第二章 3
「オレたちも出発しよう」
キアランはそう言ってヴィオレッタに手を差し伸べてきた。そのまま、軽々と抱え上げて馬の背に座らせる。そうすると、ヴィオレッタは初めて彼より高い目線になった
彼はヴィオレッタを、見上げてくると苦笑いした。
「驚いた。……軽いな。猫みたいだ」
彼女をいつも馬に乗せてくれたのはブラッドだった。キアランは今までヴィオレッタに触ろうともしなかったのだ。
「失礼ね。私は鉛でできているわけではないわ」
「もっともだ」
キアランは笑いを堪えるような顔で答えると、馬の手綱を引いてゆっくりと歩き出した。
「……オレと二人じゃ、不安か? まあ、いつまでこの姿でいられるか自信は正直ないんだが」
軽口めかしてそう言っているが、彼は自分の身体に不安を抱いているのかもしれない。ヴィオレッタは首を横に振った。彼が引け目を感じる必要など無い。
意のままにならないことは彼の責任ではないのだから。
「あら、ずいぶんと弱気なのね」
「仕方ないだろう。狼の姿だと、自分のことで精一杯なんだ。民家に近づいたら石や棍棒で追い回されるし、うっかりすると罠にかかりそうになる。レッタを守るどころじゃない」
キアランはそう言って、濃灰色の瞳を曇らせる。
「オレがそうなっても一人で大丈夫か? レッタはこの国に身よりはないんだろう?」
「……そうなったらそうなったときのことだわ。先の心配は頭の隅っこに置いておくだけでいいの」
ヴィオレッタはそう答えた。
最悪のことを頭に入れておくのは間違いではない。けれど、最悪なことばかりを考えるのは、間違いだ。
「私は、とても運が強いの。ここに来るまで一度も嵐には遭わなかったし、侍女とはぐれて困っているところに、ブラッドやあなたに出会うことができたし。だから、心配していないわ」
心配なことは沢山ある。不安なことは沢山ある。けれど、それだけじゃない。
自分が逃げ出さなければ、きっと光明は見える。
目をそらすな、前を見据えろ。
ヴィオレッタは今まで読んだ冒険記の言葉の意味が、初めて目の前に見えた気がした。
「前向きだな。というより、ただの向こう見ずか?」
キアランが馬上のヴィオレッタを呆れたように見ていた。
「いけないかしら?」
ヴィオレッタは微笑んだ。
笑っていればいいのに。キアランを見ているとそう思う。
彼はともすれば不安から苛立って自分を追い込んでいるように見えた。あの不安定で棘のある言動もそのせいだろう。彼は人の姿を保てない不安定な状態だと聞いていたけれど、そうした心の持ち方も関係しているような気がする。
「……いや、そういうのも悪くない」
キアランはそう呟いて、静かに微笑んだ。川面に射す光を受けた銀色の髪がその笑みを縁取る。
それから、彼はぽつりと予想外のことを口にした。
「……オレはずっと不思議に思っていた。どうしてレッタが皇太子妃になりたいのか。親から押しつけられた縁談を諾々と受けるような性格とは思えなくて」
「あら、私のこと、知っていたの?」
自分が皇太子妃としてこの国に来たことを、まだ彼らには話していなかった。なのに、どうやら彼らはすでに気づいていたらしい。
「知るもなにも。旅をしていてもそういう話は耳に入ってくる。皇太子妃に決まった王女の名がヴィオレッタだとか。コローニアという遠い国から来るとか」
ヴィオレッタは隠していたつもりだったが、キアランたちはとっくに彼女の素性に気づいていたらしい。
川沿いに歩を進めながら、ヴィオレッタはここに来るまでの事情を初めて口にした。
彼はヴィオレッタの事情を聞いて、怪訝な顔をした。
「本当に援軍を出してくれるなんて、約束したのか? ディルダウ皇帝が異大陸の事に手出しするとは思えないが。この国だって、平穏無事というわけではないのに」
「……でも、だったらわざわざ王女を差し出せという理由がないでしょう? この国に何の影響力もない国の王女など、皇太子妃にする価値はないのですもの。黙殺すればいいだけのこと。……それでも」
ヴィオレッタはこの国での自分の価値を知っていた。けれど。
「もう私の国には、頼る相手が無いのです。親しくしていた国は、ほとんどがブレッディに蹂躙されてしまいました。手紙のやりとりをしていた近隣の王族の方々も……援軍を差し向ける間もなく……ことごとく……」
新興国ブレッディに襲われた国は、男性王族は殺され、女性は彼らの慰み者にされ、民は財を奪われて奴隷あつかいされている、と聞いていた。
彼らは言語も宗教も何もかも違う。その上、力でねじ伏せようとするばかりで、和解を申し出た国までも武力で征服したという。略奪と征服が彼らの望みであり、話し合いなどしない。
話の通じる相手ではない以上、コローニアもいずれ攻め入られる。隣国との間にそびえ立つ山脈の雪が溶ければ……。
「……だから、私は何があっても皇太子妃にならなくては……」
祖国がそんなことになるのは恐ろしかった。異国に嫁ぐことよりも、その方が怖かった。
「レッタ。もういい」
珍しく言葉を濁した彼女を見て、キアランは言いたいことを察したように首を小さく横に振った。
「責めているつもりはないんだ。レッタが納得して皇太子妃になるというのなら、オレには止める資格はないんだし」
「あら、止めてくださるつもりだったの?」
ヴィオレッタは不思議に思って問い返した。キアランはにやりと笑う。
「そりゃ、相手の身の安全のことを考えるとな」
「まあ。本当に失礼な人ね」
キアランはヴィオレッタの気持ちが落ち着いたのを測っていたように言い返してきた。
「本当だろうが。口と同時に手が出る姫君なんて、普通いないだろう」
「まだまだ甘いわね。時々手の方が先に出たりすることがあるわ」
ヴィオレッタがすかさず言い返すと、キアランはぷっと吹き出した。
川沿いに森を抜けて、やがて田園地帯のような風景が広がってきた。キアランは以前に通ったことがあるから、と迷うことなく馬を進めていた。
「ブラッドは大丈夫かしら、相手は一人ではないのでしょう?」
ヴィオレッタの気持ちが落ち着かないのを見てか、キアランはブラッドのことを話して聞かせてくれた。
ブラッドは帝都の剣術大会で、準優勝したほどの腕前の持ち主なのだという。
「二番目に強いのですか?」
「そうだ。去年の剣術大会でブラッドを負かせた唯一の男が、ダンディア伯ヴァレンティン。レッタの護衛をしていただろう?」
「え?」
ヴィオレッタは意外な言葉に耳を疑いたくなった。
けっしてやせているというわけではないが、細身で穏やかな風貌のヴァレンティンが、あの大男のブラッドより強いとは予想外だ。
「だから、そこいらの山賊程度はブラッドの敵ではない」
つまりは心配ないと言いたいのだろう。
ややこしい言い方だけれど、一応は彼なりの思いやりだと思うことにした。
「もう少し先に行くと小さな村がある。レッタのことを好奇の目で見てくるかもしれないが、どうする?」
「……」
ヴィオレッタは考え込んだ。目立つことは極力避けたい。不意に思いついた考えに、彼女はちらりと後ろにいるキアランに振り向いた。
「キア、あなた、大道芸って見たことあるかしら?」
唐突な言葉に、相手が目を見開いていた。
「大道芸? 町の中で歌をうたったりする?」
「そうよ。今からあなたは人形遣いの大道芸人ってことにすればいいわ」
「……レッタ。人形みたいに黙っていることができるのか?」
呆れたように言うキアランに、ヴィオレッタはにこりと笑った。
「お馬鹿さんね。しゃべるから芸なんじゃないの」
彼は訳が分からないようだった。眉間に皺まで寄せて考え込んでいる。
「とにかく私に任せて。話を合わせてくれればいいわ」
微笑みかけたヴィオレッタに、キアランは渋々という様子で頷いた。