(おかしい。そもそも、こんなに広い場所が近所にあったか)
秋月正彦は、ひいふう言いながら木漏れ日の中を歩いていた。
これほどしんどくなるとは思いもよらなかった。もっとなにか準備をしてこればよかったのかもしれないと後悔しつつ、それでも足を前に出すのはやめない。
というより、勝手に足が動いているといった状態だった。
草木の間にまっすぐに伸びている小道を踏みしめながら、先人が幾度も幾度も通ったからこそ道となったのだと、感慨を込めて足元を見る。ときどき足の下にくる雑草も、いつしか自分を含めた後続の誰かに踏みしめられて、その場所を人の道として明け渡すのだろう。
そんなことを考えてでもいないと行程をあきらめそうで、正彦はつらつらとどこかの本で読んだ気がする言葉を、さも自分が考えたかのように、教師や作家になった気分で思い浮かべながら進んでいる。
まったくもって、どうしてこんなことを思いついたのだろうと、後悔しないために。
今日は妻の月命日だった。
妻が亡くなって半年。
なぜだかちかごろ、彼女がいないと実感する瞬間が増えた。
ふと振り向いたとき。
出かけて家に帰ったとき。
自分で自分の食事を作るとき。
調味料の位置がわからなかったとき。あるいは、こんな調味料があったのかと気がつくとき。
半年も経ってから、どうしていまさらと正彦は不思議になった。そして妻の葬儀からこの半年、どうやって生活していたのか覚えていないことに思い至った。
(俺は、どんな顔で、どんなふうにこの半年を過ごしていたんだ)
その問いに答えられる相手は自分しかいない。
鏡をのぞくと、無気力そうな、けれどガンコそうな老人の顔があった。薄くはないが真っ白になっている、やわらかな髪の毛。無精ひげは生えていないので、手入れは習慣的にしていたらしい。吊り上がった細い目と、浮き上がった頬骨。ムッとへの字に曲がった、色の薄い唇。顔全体の血色は悪くない。精力的とは言えないまでも、健康体には見える。
自分の顔をながめつつ、どうやらきちんと生活はしていたらしいと安堵した。
次に家の中をあちこち見て回る。生活感がこびりついている古びた室内は、荒れてもなければ汚れてもいない。ピカピカとまでは言えないが、まあまあ掃除は行き届いている状態で、洗濯ものも溜まってはいなかった。
(なんだ。掃除や洗濯なんかを、俺はきちんとやっていたんじゃないか)
娘、加奈子の尖った声が耳奥によみがえる。
「おとうさんも、ちょっとは家事くらい手伝いなさいよ。おかあさんは召使いでもなんでもないんだからね」
それを言われたのは、いつだったろう。よく覚えていないが、カチンときた気持ちはありありと思い出される。
「外で働いてきた夫に尽くすのは当然だろう」
子どもに声を荒らげるのは文字通り大人げないと、正彦は昂りそうな声を抑えて父親らしい威厳を意識した。まだ子どもだから、父親がどれほど苦労して家族のために働いているのか、想像ができないだけなのだ。母親の姿は家で見ているから知っているが、働いている姿を見ていない父親の仕事の苦労はわからない。だからそんなことを言ってくるのだ。
「おかあさんだって、いろいろと大変なんだからね。手伝いをしないのなら、せめて感謝を示したらどう?」
生意気なことを言うようになったものだ。これが成長というものかと、無心に「おとうさん」と言いながら両手を広げ、抱っこをねだってきたころを思い出す。とびきりの美人というわけではないが、そこそこかわいい愛想のいい子で、加奈子を公園に連れて行くと「かわいい」という声がかけられた。親の欲目を引いたとしても、中の上くらいの容姿はしていると正彦は考えている。性格は温和とはほど遠く、気難しく口が達者だ。父親を尊敬するどころか、こうして文句を言ってくる。この気の強さでは嫁にいけるのかと心配をしていたが、いまでは立派に二児の母をしながらパートタイムで働いていた。
「感謝? あたりまえのことをしているのに、感謝をする必要はないだろう。それを言うなら、かあさんは俺に感謝をしているから、文句のひとつも言わずに家事をこなしているんじゃないか」
加奈子は荒い鼻息を吐きながら、腰に手を当てて仁王立ちになった。まったく、我が娘でなければ張り倒したくなるくらい、生意気で不遜な態度だ。外でもこんな態度でいるなら、トラブルが絶えないのではと心配になる。妻は静かで控えめで、おとなしい女なのに――ああ、だから正反対に育ったのかもしれない。
怒りと不満がない交ぜになった娘の顔を見ながら、正彦はそんなことを考えた。
「なにを言っても通じないのね」
あきらめの言葉を吐いてはいるが、言葉に含まれている棘はすこしも衰えていない。鋭い視線も吊り上がった眉も、家事をしない父親を責めている。
「かあさんになにか言われたのか」
「そうじゃないけど」
「なら、おまえが口を出す問題じゃない」
「私が言わなきゃ、おかあさんがかわいそうなままだから言っているの」
「かわいそう?」
意外すぎる言葉に笑ってしまった。娘はますますムッとして、くやしそうに顔をゆがめる。
「おとうさんは、なんにもわかってない」
「子どもが知ったふうな口を利くな。ならおまえは、とうさんが仕事でどんな苦労をしているのか、わかっているのか?」
「それは……わからないけど」
「ほらみろ」
「でも、おかあさんはずっと働いているんだよ! おとうさんは帰ってきたら仕事は終わりだけど、おかあさんは会社にずっといるのとおなじなんだよ」
「会社と家庭をいっしょにするな」
これ以上付き合ってはいられないと、正彦は片手を振って加奈子を追い払った。加奈子はなにかを言いたそうにしながらも、言葉が見つからないらしく、くやしそうにしている。
「ちょっとは家事くらいできるようになっとかないと、おかあさんがいなくなったときに困るんだからね!」
そんな捨て台詞を残して去っていく娘の後姿をながめながら、そんな日は存在しないと思っていた自分がなつかしい。
正彦は妻が自分よりも先に亡くなるなど、想像すらしていなかった。妻が自分の傍からいなくなるなど、考えてみたこともなかった。そんな正彦にとって妻の死は、青天の霹靂だった。
妻の死は事故死などではなかった。ちょっと風邪をこじらせたと言って、でも大丈夫だからと笑っていたので気にも留めないでいた。咳がうるさいからどうにかしろと言った正彦に、妻は笑って「すみません」と謝った。その夜に高熱が出て救急車を呼び、即入院。肺炎だと言われた。もっとはやく病院に来ていればと、沈痛な顔つきで医師に言われた。そこではじめて、妻が非常に無理をして笑っていたのだとわかった。
けれど死んでしまうとは、医者の言葉を聞いても信じられなかった。
汗が額からポタポタ落ちる。立ち止まり見上げると、木漏れ日がチラチラ踊って瞳にまぶしい。
正彦は腕で額の汗をぬぐうと周囲を見回した。自分の歩いてきた道と、これから歩いて行く道が伸びているほかは、なにもない。ただ草木があるだけの場所だ。自動販売機らしきものや、店の影などどこにも見えない。
いまの時代に、こんな場所が残っているなんておどろきだ。
いや、案外こういう場所は、ほんのわずか街中から離れるだけで、ひっそりと残っているのかもしれない。
(だから人の姿が見えないのか)
正彦はそう納得した。
深呼吸をすると、コンクリートの道や建物などに囲まれた日常の風景が、ひどくゴミゴミした無機質な場所に思えた。
(こういう場所に来るのは、どのくらいぶりかな)
子どもがまだ幼かったときに、どこかに連れて行った。あれはどこで、何年前……いや、何十年前のことだったかと、正彦は木漏れ日に目を細めながら遠い記憶を探してみる。
あの頃は正彦も妻も若くて、体力もたっぷりあった。加奈子は正彦によくなつき、よもや口答えする娘になるとは思えないほど素直であいらしかった。
反抗的になった加奈子と幼い加奈子を並べてみる。さみしくはあるし、育ててもらった恩も忘れてと腹立たしくなる部分もある。だがそれが、成長するということだと正彦は思う。
人の親になったことで、これから親の苦労を知って、過去の発言に反省の意を示すようになるだろう。そうでなければならない。なぜなら正彦は懸命に家族のために働いて、妻にも尊敬される夫であったのだから。
(そうだ。かあさんは俺を尊敬していた)
だからこそ、娘の主張するワガママとしか言いようのない文句を、妻はひと言も口にせず、笑って夫に尽していたのだ。
そんな妻の気持ちを、加奈子はこれから知るだろう。そして父親の偉大さを知るに違いない。
その日が来るのを確信し、正彦はにんまりした。
そろそろ歩くのを再開しようと前を向いた正彦は、そういえばどうしてこんなところを歩いているのだったかと首をかしげた。
妻の月命日で、なんとなくふらりと外に出たくなった。目的はとくになく、習慣で鍵と財布をズボンの尻ポケットにねじこんで、ぶらりと家を出て来たのだ。そして、どこをどう歩いてこんな人気のない、まるで山の中のような場所にたどり着いたのか。
(おかしい。そもそも、こんなに広い場所が近所にあったか)
正彦は自宅とその周辺地図を脳内に広げてみる。広い公園に木々が並んでいる場所はあるが、ここまで茂ってはいない上に見通しがよく、木々の間からマンションなどの建物がかならず見える。どこを見回しても人工物らしいものが視界に入らない場所など、徒歩圏内にあったという記憶はない。
(だがまあ、いま歩いているのだから、知らないだけであったんだろう)
仕事に忙しく、退職してからも付き合いのゴルフやマージャンに出かける程度で、近所を散策するなどしなかった。だから気がつかなかっただけに違いない。そもそも自宅からそれほど長く歩いた記憶がなく、気がついたらこの道に差しかかっていたので、きっと駅に向かう道とは逆にある場所なのだ。駅前以外に行くことは、ほとんど皆無と言ってもいい。知らない場所があって当然だと、正彦は不安を浮かべる自分を説得した。
歩いてきた道を振り返り、これから行く道に視線を向ける。この道はどこまで続いていて、どこに出るのだろうか。そして自分はどのくらい歩いていたのか。昔を思い出しながら歩いていたので、周囲への目配りや時間の把握が不足している。いまは何時だろうと左腕に目を向けて、時計がないと気がついた。どうしてこういうときに限って時計を持ってこなかったのかと、正彦は軽く舌打ちをした。ポケットを探って、持ち物が財布と鍵だけしかないと確認すると、やれやれと息を吐いた。
(まあ、財布と鍵さえあれば、なんとかなる)
会社への通勤と子どもたちの通学のしやすさから選んだ家は、都会の中に建っている。繁華街とまでは言わないが、適当な店を見つけて飲食ができる程度にはにぎわっている地域だ。時計を忘れたとしても子どもじゃあるまいし、それほど気にする必要はない。とはいえ、あまり遅くなっては外灯もない道だから、ひょんなことから道を外れて迷わないとも限らない。
(引き返すか)
喉も乾いたし、疲れたしなと正彦が顔を上げると、ぼんやりと道の先に民家が見えた。
(あんなもの、さっきは見当たらなかったが)
おそらく角度的な問題で、木に隠れるかなにかして見えなかったのだろう。
木々の合間からちらりと見えるたたずまいに、ずいぶんと古い日本家屋だなと正彦は興味を惹かれた。
(せっかくだから、あそこまで行ってみようか)
ただ歩いていただけよりも、なにかを見つけて帰るほうがいい。そう思って小道を行けば、ふいに左右に並んでいた木々が途切れて広い庭先にたどり着いた。
のんびりとした気配のただよう庭には鶏が数羽、のびのびと散歩をしている。縁側のある家はずいぶん大きく、物語などで出てくる立派な農家の一軒家そのものだ。古いが手入れは行き届いているらしく、縁側の廊下や柱がよく磨かれて輝き、どっしりとした威厳をかもしている。
(いまだに、こういう家が近所に残っているとはな)
いったいどんな人物が生活しているのかと、正彦は好奇心にかられて庭を横切り、そっと玄関の表札を探してみたが見当たらない。郵便受けらしいものも見つからなかった。
(こういう家なら、表札など出さなくても問題ないのかもしれないな)