第二章 2
ディルダウ帝国の東端にあるコートレイル公領。
コートレイル家はかつて一国の王家だったという経緯があるだけに、その地方は独立した気運を持つ、豊かな地域であった。
小高い丘に沿って築かれた、厳めしい石の砦城。それがかつての王城であり、現領主の居城、白鷹城だった。
白鷹城の一室で、二人の男が机に拡げた地図を挟んで、向かい合っていた。古い書物を積み上げた書架に囲まれた領主の書斎である。
コートレイル公は、鋭いまなざしを細かな書き込みがされた地図に向けながら、息子に尋ねた。
「まだ、お二方とも行方が知れぬのか」
「はい。くまなく領内を探させてはいるのですが」
ヴァレンティンは憔悴した様子でそう答えた。一夜明けても、王女ヴィオレッタの行方は分からないままだった。
コートレイル公は難しい表情をして黙り込んでいた。
賊は大胆にも一つの村の村人を捕らえて監禁し、彼らになりすまして皇太子の馬車が通りがかるのを待っていた。
せめて無事でいて欲しいと、ヴァレンティンは食い入るように地図を見つめた。
「あれほど言ったであろう。あの姫は当家に連れてこいと。とにかくこうなってしまっては、万一のことも考えに入れねばなるまい。皇帝陛下には背後関係を調べて、ご報告させていただくしかあるまい。少ない護衛で帝都を目指すようお命じになったのは陛下なのだから、別にお前が咎められる筋合いはあるまい」
ヴァレンティンは父の顔を食い入るように見つめた。
当初、彼の父もこの縁談にあまりいい顔をしていなかった。国内の貴族の反感を煽ってまで、異国の王女を娶る必要はない、と。
なのに、王女の到着と同時に、是非歓待したいので城にお連れしろ、と手紙を寄越してきた。
ヴァレンティンは父の真意が分からなかった。代々のコートレイル家当主には珍しく、皇家と距離を保ち、自分の役割以上のことはしない。コートレイルは皇家と対等なのだから、膝を折る必要はない、とすら言い放つ。
だからこそ、今更未来の皇太子妃に取り入るとも思えなかった。
どうもきな臭いものを感じて、ヴァレンティンはヴィオレッタたちの旅程を白鷹城には立ち寄らないように組んだのだ。
何が何でも、無事に王女を帝都に送り届けなくてはならなかったから。父の意図が彼女を足止めすることだったとしたら。彼女の祖国は新興国家の侵攻の脅威に晒されている。帝都への到着が遅れれば、最悪の結果を招きかねない。
コローニアへの条件は皇太子妃として王女を差し出すこと。王女との婚姻が成立次第、援軍を差し向けるという約定だと聞いていた。
……それをこんなところで王女とはぐれてしまうなど。
「では、もうあきらめろ、と?」
コートレイル公は重々しく頷いた。
「残念だが、深窓の姫君が真冬の森の中で生きていられるとは考えられないだろう」
たしかにその通りだったが、ヴァレンティンはすんなり頷くことができなかった。
「ヴァレンティン。お前はこの家に生まれたからには、守るべきものを違えてはならない。かつて当家は皇帝に膝を折ったが、貴竜の誇りまで売り渡したわけではないのだ。皇家がどうなろうと、それは皇家の問題であって、当家には関係のないことだ」
エディアルド皇太子とヴァレンティンは幼い頃から交流があった。世継ぎの皇子として宮殿の奥で不自由な暮らしをしていた従弟を、ヴァレンティンは不憫に思っていた。
だからこそヴィオレッタの護衛を引き受けた。やっと決まった彼の婚約者を、何としてでも守ろうと思った。
この縁談が皇家にとってどれほど重要なものなのか、知り抜いていたからこそ。
ヴァレンティンは、首に下げたメダルを衣服の上から押さえた。
竜の紋章の入ったそのメダルは、貴竜の証。
オルシニア併合で国主の地位を失ったコートレイル家が守ってきたのは、その誇りだった。それは後継者として理解しているつもりだった。
けれど、これが今ほど重く苦しく感じられたことはない。
「一つだけ尋ねるが、あの王女は『紫の薔薇』なのか?」
ヴァレンティンは思わず顔を上げた。
けれど、きつく拳を握りしめて、余裕の笑みを取り繕う。
「まさか……あれはただの言い伝えでしょう?」
コートレイル公はそれには何も応えなかった。皮肉げに小さく笑みを返しただけで。
そして、確信した。
……父は疑っているんだ。そして恐れている。皇帝が突然迎え入れようとした異国の姫を。彼女がオルシニアの紫の薔薇ではないかと。
正直なところ、ヴァレンティンには彼女が何者であっても構わない気がしていた。
健やかに真っ直ぐに育った愛らしい姫。まあ、人形のように小さくて驚いたけれど、彼女の強さはきっと、エディアルドの光になる。
だから、父に彼女を渡してはいけない。
そう決意して、ヴァレンティンは部屋を後にした。
「魚料理ができるお姫様ってのは初めて見たな」
ヴィオレッタは何を今更、という顔でブラッドを見上げた。
コートレイル公領でヴァレンティンたちとはぐれて、七日後、ヴィオレッタはエルシダ地方の東端の森に差しかかっていた。
このあたりはマローネ侯爵家の所領だという。たしか、ヴァレンティンの言葉では、皇太子妃争いに敗れた家の一つだった。そうなると、当然領主を頼りにはできない。
「あら、塩焼きにするくらいは料理とは言いません。道具さえあればちゃんと料理するのに」
「ほう、そりゃ頼もしい」
流れ者の傭兵、という風体のブラッドは旅慣れているらしく、森の中でも川を見つければ魚を釣ってくるし、ちょっと水鳥をしとめてくるくらいのことは平気でやってのけた。
一方のキアランはそうしたことには不器用らしくて、魚を見ても扱いに困っているようだった。狼が魚を食べるのかどうかはともかく、おそらく狼歴が長くて魚には不慣れなんだろう、と思うことにした。
ヴィオレッタがてきぱきと火を起こして、両腕で抱えるほどの大きさの魚を串刺しにしている間も、キアランはぼうっと眺めているだけだった。
そんなキアランを指さして、ブラッドはにやりと笑う。
「こいつは狼でいるときは、猟くらいするんだがな。人間のときは全然だ」
「よほどお育ちがよろしいのね」
ヴィオレッタが皮肉ると、彼は濃い灰色の瞳でちらりとこちらを見る。
「お前に言われたくない。野宿慣れしてるわ、火を起こし慣れてるわ、よほどお前の国は未開の地なんだな」
キアランの言葉にヴィオレッタは素早く駆け寄って、魚の串に使っていた小枝で、相手の手をぴしゃりと叩いた。
キアランは手の甲を擦りながら怒鳴ってきた。
「いきなり何するんだ、猛獣姫」
「私の悪口は構いませんけれど、コローニアの悪口は許しません」
ヴィオレッタは小枝を振り回しながら、怒りを顕わにした。たとえ誰であれ、祖国への悪口は許せなかった。
「コローニア? 聞いたこともないな、そんな国」
キアランは冷淡に言い返してきた。
ヴィオレッタは自分の失敗に気づいた。
彼女は異国から来たことは彼らに話していても、祖国の名を明かしたことはない。
コローニア王女が皇太子の婚約者だと、知られていた場合の危険を考えたからだった。
これ以上、自分の出自を話す訳には行かない。
彼らを巻き込まないためにも。
「キア。お前さん、そりゃ言っちゃいけねぇよ」
ヴィオレッタが言い返せずにいると、傍らで黙々と焼き魚を食べていたブラッドがぽそりと口を挿んだ。
「お前の物言いは、生まれ育った国でぬくぬくと暮らしてきた人間の言い分だよ。国を離れてきた人間は、祖国のことを忘れることはできないもんさ。そんな相手に祖国の悪口なんて言うのはどうなんだ? お前だって、お袋さんの悪口言われたらどう思うよ? それと同じさ。生まれ育った国はお袋さんみたいなもんだ」
キアランは諭されてさすがに自分が悪いと思ったのか、気まずそうに黙り込んだ。ヴィオレッタをちらりと見る。
「……すまなかった」
思いがけず真摯な表情で、彼は頭を下げた。
「レッタがあんまり何でもできるから、オレの方が役立たずみたいな気がして……八つ当たりだな」
ヴィオレッタはその言葉に、彼が今まで自分に劣等感を感じていたことに気づいた。
「いいえ。私も言葉が過ぎました」
彼は狼と人とを行き来する不安定な状態で生きてきたのだ。自分より年上でも、人間としての経験値は違うのかもしれない。他の人と同じ事ができないからと言って、責めても仕方がない。
「もしよかったら、私の知っていることは教えて差し上げるわ。そのかわり、あなたの知っている帝都のことを教えてくださらない? それでおあいこにしましょう」
そう提案すると、キアランは初めてふわりと微笑んだ。
「分かった。そうしよう」
ほっそりした優雅な顔立ちの持ち主だけに、まるで舞踏会で出会った貴公子のように、華やかな笑みだった。
銀色の長い髪が、陽光に照らされて、まばゆいばかりに見えた。
整った顔立ちだけに、笑うと輝きを増すようだ。
思わず見とれてぼうっとしていたヴィオレッタに、ブラッドが問いかけてきた。
「……ちょいと訊ねるが。レッタ、キア。二人とも、オレがいなくても大丈夫か?」
「どうしたんだ?」
突然の言葉に、キアランが眉根を寄せる。
「この先の街道に、どうやら待ち伏せている輩がいるみたいだな。話し声が聞こえたんだ。だから、オレはそいつらをひきつけて、街道から引き離しておく。二手に分かれよう」
「待ち伏せ? 私のことを?」
「ああ、人形のような小さな娘だとか言っている。報酬がどうのこうの、とも」
ブラッドが森の向こうをにらみ据えて、そう呟く。ヴィオレッタには欠片も聞き取れないのに、どうしてそれが分かるのだろう。
「私を探しているということですか。でしたら、ここで私を置いて行ってください」
ヴィオレッタは顔を上げて、ブラッドを見上げた。
「何で? オレは護衛と案内役を引き受けたんだ。一度決めたことはちゃんとやるぜ?」
「ブラッド。あなたに危ない真似をさせて、私が逃げ延びる理由はありません。すでに一度助けていただいています。これ以上は……」
ヴィオレッタはそう気色ばんだが、ブラッドはだめだ、とばかりに手をひらひらさせる。
そして、身を屈めてヴィオレッタを真正面からのぞき込むと、彼には珍しく険しい顔で告げてきた。
「姫さん。逃げないってのはご立派だがな、自分の役目を忘れちゃいけない。あんたの目的はつまらん賊と喧嘩することじゃなく、帝都に行くことだろう? 目先のことに囚われるな。使えるものは何でも使って、何を押しのけてでも目的を果たすべきじゃないのか?」
ヴィオレッタは唇を噛みしめた。悔しいけれど、ブラッドの言う通りだ。
今は自分の役目を果たさなくてはならない。
自分は皇太子妃になるために、そして、祖国への援助を求めるためにこの国に来た。
それに、雪解けまでに、祖国への援軍を送り出さなくてはならない。時間がないのだ。借りられる手があるなら、どうにかしてでも帝都まで行かなくてはならない。
けれど。
「でも、あなたには私のためにそこまでする義理は無いはずですもの」
本当ならば、自分一人で帝都を目指さなくてはならないのに、ブラッドたちに助けられたおかげで、かなり楽に来られた。
旅のついでだとは言われたけれど、だからといってその言葉に甘えるわけには行かない。
ブラッドはにやりと笑った。
「義理がなきゃ人助けしちゃいけねぇって法はないだろう? オレは結構あんたが気に入ってるよ。小さいレッタ」
ヴィオレッタはその一言にどきりとした。小さなレッタ。祖国の人々は彼女をそう呼んでくれていた。まるで祖国の人々に諭されているような気がした。
「あんたがどこの誰だろうと関係ない。オレは気に入った奴のためにしか動かねぇんだよ。だから、レッタはキアと一緒にこのまま川沿いに西に向かうんだ。この先の村で落ち合おう。ただし、二日待っても追いつかなかったら、オレを放って先に帝都に行け。この先の道はキアが知っている。キア、大丈夫だな?」
その言葉は彼がいつ狼の姿に戻ってしまうかという意味だろう。
人の姿でいるうちならまだしも、狼と並はずれて小さなレッタという取り合わせでは人目につきすぎるし、帝都に入ることもままならない。
「大丈夫だ」
キアランは口元を引き締めて、頷いた。彼もまたブラッドと離れることの不安があるに違いないのに。
「じゃあ、そういうことで」
ブラッドは気楽な口調で、笑いながら立ち上がった。その瞬間、彼の襟元から、金色に輝く小さなメダルが覗いた。竜の紋章のレリーフが入ったそれに、ヴィオレッタは見覚えがあった。
それは、彼女の祖国に使者として訪れていた鷹が首に下げていたものだ。
けれど、どう問いかければいいのか困惑しているうちに、彼はさっさと剣を掴んで馬に跨る。
その逞しい背中は、一度も立ち止まることなく森の中に去っていった。