第一章 3
「ありゃ、大丈夫なんですか? 閣下」
一方、ディルダウ船では、初めて見た未来の皇太子妃に、人々が困惑していた。
「確かに可愛らしい姫君ですけど……なんてお小さい。東大陸の人というのは、皆ああなのですか? まるで人形だ」
騒ぐ船員たちに、のんびりとヴァレンティンは笑いかけた。
「みたいだねえ。しかし、皇帝陛下のお決めになったことだよ。あの方が将来の皇太子妃、そしていずれは皇后となられる方だ。失礼のないようにねー」
彼らが初めて目にしたコローニアの人々は自分たちの膝あたりまでの背丈をしていた。驚くのは無理もない。子供のような体型ではなく、自分たちの姿をそのまま小さくしたような姿。本当に動く人形を見ているような不思議な印象。
これだけ体格差があったら、かの東大陸の人たちからすれば、こちらはバケモノでしかないだろう。交流がまったくなかったのはそれが一因なのかもしれない。
ほとんど行き来のない異大陸、そこには恐ろしいバケモノがいるから近づいてはいけない、という伝承があった。
海路も複雑で、最近になってやっと安全な航路が発見出来たくらいだ。それほどに実際交流がなかったのだ。
けれど、あの姫君は自分から見れば見上げるような背丈のディルダウ人に、毅然と一礼して見せた。まだ十五歳だというのに、あの気丈さはどうだろう。
すばらしい。ヴァレンティンはほくそ笑んだ。
あの姫ならば、エディアルドの支えになれるのではないだろうか。
彼を苦しみから救えるかもしれない。あの姫ならば。
クレンに入港したコローニア船は多くの人々の歓迎を受けた。とはいえ、コローニアの人々から見ればそびえ立つ壁のような人垣である。
ディルダウの人々の衣服は、袖やズボンの裾が膨らんだようなゆったりしたものだった。しかも、冬なので、更に毛織物や毛皮をあしらった上着を羽織っていて、そのせいで余計に大きく見えてしまう。
その一方で、使節団の男たちはすっかり怖じ気づいて船から足を踏み出せなかった。一番手を譲り合う、あまり美しくない光景が甲板で行われていた。
さすがのヴィオレッタも、あれほど大きな人々の前に出るのは少し躊躇いがあった。彼らに悪気がなくとも、踏まれただけで自分など潰れてしまうだろう。
けれど、逃げるのはコローニア王女としての矜持が許さない。自分が皇太子に嫁がなかったら、祖国は滅ぼされてしまうのだから。
冒険家マルティネスのような何事にも怯まない人間になりたいんじゃなかったの。そう自分を叱咤すると、男たちに向かってきっぱりと言い放った。
「では、そこをどきなさい。私が参ります」
ヴィオレッタはさっと道を譲った男たちには目もくれず、西大陸へと最初の一歩を踏み出した。
自分が不甲斐ない態度を見せれば、祖国の名に泥を塗る。白くなるほど堅く握った拳を隠して、ディルダウの人々の前に立つ。
髪はきっちりと結い直してもらった。祖国であつらえた毛皮の外套を羽織っているから、少しでも堂々として見えるだろうか。
見上げるほどの巨漢の男たちが、ずらりと並んで彼女の前に跪いている。そうしていてもヴィオレッタよりも目線が高い。
正面に、先ほどの青年が膝をついて深く頭を下げている。
他の者も同じように頭を垂れている様子から、どうやらそれがディルダウの最敬礼らしいとヴィオレッタは思った。
「ダンディア伯爵、でしたわね。改めて、お礼を申します。どうか、お顔を上げてください」
「もったいないお言葉です。王女殿下。どうか、私のことはヴァレンティンとでもお呼び付けください。宿を用意しておりますので、皆様方もどうかご一緒に」
ヴィオレッタは内心で苦笑いを浮かべていた。彼らが船から下りてくるかどうか。
「申し訳ないのですが、他のものたちは慣れない船旅で体調を崩しているようです。一休みしてから船を下りてくると申しておりました」
ヴィオレッタに付き従ってきたのは、侍女のラウラと、クジに外れて荷物を運んできた若い船乗りたちだけだった。
「そうですか。ではご案内の栄誉を謹んでお受けいたします」
ヴァレンティンは顔を上げると、にっこりと人なつこい笑みを浮かべた。褐色の透き通った瞳は落ち着いた光を湛えている。
それを見て、ヴィオレッタは奇妙な既視感に襲われた。
この瞳と同じ色をどこかで見た気がした。
けれど、それよりも、人々が好奇心混じりで彼女を見ているのに、彼一人が落ち着いていることが目を引いた。
「失礼ですけど、ヴァレンティン殿はずいぶんと落ち着いていらっしゃるのですね。私のような背丈の者をご存じでしたの?」
ヴァレンティンはさらに笑みを深くする。
「いえ、私も十分驚いていますよ。けれど、未来の皇太子妃殿下の前で、そのような無様をお見せして、ディルダウの者は無礼だと、言われるわけにはまいりませんから。それに、畏れながら、あなた様もあまり驚いているようには見えません」
……十分驚いているつもりだけど。
ヴィオレッタはそう言いたいのを我慢して、余裕の表情を取り繕う。
「皇帝陛下からのお迎えの方々に、そのような失礼はできませんわ」
「なるほど。ご立派なお心がけです」
そう言って彼はちらりとヴィオレッタの背後を見る。ヴィオレッタは振り返って驚いた。彼女の後にはラウラが立っているだけで、他の者たちはヴィオレッタの荷物を降ろすと、さっさと船に逃げ帰っていた。
ずいぶんと逃げ足だけは早い。
ヴィオレッタはそれでもしおらしく目を伏せた。
「……お恥ずかしいことですわ」
「いえいえ。驚いても不思議ではないでしょう」
ヴァレンティンは平然とした表情で首を横に振る。
「では荷物はこちらの者に運ばせますので、宿にまいりましょうか」
そう言って立ち上がった彼の顔を、ヴィオレッタはそのまま目で追っていて、思わず尻餅をつきそうになった。それを背後からすかさずラウラが支える。
表情は平然として見えるが、ヴィオレッタの背中を持つ指は白く震えていた。
「大丈夫ですか、姫様」
「ええ。大丈夫よ、ラウラ」
ヴィオレッタは微笑みを返した。ここで自分が動揺したら、この侍女にも伝わってしまう。
「私は、大丈夫」
ただ、この国の人たちと立ち話をするのは、きっと絶対に無理だ、と思いながら。
宿にたどり着いたヴィオレッタとラウラは、最初の試練に立ち向かう羽目になった。
自分たちの三倍もある背丈の人々の住居は当然、それだけ大きい。
「なんてことかしら。椅子に座るのも大変だわ」
皇太子妃になる王女のための宿室は、賓客にふさわしいきらびやかな調度の美しい部屋だった。けれど、ヴィオレッタたちにとっては、それ自体が巨大な建造物に見えてしまう。
まず、椅子の座面の高さが顔の高さに等しい。テーブルの卓面と来たら、遙かな頭上だ。
お作法もなにもあったものではない。
座れるものなら、座ってみろ、と言わんばかりに挑発された気分になった。
ヴィオレッタは心得た様子でおごそかに告げる。
「ラウラ、例の道具が役立つときが来たようですね」
「はい、姫様」
ラウラは大きな木箱を持ってきて、その中から道具を取り出した。鉤のついたロープや、鑿やのこぎり。普通の姫君のお輿入れ荷物に入っているものではありえない。
それは、ヴィオレッタ愛用の冒険用具一式だった。
「たかだか椅子ごときに、負けるものですか。要するに高さを下げればいいのよ。やるわよ、ラウラ」
「はい」
豪奢な椅子の脚に二人が目を向けた瞬間、のんびりとした声が割り込んできた。
「ダメですよ。勝手に宿の備品を壊したら、私がここの主に叱られますよ」
ヴァレンティンが木箱やクッションを抱えて戸口に立っていた。
「ご不自由でしょうから、踏み台になりそうなものをお持ちしました」
あわてて工具を背後に隠した二人だったが、おそらく見えてしまっただろう。
「大工道具までお持ちだとは、ずいぶんと用意がよろしいですね」
ヴァレンティンは暢気に笑うと、椅子の脇や寝台の脇に踏み台を配置してくれた。
おしとやかな姫君の仮面がさっそく崩れたような気がして、ヴィオレッタは答えに窮したが、開き直ることにした。
「はしたないと思いまして? 私、以前から少しくらいの細工ものは嗜んでおりましたの」
嘘ではない。王宮内に基地と称して『ちょっとした小屋』まで造るのが、細工もの、と呼べるかどうかは別として。
「それはそれは。私の妻と話が合いそうですね。妻は器用でして、ちょっとした棚などは自分で作るんですよ」
「……そうなんですの? その奥方様には、是非お目にかかりたいですわ」
コローニアでは高位の貴婦人が大工仕事をするなど、まずあり得ない。それとも、ディルダウでは違うのだろうか。
ヴァレンティンは皇帝に命じられて皇太子妃の迎えに来たと言っているが、どのくらいの地位にある人物なのか、ヴィオレッタは量りかねていた。
「そう言っていただければ、妻も喜ぶでしょう。あいにく妻は身重で、レイナン・ディルディの邸におりますので。こちらの居城につれてきておけばよかったですね」
どうやら彼はこのあたりに所領を持つ貴族らしい。
「ヴァレンティン殿は、こちらのご領主ですの?」
「正確にはこのあたりは私の父の所領なんです。おそらくこれからお耳に入ることと思いますから、宮廷のことなどは私がご説明します。と、その前にお茶にしましょうか」
言いながら、貴族の子弟とは思えない手際の良さで、お茶の支度を始めた。
こちらでは、殿方がお茶を入れるのは珍しくないのだろうか。ヴィオレッタは初めて見る光景に目を丸くした。
「あの。伯爵様。お茶の支度なら、私が」
ラウラがそう言うと、ヴァレンティンはやんわりと答える。
「あなた方をおもてなしするのが皇帝陛下から命じられた私の仕事ですから」
丸い形のポットを持ち上げて、得意げににこりと微笑む。
「このポットは、あなた方の小さなお手には余りますよ。ところで、茶碗はありますか?」
ラウラが急いで荷物の中から、茶器を取りだした。彼から見れば、指でつまめそうな大きさのそれを受け取って、手のひらにのせてじっくり鑑賞すると、ヴァレンティンは嬉しそうに目を細める。
「紫の薔薇ですか。見事な細工ですね。あなたにふさわしい」
「薔薇はこの地にも咲くのですか?」
ヴィオレッタの問いに、彼は一瞬、辛そうな顔をした。けれどすぐに大げさなくらいの笑顔にかき消される。
「ええ。咲きますとも。ディルダウの薔薇は、房のようにたくさん花をつけるんですよ。ただ、紫色はないのですが。……どうぞ」
ヴァレンティンはそう言うと、甘い香りを漂わせた茶を小さなカップに注いで、差し出した。
「残念です。私の祖国では紫の薔薇は人々にとても愛されています」
「そうですか。それはぜひ見てみたいものです」
微笑んでいるのに、どこか表情が硬い。
何かこの人は思い悩んでいるように見える。そう見せないように、明るく振る舞っているようだけれど。
動作の合間にヴィオレッタに向けてくる目線。それが気になった。
「ヴァレンティン殿……あの、何か私にお話があるのでは?」
黒髪の青年は、意を決したようにヴィオレッタの前に膝を落とした。
「……実は、殿下。ご忠告申し上げて置きたいことがございます。この国の政情について一日でも早く学んでいただきたい。それがあなた様を守ることになります」
ヴィオレッタは頷いた。それは彼女自身も望んでいたことだから。
しかし、その言葉は彼女に、危険が迫っていることを暗に示している。
もしかしたら、自分の婚姻は全ての人には歓迎されてはいないのかもしれない。
「それは私も望むところです。ヴァレンティン殿」
ヴィオレッタの答えに、ヴァレンティンは顔を上げて、褐色の瞳を彼女に向けた。
「では、まずは私のことをご説明しておきましょうか」
ヴァレンティンは見た目のほっそりした姿とは裏腹に、今の地位は、皇帝直属の武人なのだと説明した。普段は宮殿で警護の指揮を執ることも多いという。
彼の実家、コートレイル家は、元はディルダウの東に接していた大陸東端の国家の王家だった。その国は、百年ほど前、ディルダウに併呑されたのだという。けれど、ディルダウ皇帝は、その王家を滅ぼさず重臣として迎えた。
「その友誼の証として、代々皇后はコートレイル家から選ばれてきました。当代の皇后陛下は、私の父の妹に当たります」
皇帝一家の姻戚、そして、元はれっきとした王家。そうなると彼の地位も血筋も皇帝一家に次ぐものだということになる。
「つまり、ヴァレンティン殿は、皇太子殿下の従兄に当たるのですね?」
ヴィオレッタが話を呑み込んでいることを確認して、ヴァレンティンは満足げに頷いた。
「その通りです。小さい頃からエディアルドのことはよく知っていますから、あることないこと何でもお教えしますよ。お知りになりたいことがありますか?」
いや、ないことまで教えられても困るのだけど。
ヴァレンティンは茶や菓子を口に運びながら、微笑む。元々そうした性格なのか、あまり細事にこだわらないおおらかな様子に、ヴィオレッタはつられて微笑んだ。
「……皇太子殿下は、ヴァレンティン殿と変わらぬ背丈でいらっしゃるのですか?」
「え?」
予想外のことを訊ねられたように、ヴァレンティンは目を丸くした。
「背丈、ですか? おそらく、少しエディアルドの方が高いと思いますよ」
ヴィオレッタは頷いた。その様子にヴァレンティンはもの問いたげな顔をする。
「それがどうか?」
ヴィオレッタはこの国に到着したときから、心の中にわだかまっていた疑問を口にした。
「これほど背丈が違っていても、皇帝陛下は私を皇太子殿下に嫁がせてくださるでしょうか?」
ヴィオレッタは、そして、コローニア王も知らなかったのだ。西大陸と東大陸では、人を含めた何もかもが大きさが違うことを。
おそらくディルダウの皇帝も知らなかったはずだ、とヴィオレッタは思った。
そうでなければ、皇太子の妃に自分が選ばれるはずがない。
けれど、もし、この縁談が成立しなければ、祖国を救う術がなくなってしまう。
「大丈夫ですよ。殿下。皇帝陛下はひとたび交わした約束を違える方ではありません」
ヴァレンティンは自信に満ちた口調でそう断言した。
「それに、これ以上エディアルドの結婚を遅らせる訳にも行かない事情があるので」
結婚を遅らせられない事情? ヴィオレッタは奇妙な言葉に困惑した。
ヴァレンティンは苦笑して、それはまた説明します、と小声で囁いた。
「とにかく、その点ではご心配なく。……ところで、お茶はお嫌いですか? 上物の花茶ですよ。この国では慶事に出すお茶なのですが」
渡された茶器の中の鮮やかな赤に、ヴィオレッタは目を向けた。
「南方に咲く赤い花で作られたお茶です。甘いいい香りがするでしょう?」
「初めて見ました」
花で作ったお茶。初めての響きに、ヴィオレッタは心が沸き立つ気がした。
未知の物には、恐れよりも好奇心が先立つ彼女は、迷わずそれを一口飲んでみた。
「まあ、不思議な味」
ふわりと漂う香気ごしにヴァレンティンの嬉しそうな笑顔を見て、ヴィオレッタは思った。
この国は、思ったよりも優しい場所かもしれない。
ヴァレンティンの入れてくれたお茶のせいか、それとも久しぶりの揺れないベッドのおかげか、ヴィオレッタはその夜、いつもより早く床についた。
夜、いずこからともなく歌声が聞こえて、ヴィオレッタは目を開けた。
窓から月の光が差し込んでいた。どこかで旅芸人でも、歌っているのだろうか。甲高い弦楽器の音と、初めて聞く旋律。
昔々、王様は、神様と約束をした。
知恵をお借りするかわり、一番大切なものを、神様に差し上げる。
神様は王様の一番大事な、紫の薔薇を摘んで行った。
だから、オルシニアには紫の薔薇はない。
紫の薔薇は故郷を遠く遠く離れて、神様の国からこの地を見守る。
いつかいつか戻る日のために……。
ヴィオレッタは思わず胸を押さえた。
切ない歌声に、こみ上げてきた感情は、彼女には傷みを伴うものだった。
ヴィオレッタは隣の部屋で眠っている侍女に聞こえないように、小さな声で幼い頃から親しんできたコローニアの歌を口ずさむ。
祖国の歌を覚えているうちは、まだ、自分を見失わないで済む。
コローニア王女として、そして、一人の人間として。