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紫の薔薇は海を越えて  作者: 春奈恵
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第一章 4

 ディルダウの帝都レイナン・ディルディは、西大陸内陸部に、そびえ立つ山脈を背にして築かれた大都市である。

 西大陸最大の国家ディルダウは、それにふさわしい都をこの地に築いた。全ての領土から等距離にあり、そしてまた、海へと通じるレイナン河が動脈のようにこの地に流れている。

 レイナン・ディルディは、計算された美しさに溢れていた。

 その中央に位置するローデリア宮殿は、街道をあたかも張り巡らせた根のように拡げて美しく咲き誇る大輪の花のようだった。

 今、冬を迎えたレイナン・ディルディは、うっすらと雪に覆われていた。

 皇帝アルフレッドは目を通していた書類から顔を上げて、穏やかで揺るぎない落ち着きを湛えた青い瞳で外の光景を見つめた。

 壮年と呼ぶにはまだ若い。均整の取れた体躯を落ち着いた濃紫の衣でつつみ、金色の髪を首の後ろで無造作に束ねている。

「このような寒い季節に大海を渡り、長い旅をするのは大変なのだろうな」

 届いたばかりのヴァレンティンの報告書の内容は、ヴィオレッタ王女到着の件だった。

 それを読みながら、皇帝は口元に皮肉げな笑みを浮かべた。

「婚約者殿はずいぶんと愛らしくも興味深い方だそうだ。これは、ますますエディアルドの反応が見物だな。どう思う?」

 側にいた侍従が心配そうに問いかけた。

「畏れながら……このご縁談、殿下はお怒りになるのではございませんか」

「怒らせるのが面白いのではないか。息子は父親に反発して成長するものだ。この親心が理解できぬようでは、あれもまだまだ子供ということだ」

 アルフレッドは高笑いをしながら、窓の外に目を向けた。

 侍従がやれやれ、という顔をしているが、気にも留めていない。

「しかし、おそれながら、陛下。どうしてそのような遠い国の姫君を皇太子妃に? 諸侯方も不思議に思っておられる様子……」

 アルフレッドはにやりとふてぶてしい笑みを浮かべる。

「向こうが我が国に援助を求めてきたのだ。どうやら異国が攻め入ってくる気配があるらしくてな。遠い国だが、縁あって書状を交わしてきた友邦だ。その窮地をむざむざ見捨てることもできまい。その見返りに姫をもらい受けただけのことだ。どちらにしてもエディアルドには妃が必要だ。だが、手近なところから迎えれば必ずどちらかに遺恨が残る」

 皇帝の妃には代々コートレイル家の姫を迎えていた。コートレイル家は旧オルシニア王家で、国内貴族の中では最も大きな権力を持つから、今まで反発をされることはなかった。

 ところが、エディアルドに年の近い姫がいないことから、妃選びは一から考えなくてはならなくなった。

 ここぞとばかりに我が娘を皇太子妃にと名乗りを上げた者は数多くいた。近隣国の王からも話があったのも事実。

 なのに、コローニアなどという遠方の小国の姫を選んだ。皇帝の真意を測り兼ねている者は多い。

「どうせ誰を選んでも遺恨が残るのだから、それなら後腐れのない遠国の姫の方がよかろう」

 もし遺恨があるものが姫を狙ったとしても、後々問題がのこらない。そう示唆すると、侍従は納得した様子で頷いた。

「左様でございますか。では、彼の国へは王軍を?」

 ディルダウには海軍も存在する。ただし、異大陸にそれを派遣したことはない。しかも、それほど勢いのある軍勢に対峙するなら、生半可な戦力では意味がない。

「いや、貴竜を送ればいいだろう。彼らなら二日で東大陸に渡れる」

「貴竜……でございますか。異国に竜軍をお遣わしになるのですか」

 皇帝は困惑した様子の侍従に、にやりと笑いかけた。

「そうだ。面白い趣向だろう」

 竜軍は貴竜によって組織された軍だ。貴竜はディルダウの秘宝と呼ばれる存在。それを異国への援軍に送り出した例はない。たとえ遠い海の向こうの異大陸であっても。

「異大陸までも、我が国の威光を知らしめるよい機会だ」

 ただ、すべての事実を知ったとき、エディアルドがどんな顔をすることやら。アルフレッドはそう考えて口元を緩めた。


 翌朝、クレンの宿屋で一夜を過ごしたヴィオレッタたちを待っていたのは、とんでもない報告だった。

 夜の間に港に停泊していたはずのコローニア船が姿を消していたというのだ。

「……逃げたのね?」

 ヴィオレッタは身支度をしながら、ラウラに確認するように訊ねた。侍女は落ち着いた様子でお茶を差し出してくる。

「残念ながらそのようです。このようなものが残っていたそうです。伯爵様のお話では、夜の内に食料や水などを運び込んでいたという情報もあります」

 ラウラは小さな羊皮紙に書かれた手紙を差し出してきた。

 ヴィオレッタはその手紙を一瞥して、眉を吊り上げた。

「……『申し訳ございません。我々には荷が重すぎます。後のことはどうぞよしなに』って、何なのこれ」

 大の男たちが小娘二人に国の大事を押しつけて逃げたっていうの? この国の巨人のような人々に恐れをなして? なんてことなの。

 ラウラが冷静にヴィオレッタに訊ねてきた。

「姫様……。伯爵様は、追っ手を差し向けますかとお尋ねでしたけど、いかがいたしましょうか」

 ヴィオレッタは感情を押し殺して静かに首を横に振った。

 怒りに混じって、何か、別の感覚が彼女を襲っていた。

 まるで足下がふわふわして、自分の立っている場所が不安になる……そうだ。

 高い場所にのぼっていて、ハシゴを外された感じだ。

「必要ありません。帰りたいなら帰ればいいことです。こうなってしまった今、一刻も早く帝都に参じて、皇帝陛下に彼らの非礼をお詫び申し上げるしかありません。そのように伝えてちょうだい」

「かしこまりました」

 言葉を受けたラウラは素早く一礼してヴィオレッタの前から下がる。

 誰もいなくなった室内で、ヴィオレッタは拳を握りしめて、小さくつぶやいた。

「私としたことが、この程度のことで狼狽えるなんて……」

 動揺した自分に、ヴィオレッタは怒りを覚えていた。

 あの船に乗れば、また祖国へ帰れる。自分の心の中にまだ、そんな浅ましい感情があったのだろうか。

 こんなことで冒険がしたいだなんて、よく言えたものだ、と思う。

「まだ、大丈夫ね。……ヴィオレッタ」

 うつむくな、前を見据えろ。

 ヴィオレッタが書庫で見つけ出したマルティネスの冒険記にはそんな言葉がちりばめられていた。王女という立場では望んでもできない数々の冒険に心が躍った。

 その言葉に、ヴィオレッタは自分を奮い立たせた。

 ……来ることを選んだのは、ヴィオレッタ自身だ。

 たとえこの大陸にただ一人残されても、自分にはしなければならないことがある。

 自分が逃げ出せば、祖国は滅ぼされてしまうのだから。

 だから、まだ負けない。


 コローニア船の蒸発騒ぎで、ヴィオレッタたちの帝都への出発は午後になった。

 ヴァレンティンは立派な馬車を用意してくれていた。

 外部の装飾こそ上品に押さえてあったが、内部は天鵞絨張りで、皇太子妃にふさわしい作りになっていた。ただ、それは、ヴィオレッタから見たらそびえ立つような巨大な物体でしかない。

 乗り込むときも、ヴァレンティンは如才なく踏み台を差し出してくれた。

 本来ならヴィオレッタの従者がするべき事だ。そう考えると、彼の気遣いさえも、ヴィオレッタには辛かった。

「殿下。気分が乗らないようでしたら、出立は明日にしましょうか?」

 彼はそう言ってくれたが、ヴィオレッタはそれを断った。

「今はただ、皇帝陛下にお詫び申し上げたいという気持ちで一杯です。できる限り早く、王都に参じたいと思います」

 まっすぐにヴァレンティンの顔を見据えてそう告げると、彼は深く一礼した。

「ご立派な心がけです」

 彼なりに、ヴィオレッタの心境を推し量ってくれたのかもしれない。

「けれど、お力になれることがありましたら、何なりと申しつけください。私はそのために遣わされておりますから」

 ヴィオレッタにとっては、見知らぬ地で、しかも侍女とたった二人で取り残された状況が愉快なはずもない。

 自分の名誉のためではない。この一件で、コローニアの名に傷が入るということが、どうして彼らにはわからなかったのか。それに腹が立っていた。

「……恥ずかしいですわ。本当に」

「まあ、私があなた方の立場だったら、恐ろしいと思うのではないかとお察ししますよ。男ってのは情けない生き物で、力で勝てないって思ったら怖じ気づくんですよ。普段力を振りかざして威張っているからでしょうね」

 柔らかい笑みでヴァレンティンは応じてくれた。

「お優しい方ですのね。ヴァレンティン殿は」

 ヴィオレッタが思わず笑みを浮かべると、彼は少し複雑そうな笑みを浮かべた。

「……そうでもないですよ。ふわふわと流される気弱な非力な男ですよ」

「そんなこと……。初めて会ったばかりの小娘を勇気づけてくださる力はお持ちです」

 本当に気弱な人ならば、自分のような小さな背丈しかない異大陸の人間を扱いかねるだろう。拒絶される可能性だってあった。

 自分だったら、と言ってくれたけれど、逆にヴィオレッタが彼の立場だったら、困惑する。どうしていいのかわからなくなるだろう。けれど、彼はちゃんと礼節をとってくれる。

 ヴァレンティンは褐色の瞳を細めて微笑んだ。

「……微力ですが、あなた様を無事帝都に送り届けるまでお護りいたします」

 ヴィオレッタの小さな手をとって、頭を下げた。


 十数人の護衛兵に守られた馬車は、クレンを出発して順調に街道を抜けていった。

 ヴァレンティンの父コートレイル公が有力貴族だというだけあって、帝国の東端という土地でありながら、街道は整備されていた。

「本来なら、皇太子妃となられるお方の嫁入りです。仰々しく馬車を連ねた行列で、一軍を護衛につけるほどのことがあっても当然なのですが、皇帝陛下も私も、できるだけ目立たずに帝都まで向かおうと考えています」

 ヴァレンティンは道中に、宮廷内部の事情を少しずつヴィオレッタに教えようとしてくれていた。

 なによりも、ここ数年、皇太子エディアルドの周辺に起こった出来事を。


 皇太子エディアルドには兄弟はなく、母后もすでに亡くなっている。

 現皇帝アルフレッド自身にも兄弟はいない。妹姫がいるが、ディルダウの典範では女性に継承権はない。つまり、皇位継承権者は現在エディアルド以外存在しない。

 エディアルドは幼い頃から病弱で、人前に出ることは少なく、国民は彼の顔を絵姿でしか知らないほどだ。このままエディアルドに何かあれば、皇家直系の血統が絶えてしまう。

 そのために、皇帝はエディアルドの妃を早く決めようとした。彼が思春期に入る前から何かとそうした動きがあったという。

「まあ、国内の主立った貴族は、皇太子妃選定に我が娘をと、一時大騒ぎしたものです。数年前から何日もそのための舞踏会が開かれて。けれど、当のエディアルドは人付き合いが苦手で、一通りのご令嬢とダンスして、それが終わったらさっさと引き上げる始末で。おかげで、ますます人前に出るのを嫌うようになってしまったんですよ」

 ヴァレンティンは苦笑いを浮かべている。

「もしかして、ヴァレンティン殿の家でも候補を?」

 代々后妃を出してきた名門貴族なら、名乗りを上げても不思議ではない。けれど、ヴァレンティンはゆっくりと首を横に振る。

「あいにく私は弟しかおりませんので。まあ、大騒ぎになったのも、わがコートレイル家が皇太子妃候補を出さないこともあったのでしょうね。ただ、遠縁に当たるマローネ侯爵とクレイス伯爵は名乗りを上げたようです。むろん、相手にもされなかったようですが」

 ヴァレンティンはそう言って、ここからが大事なんです、と前置きした。

 皇太子は延々続く妃選定にうんざりしたのか、すっかり皇太子宮から出なくなってしまった。そんな頃に皇帝が唐突に異大陸の王女を皇太子妃にする、と決めたのだという。

「皇帝陛下が皇太子妃にヴィオレッタ王女殿下を選んだと公表されたとき、宮廷ではかなりの反発がありました。そんな遠国の姫をあえて選ぶ理由を明らかにしてほしいと。とはいえ、どこの家の娘を選んでも結局角が立つのは同じだったでしょうけど」

 つまり、皇太子妃の座をねらっていた貴族たちは、それを射止めた聞いたこともない遠国の姫に対していい感情は持っていない、ということになる。

「それで、私があなたのお迎えに選ばれた訳です。中立の立場、ということで」

「……それは、お手間を取らせてしまいました」

 ヴィオレッタは膝に置いた両手に力が入る気がした。

 まだ会ってもいないのに、自分にはディルダウの宮廷に山ほどの敵がいるらしい。

 と、いうより、その敵って縁談を断り続けた皇太子が作ってくれたのではないだろうか。

 単純に、とばっちり、という表現が正しいような。

 けれど、皇太子が誰も選ばなかったからこそ、ヴィオレッタが選んでもらえたことを考えると僥倖と思うべきなのか。それによって、コローニアが救われる可能性ができたのだから。

「いえ。私はむしろ役得だと思ってますよ。何しろエディアルドの妻になるお方に誰より先にお目にかかれるのですから」

 ヴァレンティンは楽しそうに褐色の瞳を細める。

「それに、予想していたより興味深いお方でいらっしゃるし」

「……興味深い?」

 ヴィオレッタはその言葉の意味を掴みかねた。

 あまりほめられた気がしない。

 なにしろ、鑿やのこぎりを持っているのを見られていたりするのだ。

 当分の間は、楚々とした姫君を装って大人しくしているつもりだったのに、とんでもない失態だ。

 不意にがくんと馬車の速度が落ちた。衝撃で揺らいだ身体を、さりげなくヴァレンティンが支えてくれた。

 ヴァレンティンはヴィオレッタたちに怪我がないのを確かめると、表情を引き締めて、剣を掴んで外の様子をうかがう。

「何事だ?」


 護衛の一人が、街道に倒木が倒れていると報告してきた。

「動かせるか? 暗くなる前にこの森を抜けたい。急がせるんだ」

 彼が鋭い声でそう命じたとたんに、周囲から大きな声が上がった。

 ヴァレンティンの褐色の目がすっと細められた。その鋭いまなざしは、すでにさっきまで穏やかに微笑んでいた貴公子のものではない。

「姫はここに残っていらしてください。私がお呼びするまで」

 チリチリとした緊張感が伝わるような空気をまとって、ヴァレンティンは飛び出して行った。

 ヴィオレッタは、馬車の外をちらりと伺い見た。大勢の人々が剣を片手に押し寄せてくる。しかも、服装からして、ごく普通の平民のように見えた、が。

「太刀筋は悪くありませんね。あれは剣術を嗜んだ者のようです」

 ラウラが冷静に分析する。

 護衛の兵士たちと賊たちが剣を切り結んでいるのを見て、人数といい、この状況が不利であると、ヴィオレッタは判断した。

 

 この馬車は華美ではないが、皇帝の紋をあしらっていて、皇家の紋章の入った旗も掲げている。護衛も連れている。そんな相手を襲うのは賊としても危険だ。

 それでもこの馬車を狙うとしたら……狙いはヴィオレッタなのではないだろうか。

 皇太子争いで負けた家が嫌がらせをしてきている? 

「ラウラ。支度して」

 それを聞いたラウラは、素早く短刀と布袋を取り出して、主に差し出した。

 外では剣を打ち合う音、叫び声が響いてくる。

 このままでは馬車に押し寄せてくるのは間違いない。その前に身を隠す。自分たちが人質になったら、ヴァレンティンたちが動けなくなる。

 賊たちはおそらくヴィオレッタたちの外見までは知らないだろう。だからまだ、逃げる余裕はある。

 ヴィオレッタは布袋と短刀を腰帯に結わえ付けた。最低限の荷物を身体に縛り付けて置けば何とかなる。

 昨夜のうちに、万一の時のために装備をしてきたのだ。丈夫な革靴に履き替えて、髪をまとめて後ろで縛る。ドレスは邪魔だけれど、この際仕方ない。

 素早く支度しながら、ラウラは口惜しそうにつぶやいた。

「……これほど早いとは思いませんでした」

「まだ私たちが油断していると思って仕掛けてきたのでしょう。何としても帝都にたどり着かなくては。捕まるわけには行きません」

 ラウラは頷いて、ヴィオレッタに外套を羽織らせた。

「……祖国コローニアのために。そして御身のために」

「ラウラも無茶をしてはだめよ」

 ヴィオレッタは周辺の地形を頭に入れていた。街道の西側は木立が続いていて、更にその先は深い森になっている。

 自分たちにはディルダウ人と体格差があるから、万一相手がそのことを知っていた場合、人に紛れて逃げることはできない。そもそもこの容姿は目立つ。

 だったら、自分たちが紛れるのなら、森の中しかない。

 そう思った瞬間に、馬車が大きく傾いだ。

「ラウラ」

 捉えようとした侍女の手を掴み損ねて、ヴィオレッタは叫んだ。

 ヴィオレッタとラウラは、はずみで開いた扉から放り出される形になった。

 それに気づかない賊たちが、ひっくり返った馬車に群がっているのが見えた、その次の瞬間。

 背中から何かにたたきつけられた形で、ヴィオレッタは意識を失ってしまった。


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