間が経過したとは思えない。
(いや……そうか。到着した時間が遅かったんだ。だからもう、日が暮れてしまったんだな)
靴を履いた正彦が玄関を出ると、そこは情緒あふれる温泉街だった。建物の間に紐が渡され、そこに多くの提灯がぶらさげられている。わざと電気を消しているらしく、淡い提灯の灯りだけが、ぼんやりと周囲を照らしていた。子どものころの縁日を思い出すなと、正彦は周囲に視線を投げながら閉店した店の前に並んでいる屋台の間を歩く。
袖を引かれて振り向けば、妻が困った顔で笑っていた。
「あなたはいつも、こちらに歩調を合わせるなんてことしないんですね」
「なんだ、それは」
「加奈子はいつも小走りになっていたんですよ」
「いつの話だ」
「子どものころに決まっているじゃないですか」
「そんな昔の話」
会話を切り捨てた正彦に、妻が深々とため息をこぼす。
「なんだ」
「そのときに聞いてもらえなかったから、いまこうして伝えているんじゃありませんか」
「なぜ、そのときに言わなかった」
「言いましたよ。けれど、あなたの耳には届いていなかったみたい」
肩をすくめる妻に、正彦は顔をしかめた。
「なら、届くように言えばよかっただろう」
「聞こえているのに無視をされたと、嫌味っぽく遠まわしに言っているんです」
「おまえ」
言いかけて、正彦はふと口をつぐむ。そういえば、そんな言葉を向けられたことがあるかもしれない。
(加奈子はいつも元気に走っているなと思っていたが、あれは俺に追いつくためだったのか)
かすかな衝撃が胸によぎる。そういえば幼い加奈子はいつも「おとうさん、待って」と言っていた気がする。あれは自分を慕っていたのではなく、ただ単に追いつけないからだったのか。
気づきを顔に乗せて妻を見た正彦は、あきれた笑顔でうなずかれて「むう」っとうなった。
(そうだったのか)
わかっているはずが、なにも知らなかったのだ。そんな気分でうつむいた正彦の腕に、妻の腕がからんだ。
「なんだ」
「こうしていれば、歩幅を合わせてくださるんじゃないかと思ったんです」
うふふと笑う妻の無邪気な顔に、出会ったころの新鮮なときめきを思い出して、正彦は心の奥をムズムズさせながら「勝手にしろ」と、ぶっきらぼうにそっぽを向いた。
ゆっくりと、妻の歩幅で屋台の前をひやかしながら歩いていく。
(こいつは、こんなふうにいろいろなものに目を止めて生きて来たのか)
仕事に熱中して、駆け足で定年まで過ごしてきたなと、正彦は自分を振り返る。
(だが、誰もがそうだった。俺の世代……いや、男というものは皆そういうものだ)
断言した脳裏の端に、出世を望まなかった同僚や先輩、後輩の顔が浮かんだ。彼等はいつも仕事に隙間を作っていた。サボっていたわけではなく、空きをわざと残して仕事をしていた。出来が悪かったわけではない。出来が悪ければ余裕など作れない。その部分に仕事を詰めれば、もっと上を目指せたのではないか。もっともっと残業をすれば、もっともっと稼げたのではないか。そう思うことが幾度もあった。正彦とおなじ考えの者たちとの飲み会で、彼等を向上心がないと軽んじたこともある。
(だがしかし、あれは)
彼等もまた、わき目もふらずに仕事ばかりしていた自分をあざけっていたのではと、正彦はいまさらながらに振り返る。休日の接待ゴルフや飲み会のほとんどを、彼等は断っていた。しかしそれで仕事がおろそかになったり、劣ったりすることはなかった。断りの理由はだいたいが、家族に関することだった。
屋台に並ぶアクセサリーに目を輝かせる妻を見ながら、正彦は過去に向けられた言葉を思い出す。
(たまには付き合いを断って、家族と過ごしてくれませんか……だったか)
あるいは「そんなに疲れるのなら、断ればいいのに」だった。これも仕事のうちだと返しながら、誰のおかげで飯が食えているんだと腹立たしくなったこともある。実際に、そう言ったこともあったかもしれない。
(誰もがそうやって、家族のためにがんばっているんだと思っていたが、あいつらはそうじゃなかった)
しかし自分のやり方が間違っているとは思わない。むしろ、だからこそ加奈子を希望の私立高校に通わせ、大学も卒業させられたのだと、己の働き方を肯定する気持ちのほうが強い。
(そうだ。俺は間違っていない。俺は家族のために、懸命に働いたんだ。だからこそ家族は幸せに不自由なく暮らせてきたんだ)
なにもかも家族のためだった。専業主婦の妻が子どもの面倒を見て、夫は家庭を守るために仕事人間になる。それは当然のことで、なんら恥じることはない。
(家族を養うというのは、そういうことだ)
「ねえ、おとうさん。これどうかしら」
妻が胸元にネックレスを当てている。正直、どうかと聞かれても正彦にはわからない。
「まあ、いいんじゃないか」
欲しいのならば買ってやろうと尻ポケットに手を入れると、財布ではなく紙のチケットが出てきた。
(なんだこれは)
印字に目を凝らしてみると、交換券と書いてある。
(こんなものがなんで……それに、財布はどこに行ったんだ)
「交換券、一枚ですって」
妻の声に思考が中断される。するとストンと記憶が落ちて来た。
(そうだ、そうだ。祭りのチケットも含めての滞在だったんだ。それで財布はあずけてきたんだったな)
妻の横に並んだ正彦は、交換券を店主に差し出した。店主の顔は薄暗くてよく見えない。細く長い指とシワの寄った手の甲から、相当の年寄だと正彦は判断する。きっと地元で古くから細工の仕事をしているのだろうと、妻の胸元に下げられた木彫りのネックレスに視線を置いた。
「ほかの屋台も見てきましょう」
「ん。ああ、加奈子にも買ってやらなくていいのか」
妻はきょとんとまばたきをして、クスクスと肩を揺らした。
「なんだ」
むっつりとする正彦に、妻は「だって」と言いながら笑い続ける。
「あなたって、ふだんはちっとも加奈子のことをかまわないのに、こういうときにばかり気にかけるんですもの」
「ふだんから気にしているぞ」
「そうは見えないんですよ」
「なんでだ」
「だって、仕事が終わって帰ってきたら、テレビを観ながら食事でしょう? 加奈子の話なんて、なんにも聞かないじゃないですか。運動会の話も、音楽会の話も聞き流すばっかりで、それよりも仕事のことだとか、疲れているんだとか。そういう理由でいつも、おまえにまかせるって参加をしたことないでしょう」
「む、ぅ……だがそれは、しかたがないだろう」
「家族を養うために、がんばっているんだから」
言葉を引き継がれて、正彦は押し黙った。
「いつも、そうですね。それはわかっています。わかっていますけど、もうすこし……ほんのすこしだけ、あの子はかまってほしかったんだと思いますよ」
それに私もとこぼしながら、妻はネックレスを指先でもてあそんだ。
「もうすこし、あなたにかまってほしかった」
「え」
「結婚してからしばらくは恋人の延長でしたけれど、だんだん妻に変わっていって、加奈子が生まれてからはすっかり、加奈子の母親としか見てくれなくなりましたね」
妻のほほえみにさみしい色を見つけて、正彦はうろたえた。
「な、なにを言っているんだ。おまえは俺の妻で、加奈子の母親だろう。そういう扱いをしてなにが悪い」
「悪いなんて言っていませんよ。ただちょっと、私を私個人として見てくれる時間を、持ってくれてもよかったのになと思っているんです」
「やっぱり恨み言じゃないか」
「あら」
片手を口許に当てた妻が、クスクス笑いながら「そうですね」とちいさくうなずく。
「なんなんだ、いったい。どうした、かあさん」
「私は加奈子を生んでから、かあさんになってしまったんですね。正彦さん」
澄んだ瞳で見つめられ、正彦はドギマギした。
「なんだ、いきなり。いつもは、おとうさんと呼ぶじゃないか」
「時々、加奈子がいないときに、正彦さんって呼んでいましたよ」
「そうだったか」
「そうですよ。そういう変化に気がつかないのも、あなたらしいと言ってしまえばおしまいですけど」
「けど、なんだ」
「いいえ。そういう人を、私は選んでしまったんですね」
ぽつりとこぼした妻が背中を見せて先に行くのを、心をざわめかせながら正彦は見つめた。
(なんだ。なにが言いたいんだ。かあさんは……恵子は俺との結婚を後悔しているのか)
熟年離婚という単語が頭の中で点滅する。正彦は早足で妻に追いつき、その肩に手を伸ばした。
「あ」
正彦の手が妻の肩に触れる前に、彼女はくるりと振り向いて照れくさそうに肩をすくめた。
「こういうこと、昔ありましたね」
「え」
「結婚する前のことですよ。覚えていませんか」
ほらと言いたげに周囲を示す妻の手のひらにつられて、正彦はぶらさげられた提灯と道の両端にならぶ屋台を見回した。
「そういえば、あったかもしれないな……うん。ああ、そうだ。あれは」
プロポーズをした日のことを、正彦は思い出す。あれは地域の大きな花火大会だった。いつものデートの感覚で恵子とともに出かけた正彦は、笑顔の波と屋台をながめつつ花火会場を目指して歩いていた。
(あの日、俺はプロポーズをするつもりじゃなかった)
結婚を申し込むつもりではいた。しかし、あの日にする予定ではなかった。プロポーズはきちんと指輪を買って、すてきなレストランでロマンチックにするつもりでいたのだ。
(だが、予定が狂ってしまった)
普段はつつましい、まだ恋人だった未来の妻、恵子のはしゃぎようがあいらしくて、屋台の灯りに照らされた笑顔が胸に迫って、つい言ってしまったのだ。――結婚してほしい、と。
唐突な言葉に恵子は小首をかしげた。聞こえなかったのかと、正彦は安堵と焦燥の両方を覚えた。しばらく後に、恵子ははにかみながら「はい」と心底うれしそうに答えた。
どちらともなく手を伸ばして指を絡め、並んで花火会場に向かった。夜空に弾ける花火を見ながら、しっかりと恵子の手を握りしめた。これからこの人と、一生を共に過ごすのだと胸を高鳴らせた。あの時の心臓のとどろきは、花火の音に負けないくらいに大きかった。
「かあさん。ああ、いや……恵子」
言いながら、正彦は右手を差し出した。妻になり母になった恵子は、共に歩んだ時間のぶんだけ若さを失い、けれども当時と変わらぬ笑顔で正彦の指に指を絡めた。
(俺も恵子も、ずいぶんと年を取った)
それだけの時間を、共に生きてきた。加奈子という人間が生まれて、親になるまでの長い年月を夫婦として過ごしてきた。
(なんて……なんてことだ)
駆け抜けてきた時間が、その延長として過ごしていた定年後の生活が、渦となって正彦を翻弄する。
家族のために、幸せな家庭を守るために。
そのために懸命に働いて、おまえたちのために苦労をして、努力をしているんだと言いながら、妻の献身を当たり前だとぞんざいに扱っていた。
いや。
けっしてそんなつもりはなかった。がんばっているのだから、ねぎらわれるのもいたわられるのも当然だと考えていた。「おい」と呼べば「はい」と答えて、お茶や食事を用意するのが妻たるものの務めだと認識していた。
(さっき、かあさんはなんて言った?)




