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まよいが  作者: 水戸けい
乙若
21/21

(これこそが、私が求めていたものだ)

 返事はなかった。けれど気にせず乙若は囲炉裏の前に戻る。


(私がいなければ、あの少年はどうしていたろう)


 戸の外に激しい雨音が響いている。雨宿り先としてこの屋を訪れたのかと、乙若は土間に降りて玄関から外を覗いた。戸の向こうに顔を出そうとしたが、悪寒に似たざわめきを感じて動きを止める。


(なんだ――?)


 いぶかりながら、乙若は雨のとばりに遮られた外の景色に目を凝らした。ぼんやりと木々の姿が見えるのと、ぬかるんだ地面が雨に打たれて波紋を描いているのがわかる。それ以外にはなんの変哲もなさそうなのに、乙若の腹の奥で顔を出すなと忠告してくるなにかがあった。


 よくわからないままに戸から離れた乙若は、少年のために体のあたたまる飲み物でもあればいいがと部屋に上がった。すると脳裏にどこに行けばいいのかがひらめき、それに従うと台所の片隅で水あめを見つけた。これを湯で溶かして飲ませればいいと振り返れば、かまどの鍋に湯が沸いていた。その横におろし金とショウガを見つけ、用意がいいなと乙若はほほえんだ。


(私の手で作り、少年に与えよというのだな)


 ショウガをすりおろし、それと水あめを椀に入れて湯で薄める。このくらいでは足りないかもしれないと、おかわりができるよう別の器に余分に作っておこうとしたところで、背後から声をかけられた。


「あの」


 振り向けば少年が肩をちぢめて立っていた。


「よくあたたまったか?」


「はい。あの……ありがとうございます」


 うなずきながら近づいた乙若は椀を差し出した。


「熱いから、ゆっくりと飲みなさい」


 困惑気味な顔で少年はあめ湯をすすり、おいしいとつぶやく。うれしくて「おかわりが欲しいなら、遠慮なく言いなさい」と乙若が勧めると、少年は妙な顔をして乙若をジロジロながめた。


「なにか?」


「どうして、こんなに親切にしてくれるんですか」


 不審と感謝を織り交ぜた少年の目に、乙若は手首の数珠を見せた。


「御仏に仕えるものだからと言えば、安心してもらえるかな」


「お坊様なんですか?」


「見えないだろうが、おぬしよりも幼いころより寺で修行をしてきているよ」


 ふうんと納得したようなしていないようなうめきをもらして、少年は残りのあめ湯をすすると、ごちそうさまでしたと椀を乙若に返した。


「もう、いいのか」


 うなずいた少年に、そうかと乙若は落胆をにじませた。


「腹は減っていないか。疲れているのなら、ひと眠りしておくといい」


 ブンブンと少年は首を振った。


「そうか」


 声を落とした乙若に、少年は腰を折って深く頭を下げた。


「ありがとうございました」


「礼を言われるほどではないよ」


 なにもかも、この屋が準備をしたものだ。それと少年をつなぐ役をしただけにすぎないと、乙若は軽く手を振った。


「あの、この着物……あとで洗って返します」


「私には必要のないものだから、おぬしのものにすればいい。ほかに、なにかいるものがあれば」


 なんでもと言いかけて、乙若は女性の言葉を思い出した。


「ひとつだけ、この屋から持って出てかまわない」


「ひとつだけ……?」


「そう。ひとつだけ、好きなものを」


 少年は奇妙な顔をして、それじゃあと着物を引っ張った。


「この着物をもらいます。これで、ひとつですよね」


「ああ、そうか。そうなってしまうな」


 もっともてなしをしたいのだがと、眉尻を下げた乙若が首をかたむけると、少年は外に顔を向けた。


「雨が止んだみたいなので、俺、もう行きます」


 おどろいた乙若が外の様子をうかがうと、空はすっかり晴れていた。


(いつの間に)


 ただの通り雨だったのかと空を見ていると、少年の「ありがとうございました」が乙若の背中にあたった。


 あわてて振り向くと、少年の姿はなかった。玄関に走ると少年は出ていく寸前で、乙若は「なにか」と彼を呼び止めた。


「なにか、ほかに……困りごとはないか」


 きょとんとまばたきをした少年は、まっすぐ乙若に向き直り、それじゃあと口を開いた。


「俺よりもちいさいときから修行をしているって、言っていましたよね」


「ああ……そうだ。母や兄弟と離れて、寺に預けられた」


「さみしくなかったですか」


「え」


「ひとりぼっちになって、さみしくなかったですか」


 少年の瞳は切実なほどに真剣だった。鋭い視線に胸を射抜かれ、乙若はおもわず数珠を手繰った。


(多くの僧がいたから、さみしくはなかった……とは言えないな)


 膝を折って少年と目の高さを合わせた乙若は、笑んだまま眉を下げた。


「さみしかった。多くの僧にかこまれて修行をしていたが、私はひとりぼっちだと思ったよ」


 ゴクリと少年の喉が鳴る。


(この少年は、あのときの私なのだな)


 詳しい事情は知らないが、彼はひとりになったらしい。それならばあのときの己の気持ちを正直に、彼に語って聞かせよう。


 乙若は一言一句、丁寧に気持ちを紡いだ。


「見捨てられたのだと思った。ひとりぼっちで心細くて、どうしようもなくさみしかった。母や兄弟のもとへ行きたくてしかたがなかった。だから、寺から逃げ出した」


 えっと少年の目がまるくなる。


「でも、引き戻されたよ」


「それで……また、さみしくなったんですか」


 うーんと乙若は視線を斜め上にそらして考えた。


「さみしくなった……と言えばそうだが、それまでとは違うものになったな」


「違うもの」


「そう。違うものだ」


 これをどう伝えればいいのかと、乙若は懸命に己の中から言葉を探す。少年は乙若の瞳を見つめて、与えられる言葉を待った。


(思い切り泣いて、それを受け止めてもらい、気持ちが落ち着いたのはたしかだ。だが、それでは少年の求める答えにはならない。彼はもう経つのだから、泣く時間などないのだ。その先にあったもの……私が見つけたものを伝えなければ)


 乙若は過去の自分の気持ちを振り返り吟味して、慎重に音に変えた。


「さみしいは、さみしい。だが、戻れないものは、戻れない。だから、先に進むと決めた。――いいや、違うな。先に進むしかなかったんだ。戻れないのなら、進むしかないとわかったと言うべきか」


 うまく説明できていない。そう感じる乙若に、少年はキリリと眉をそびやかしてうなずいた。


「進むしかない……戻れないから。だから、さみしいけれど、前に行くって決めたんですね」


「そうだな」


 しっかりと覚悟を決める動きで首を振った少年は、生き生きとした決意の笑顔で「ありがとうございました」と丁寧に頭を下げて走り去った。


「ああ」


 そうだと乙若は胸を熱くする。


(戻れないのなら、進むしかない。しかし私は若い肉体に戻った)


 この屋から出れば、本来の老体に戻るのか戻らないのか。どちらにしても、留まると決めた乙若にはどうでもよかった。きっと自分はこの屋に必要とされている。乙若は希望的確信を抱えて数珠を胸に当てた。


(いままで聞いた人の嘆きを糧にして、あの少年のように心に迷いを抱えて飛び込んでくる誰かに、無形のなにかを持ち出してもらいたい)


 この屋もそれを望んでいるから、己の肉体をこのようにしたのだと乙若は考えた。


「そうなのではないか」


 考えを順序だてて屋に向かって語った乙若は、そう締めくくった。


 返事はない。


 しかしそれこそが肯定だと乙若は判断した。


(まったくもって手前勝手な解釈だが、そう思うほかはないではないか)


 さきほどの少年は乙若がいなければ遠慮して玄関土間から上がらなかったろう。湯殿もあめ湯も、乙若が彼に差し出すようにこの屋はしむけた。ならば自分を屋の一部として認めたものと、乙若は屋に感謝した。


「私はこれから、そなたとともに在るのだな」


 御仏とではなく、この屋とともに人を救う。


 乙若は静かに数珠を手首から外し、囲炉裏にくべた。


「あれから、さまざまな人が訪れた」


 しみじみと縁側の板をなでながら、乙若は屋に話しかける。


「なあ、甲」


 呼び名がないので、乙若は屋のことを勝手に「甲」と名づけていた。それで不快を示されたことがないので、それでいいと思っている。


 この屋――甲は納得しないことには抗議する。といって、なにか言ってくるわけではない。不快であれば家鳴りを起こす。まだ屋のもてなしの流儀に慣れぬ乙若が、あれこれと来訪者の世話を焼きすぎていたころは、屋はギシギシと不平を漏らしたものだ。


(迷い家とは、屋そのものがあやかしなのだ)


 そう理解した乙若は、まれに家鳴りをされながら甲の流儀を覚えていった。そしてそれは出しゃばらず干渉しすぎず、相手が己の裁量の範疇で自分自身をわずかながらも奮い立たせるものだと気づき、乙若は熱く胸を震わせて甲を尊崇した。


(これこそが、私が求めていたものだ)


 そしてその手助けができることが、なによりもうれしい。


(この屋が必要なくなる世の中が、理想ではあるが)


 長い時代を経て、物をひとつ持ち出す家から、気持ちをひとつ見つける家へと変化した。それは進歩なのか後退なのか、乙若にはわからない。


「こういう変化があると、予測をしていたのか」


 だから自分を受け入れたのかと言いかけて、違うなと乙若は胸の奥に視線を向ける。


(私が甲の在り方に共感し、置いてほしいと望んだのだ。甲はそれを叶えただけにすぎない)


 まだまだ心に驕りがあるなと、乙若は自分の未熟に微笑した。


(だからこそ、私はこの屋を訪れる人に寄り添えるのだ)


 解脱ができないからこそ、迷える人の気持ちの傍にいられるのだと、乙若は己の不足を大切にする。


 この屋を訪れる前の自分がいまの自分を知れば、修行が足りないと説教をするだろうか。それとも堕落したと嘆くだろうか。必死に政を動かして、世を変えようとしていたころの自分が現状を知れば――。


(考えても、しかたのないこと)


 けれど時々、想像せずにいられなくなるのは、己が人であるからだと乙若は思う。


 人の身が生きられぬ長い時間を、この屋から出ぬままに過ごしつつ変化していく。


 この屋を訪れる人々の悩みに接して、乙若の心は考えや常識、見解の千差万別さに感心して受け入れる。なかには納得のできぬものもあるにはあったが、それでも拒絶はせずにもてなした。


 甲が招いた客を、乙若は追い出せない。


 どんな基準で甲が迷う人の前に、屋に続く道を出現させるのか乙若は知らない。あるいはなにがしかの力を持つ人間が、迷いを得て甲を呼び寄せているのではないかと考えたこともある。


 しかし、答えはどこにもない。


 考えてもしかたのないことは、たまに想像してはみるが答えを求めない。


 それは乙若が甲に住んでから覚えた生活の遊びだった。


 答えは求めず、なにかについて考えてみるのは面白い。――面白いと思えるようになるまでは、ずいぶんと気を波立たせたが。


(私もこの屋で、日々成長をしているのだ)


 そして甲も時代の流れに合わせて成長をしているのだと、拡張していく敷地をぐるりと見回した乙若の耳に、ためらいがちに近づいてくる足音が届いた。


「今回は、どのような心の飢えを抱えているお客人を招いたんだ? 甲」


 呼びかけても返事はない。


 乙若が縁側に立つと、裏庭を見渡せる広い客間のテーブルに饅頭が置かれた。


「まずはこの部屋に通して、ゆるりとくつろいでもらえばいいのだな」


 ならばうまい茶を淹れようと、乙若は戸の前でためらっている来客を招くために玄関へ行く。


 あるかなしかの風が、ふうわりとたのしげに庭をよぎった。

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