第一章 2
緩やかな弧を描く湾の内側に、沿うように白い漆喰壁と赤い屋根の家が連なっていた。
このところ、冬には珍しく穏やかな気候が続いていた。海はなだらかで、陽光にきらめいている。
湾内に停泊している船も、帆を緩め、のどかに身体を休めているようだ。
ディルダウ帝国の東端に位置する港町クレンは、皇帝一家の姻戚、名門コートレイル公家の所領である。
そのコートレイル公の長男、ダンディア伯爵ヴァレンティンは、届いた書状に目を通しながら、褐色の瞳を曇らせてため息をついていた。
細身の長身を鮮やかな紫紺の絹衣で包んだ黒髪の青年は、まだ二十一歳という若さでありながら、どこか世間離れしたような雰囲気を持っていた。
「楽しくないねえ。父上からは無粋な手紙ばっかりだ。せっかくエディアルドの嫁さんを誰より先に拝めると思って楽しみにしてるのに」
彼の従者は主のぼやきを黙って受け流した。
彼は皇帝の命により、皇太子妃となるコローニア王国の王女ヴィオレッタ一行の到着を待ち、護衛することになっていた。
結婚式は帝都レイナン・ディルディで行われるため、王女はまだ皇太子妃の称号を手に入れてはいない。
国内では遠い小国の姫を皇太子妃にすることを反対している者も多いため、大貴族の息子であり、軍人でもある彼に命令が下ったのだ。
「だいたい、あのエディアルドに妻だって? しかもうらやましくなるような可愛らしい姫君だぞ。もったいなさすぎる。悔しいから、花嫁にあることないこと吹き込んで、邪魔してやろうかなー。おお、我ながらいい考えだ」
宮廷の者が聞いていたら不敬だのと目くじらを立てられそうな独り言に、従者は聞こえないふりをして部屋を出て行った。
それを見て、ヴァレンティンは表情を急に険しくすると、書状を乱暴に握りしめた。
「……なぜだ……今になって」
海からの風が彼の黒髪を揺らした。
かの姫を乗せた船はもうじきディルダウにやってくる。
ヴァレンティンは窓からその方角を見据えた。
コローニアの小さな紫の薔薇は、どれほどの逆風に耐えられるだろうか。
「姫様、甲板は身体が冷えますわ。そろそろお部屋にもどりましょうか」
侍女の言葉に、身を乗り出すように水面を見つめていたヴィオレッタは顔を上げた。
外套を羽織っていても、頬にかかる風は冷たい。けれど、彼女は意に介する様子もない。
「この調子なら嵐に遭わずにたどりつけそうね。ラウラ」
「よろしゅうございましたね」
王女ヴィオレッタの初めての船旅は、気候と風に恵まれて順調に運んだ。
コローニアを出港して約四十日後、彼女を乗せた帆船は水平線の向こうに西大陸の稜線を見ることができる場所にたどり着いていた。風向きにも助けられ、予想していたよりもはるかに早い日程だった。
時折、ディルダウ皇帝の使者の鷹が、水先案内をするかのように船の真上を旋回して行った。海図を届けてくれたのもあの鷹だった。
褐色の翼を大きく拡げて、力強く風を切る鷹に勇気づけられて、見知らぬ外海に乗り出した船は、迷うことなく旅を続けてきた。
西大陸に渡ったコローニア船は前例がない。詳しい海図が存在しなかったこともあるし、西大陸は怪物が住まう恐ろしいところだという伝承があったからだ。
「それにしても、あの鷹は不思議ね。とてもお利口さんだわ。あの人たちと違って」
ヴィオレッタはそう言って、船室に続く扉に振り向いた。
コローニア側からは使節団が編成され、彼らもまたヴィオレッタとともにディルダウ帝都レイナン・ディルディに向かい、国王の代理として婚礼に立ち会うことになっていた。
ところが長い船旅ですっかり体調を崩してぐったりしてしまっていた。
「毎日船室に籠もっていたら、体力が落ちてしまいそうだわ。よくまああの人たちは部屋から出なくて平気だこと」
ヴィオレッタの侍女ラウラは、その言葉に小さく微笑んだ。
栗色の髪と青い瞳の侍女は細身で小柄だが、心臓は鋼でできている、と言われる。十六歳の若さにして、ヴィオレッタ王女付きの侍女を三年も務めてきた強者だ。
「無理もありません。皆様船酔いやら何やらでお疲れのようですし」
「その割には食事やらの不満だけは多いみたいだけど。厨房係が嘆いてたわ。船旅は保存食中心になるのくらい、マルティネスの冒険記を読めば分かることではないの」
ヴィオレッタは鮮やかな紫の瞳に怒りを宿らせていた。
使節団の選出にもかなり揉めたのだ。皆、遠い異大陸までの船旅に出るのを恐れていた。
一日でも早く出発したいと望んでいたヴィオレッタには、そのぐずぐずとしている男たちが、腹立たしくて仕方なかった。
どうしてこう男っていうのは、日頃偉そうにするくせに、いざというときに理屈ばっかりこねるのかしら。
「でも、ラウラ。あなたは不平を言ってもかまわないわ。遠慮はいらなくてよ」
皇太子妃付きの侍女としてディルダウに残ることになっているラウラに、ヴィオレッタは責任を感じていた。
使節団は仕事が終われば祖国に帰る。けれど、ラウラにはそれが叶わないのだ。陸続きの隣の国に嫁ぐのとは訳が違う。
ラウラはあまり表情を変えずに、わずかに目を見開いただけだった。
「いいえ。姫様。私は姫様にずっとお仕えします。姫様の行動力にディルダウの侍女や女官が何人も卒倒するのではと、心配ですから。説明する者が必要でしょう」
「まあ。いくら私でも最初から地を見せたりはしませんわ。いただいた書物で勉強してきましたけれど、何しろ習慣も何もかも違う国ですもの。当分はちゃんと姫君らしくしていることにするわ」
ヴィオレッタはラウラの落ち着きに苛立っていた気持ちがすっきりしてきた。
いらいらしていたのは、焦りがあったせいかもしれない。
そこへ、年配の船乗りの一人が話しかけてきた。
「姫様。少しよろしいでしょうか」
ヴィオレッタは毎日のように甲板を歩き回っていたので、ほとんどの船員と顔見知りになっていた。船員たちも、最初はかしこまっていたが、今では親しく話をしてくれるようになった。
「こちらに向かってくる船があるんです。一応ディルダウの皇帝陛下の旗印のようですので、お知らせに……」
そう言いながら、遠眼鏡をヴィオレッタに差し出した。
ゆっくりと距離を詰めてくるその船は、巨大な三角形の帆をいくつも並べた立派な外洋航海船のようだった。帆の先に白地に交差した青い線の入った旗を掲げている。
「確かにそうだわ。もしかしたら皇帝陛下のお迎えかもしれないわね」
「しかし、何か変じゃないですか?」
ヴィオレッタは首を傾げた。たしかに、見えている距離と大きさが、どことなく違和感があるのだ。
「もしかして、あの船がものすごく大きいということではなくて?」
彼女の言葉にその船乗りは大きく頷いた。
「そう、その通りです。目算でもこの船の三倍はありそうな船です。けど、あれだけ大きな木造船をつくるには、それだけ大きな木がないと。コローニアではあんな大きなものは作れませんよ」
「……言われてみれば、ディルダウから来たものって、すべて大きいわね」
皇帝からの書状や贈り物を届けに来ていた使者の鷹も、桁外れに大きかった。だから、漠然と豊かな国なのだろうと思っていた。
あんな巨大な船を作れるということは、とても大きな木が沢山生えているんだろうか。それを加工する技術も……そう思うとわくわくしてきた。
大きな船がこちらに近づいてくるのが見えた。
「これはまた、ずいぶんと立派な。さすたに皇帝陛下のお迎えで……って、うわっ」
遠眼鏡で見ていた船乗りは、そう叫ぶと尻餅をついてしまった。そのままじりじり後ずさりを始める。ヴィオレッタとラウラは顔を見合わせた。
「どうかしたのですか?」
近づいてきた船が目前にせまると、乗っていた人々の姿も見えてきた。
周囲の船乗りたちも大騒ぎし始めた。見上げるような巨大な木造船、そして甲板から身を乗り出している船乗りと思われる人たち。
「なんだ。あれは」
「化け物じゃないのか?」
どう見ても自分たちの三倍を超える背丈を持った男たちばかりが、その船に乗っていた。
しかも、向こうも驚いた表情で、こちらを見ている。
ヴィオレッタは冷静にそれを見上げていた。西大陸は自分たちにとって巨人の国だったのだ。
考えてみれば、あの使者の鷹のような大きな鳥は東大陸にはいない。きっとこちらでは何もかもが大きいのかもしれない。
……すごい。こんなことがあるなんて思わなかった。
「まあ、なんてご立派な体格かしら」
「そうですね。姫様。海の男らしい逞しい方ばかりで」
少々のことは動じないラウラも暢気に相づちを打つ。
しかし、彼女たちの背後では、隠れる場所を求めて逃げまどう船乗りたちがいた。
「そっ、そんなのんきな。姫様、早く船室にお隠れください」
「食われちまいますよ」
物陰から船乗りたちがヴィオレッタたちにそう告げる。
「何を大げさな。皆、落ち着きなさい」
ヴィオレッタはどうしてそんなに背丈が大きな人たちくらいで、大騒ぎしなくてはならないのか分からない。それに、仮にも自分がこれから暮らす国の人々なのだから。
「失礼なことを言うものではありません」
きっぱりとそう言いきると、もう一度その船に目を向ける。
すっかり目の前に近づいてきているその船の甲板から、一人の黒髪の青年が身を乗り出していた。場違いなくらい緊張感のかけらもない陽気な笑みを浮かべて、ひらひらと手を振っている。
「あのー。コローニア王国の使節団の方々ですね。皇帝陛下の命でお迎えに上がりました。ダンディア伯爵ヴァレンティン・ディ・ルナーと申します。入港まで護衛しますので、どうぞよろしくー」
それを聞いたヴィオレッタは軽く眉根を寄せた。
一見しただけだと貴族の御曹司だが、全くコローニア人の背丈に驚いている様子がないのは強者かもしれない。
すぐに一歩踏み出して、優雅な仕草でスカートの裾を摘んで一礼した。
「皇帝陛下のご厚情に、代表して感謝いたします。私はコローニア王女ヴィオレッタ・ファラ・アルカンジェラです」
すっかりひるんで言葉もない男たちには振り向かず、ヴィオレッタは答えた。
ディルダウ人の背丈が自分たちの三倍もある。それがどうだというの。
問題はそんなことではない。
背丈より何より、ヴィオレッタが困惑したのは別のことだった。ディルダウの文字がコローニアのものと酷似しているのは知っていた。けれど、発音までもここまで似ているとは思わなかった。
「どうして言葉が通じるのかしら」
「あれは、たしかに少し癖がありますけれど、コロンナ語ですね」
ラウラもそうつぶやいた。
コローニアでは二つの言語が使用されている。コローニア独自の古い言語コロンナ語と東大陸の共通語。ディルダウの言葉が、どうして、小国コローニアだけで使われるものと似通っているのか、それが不思議だった。
「でもまあ、言葉が通じるなら幸運だわ。最初から覚えるほうが大変ですもの」
「そうですね。姫様」
のどかに笑い合う主従を、まるで恐ろしいものでも見るかのように、船乗りたちが物陰から遠巻きにしていた。