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まよいが  作者: 水戸けい
宇梶和彦
11/21

(なんでだよ……なんで俺は、覚えていないんだ)

 滝はちいさく、しぶきも落ちた周辺に舞う程度だ。池の中にざぶざぶ入って横に並ぶくらいでないと、触れられない。そうとわかっていながらも手を伸ばしてしまった自分を笑いつつ、和彦は池の周囲をぐるりと回った。


 低い庭木の奥に、人がひとり通れるほどの小道がある。これを行けば青年の言っていた小川に行きつくのかと、和彦は迷う余地もない一本道を進みながら、ちらりと建物に視線を向けた。


 縁側に青年の姿はない。仕事に戻ったのだと思うと、一抹の淋しさが胸によぎった。


(なんで)


 胸に手を当てて首をかしげる。見守ってほしかったのだと浮かんで、そんなまさかと否定する。まったくもって理解のできない感情だった。


(調子が狂うな)


 さきほど池に身を乗り出して、触れられないとわかっていながら手を伸ばしたことだけでなく、ここに到着してからのすべてが……あるいは、友人に声をかけられて動揺をしてからずっと、心のペースが乱れている。


 緑はまぶしく、木の葉の隙間から降り注ぐ日差しはやわらかいのに、心が乱れるなんて奇妙な話だ。


(きっと、疲れているんだ)


 疲れが溜まりすぎると気がつかなくなると聞いたことがある。そういうときに休みを入れると、無自覚だった疲れがドッと出てしまう。回復途中を普段よりもダルくて辛いと感じるらしい。


(風邪とおなじだ)


 治りかけは回復に体力を取られるので辛くなる。調子が乱れているのは、無自覚だった疲れが表面化しているからだ。和彦はそう結論づけた。


(俺はそのくらい、疲れていたんだ)


 だから妙なことを気にしたり、気持ちがざわめいたりしていたんだ。


 建物から道の先に視線を動かし、和彦は影のちらつく小道を進んだ。わずかな斜面を進んでいくと、木々の深い場所に出た。水音がかすかに聞こえて近づけば、苔むした土に囲まれた小川があった。澄んだ水に陽光がきらめき踊っている。顔を近づけてみれば、底で揺れる水藻と砂地が見えた。魚も住んでいそうだなと思ったが、影は見えない。岩の隙間にでもいるのだろうかと身をかがめて探ってみたが、虫の姿さえ見えなかった。


 残念に思いつつ、和彦は胸いっぱいに苔と土の香りを吸い込んだ。湿り気がそれらの匂いをふくらませている。深く深く吸い込めば、吐き出すのがもったいなくなった。息を止めてしばらく待って、けれど吐かずにはいられなくなって細く長く口から漏らす。


 何度も何度も吸っては吐いてを繰り返し、和彦は自分の中の空気を清涼なこの場の空気と入れ替えた。


「は、ぁ……ふぅ」


 心なしか体が軽くなった気がした。体のすみずみにまで、みずみずしい力がたゆたっている。なんていい心地だと和彦は目を細め、苔の上に座った。じんわりと湿り気が布を伝って肌に触れる。ズボンに苔がついて、シミになるかもしれない。けれど、そんなことはどうだっていい。いま、この感覚を受け止めることが重要だった。


 このまま寝転んでしまいたくなって、わずかにためらってから腕を枕にあおむけになる。のびのびと広がる枝に、みっしりと葉が茂っている。差し込む光のせいで、折り重なっている木の葉は黒く見えた。そのぶん差し込む光がまぶしい。重なりのない木の葉はあざやかな緑色で、なるほどこれが若葉色かと感心するほどうつくしい。


(気持ちがいいな)


 体の細胞ひとつひとつがほぐされていく。魂までもがゆったりと溶かされていくようだ。


 目を閉じた和彦は、全身で木々の気配や降り注ぐ陽光、せせらぎを受け止める。体中にこびりついた余計なものが、はがれ落ちていく。


 眠りと覚醒のはざまに落ち着いた和彦は、何者でもなく――けれど自分自身を失わずに――なった。


 その心地よさと言ったら!


 開放感に自然とほほえみ、和彦は薄くまぶたを開けた。きらきらと揺れる陽光に笑みが深くなる。腹の奥がくすぐられて、ふっふっふっと息を漏らした。


 幸福とはこういうことだと、無意識に感じ取った和彦はにんまりとして起き上がった。素足になって小川に足をつける。ひやりとした水を足指でもてあそび、流れを味わいながら天を仰いだ。


「ふぅ」


 息を吐いて目を上げて、わくわくしながら足を沈める。片足が底につくと、今度はもう片足を慎重に沈めた。両足で川底の石を確かめると、あたたかな興奮の震えが足元から頭まで駆け上がった。


 立ち上がり、小川の水をザブザブと踏みしめてみる。散る水粉が水晶のように輝いて、なんでもないことのはずなのに妙に愉快になった。


 ザブザブと上流に向かって歩いてみる。川幅は和彦が両手を広げたよりも、すこし広い程度だった。流れに逆らいながら歩く和彦のすねに水がぶつかりはじける。それがとても楽しくて、和彦はどんどん進んだ。クスクスと笑いがこみ上げてくる。ちょっとした冒険気分で、砂や石を踏み、ときには岩に登って流れから離れたり戻ったりしつつ、ただ歩いた。


 やがて倒れた木が丸太橋のように川にかかっている所に出くわした。丸太橋と言っても、イタチなどちいさな獣が通れる程度の太さしかない。しかしこれを、わざわざ避けて進む気になれず、和彦は引き返した。


 帰りもやはり、ザブザブと水を蹴った。流れにふくらはぎが押される。足を取られないよう注意しながら歩くのは、行きとは違ったたのしさがあった。


 心がとてもフワフワしている。


 帰りは足元に注意しながら、大きな石や川べりのくぼみを見つけると立ち止まって、生き物が隠れていないか覗いてみたりした。見つからなくても落胆せずに、それはそれで面白かった。


(こんな気分になるなんて、どのくらいぶりだろう)


 思った瞬間、和彦の足は止まった。水が和彦を追い越して流れていく。それをながめつつ、和彦は考える。


(そもそも、こんな気持ちになったことなんて、あったっけ)


 子ども時代に野山や海で大はしゃぎした記憶はない。忘れているだけかもしれないが、記憶の中を探ってもひっかかるものはなかった。


 そんなはずはないと思ってみても、なんにも浮かび上がらない。和彦は景色を見回し、記憶をたぐるヒントになりそうなものはないかと探してみた。


 なにもない。


 せせらぎも、水の冷たさも、苔や土、草木の香りも、日差しのやわらかさも、なにもかもが肌や心にしっくりくるのに、記憶の端にはかからない。


(そんなはずはない。俺はガリ勉だったわけじゃない。同年代にしてはすくないだろうけど、適度に遊んでいたからなにか思い出があるはずだ)


 さきほどまでの開放的な気分は薄れ、奇妙な焦りに肌身が震える。家族で出かけた記憶がなくとも、林間学校には参加したのだから、最低限それらしいものが見つかってもよさそうなものなのに、和彦の頭の中には片りんすらも見当たらなかった。


(なんでだよ……なんで俺は、覚えていないんだ)


 焦りを抱えて川下に向かって走る。どうして自分がそうしているのかわからない。ただ立ち止まっていられなくて、大きな水音を立てながら川下に向かった。


 滝の落ち口が目に入り、そのまま飛び込んでしまいたい衝動にかられながら立ち止まった。


 荒い自分の呼気と落ちる水音に鼓膜を打たれる和彦の瞳には、池の端と庭の景色、その向こうにある森の姿が映っていた。空はどこまでも広く高く続いていて、雲がほっこりと浮かんでいる。のどかな気配に苛立ちが募り、みぞおちが痛くなった。


「う……ぅ」


(なんだよ)


 奥歯を噛みしめて、和彦はうめいた。


(なんで、思い出せないんだよ)


 試験で回答が思い出せない、あるいは思いつけない問題はなかった。自分の記憶力はとてもいいと、和彦は自負していた。親や教師、友人たちにも記憶力をほめられたことがある。それなのに、確実に参加をした林間学校の記憶すら引き出せないなんて。


(古い記憶だから、しかたがないんだ)


 そう思っても、納得ができなかった。


 腹の奥がムカムカして、和彦は乱暴な足取りで川から上がった。置きっぱなしだった草履を掴んで、足裏に砂がつくのもかまわずに部屋を目指す。


 庭に降りて部屋を目指すと、青年が桶をもって現れた。静かな笑顔を浮かべた彼を見たとたん、我に返って尻に手を当てる。そこはわずかに湿ったままで、砂粒が指に触れた。あわててはたき、後頭部や背中も手で払った。足元を見れば、足裏だけでなく足の半ばにまで蹴り上げた砂がついている。


「あ、ええと」


「こちらで、足をすすいでください」


 どうぞと桶を勧められ、和彦は迷った。


「どうかなさいましたか」


「ああ、いや……服とか髪も汚れているので」


「それでしたら、湯に入られますか?」


「ゆ?」


「あちらに回っていただければ、そのまま湯殿に入れる仕様になっております」


 すいっと空気を滑った青年の指が、屋敷の奥を示した。


「着替えなどは、入られている間にご用意させていただきますので」


「それじゃあ、そうします」


 汚れた服で上がるより、そちらのほうがいいはずだ。川遊びは青年ができると教えてくれたのだし、こうなることを見越していたのだろうと和彦は提案に乗った。


 庭を横切り、示された場所に行くと大岩を階段にした場所に出た。戸の横に「湯殿」と書かれた木札がある。足の裏の砂を確認し、わずかにためらってから岩の階段を上って戸を引くと、簀の子張りの床と、大きな桶に似た湯船があった。


(ここで流せば、下に砂が落ちていくって寸法なのか)


 なるほどそれなら砂に汚れていても気にしなくていいと、和彦は踏み込んだ。服を脱ぎ、壁に打ちつけられている棚に乗せて桶を取る。ざっと足を流し、全身に湯をかけて顔を上げると、手拭いがあった。その横によくわからない袋がある。


(なんだ、これ)


 手に取って鼻をうごめかすと、どこかで嗅いだことのある匂いがした。とても身近で、けれどそうそう接することのない……なつかしいような、落ち着く親しみのある香りだ。


(もしかして、これ、ぬか袋ってやつか)


 これで体を洗えということかと、和彦は石鹸かボディソープがないか見回してみた。しかし、それらしいものはない。手の中の袋を見つめ、どう使えばいいのかわからないので元の場所に戻し、手拭いで入念に体を磨いた。


 頭から湯をかぶると、体が軽くなった気がした。さっぱりした和彦は巨大な桶に似た湯船に入る。それはちょうど和彦がひとり入るに適したサイズで、格子窓から外の景色を臨みながら湯を味わえた。


 ぼんやりと視線を窓の外に投げる。景色を遮る格子が、室内にいるのだと無言で示してくる。それがなんだか奇妙な感情を揺り動かした。


(なんだ)


 居心地がいいのに窮屈だ。そしてあきらめに似た感覚が渦巻いている。


(なんで、こんな気持ちになっているんだ)


 和彦は細く長く息を吐き出し、景色を視界に映しつつ意識の中に沈んでいった。


 湯はぬるく、体も意識も溶かされて虚空に浮かぶ。自分を形成している肉体の境界がゆるんで溶けて、湯と一体になりながら和彦は己の奥へと沈んでいった。


(俺は)


 目を閉じると耳に入る外的情報も遮断された。自分の呼吸音だけが響いている。和彦はゆっくりと安寧の闇に落ちていった。

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