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紫の薔薇は海を越えて  作者: 春奈恵
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第四章 4

 謁見の間に一歩踏み込むとその場は静まりかえった。

 正面には国旗を背にしたきらびやかな玉座。広い謁見の間には大勢の貴族たちが集まっていた。その背丈はヴィオレッタにとっては巨大な壁だった。

 名目上は、皇太子の婚約者が帝都に到着し、諸侯方と皇帝に挨拶をする、ということになっていた。

 ヴィオレッタは、侍女の手で髪を整えられて新しいドレスに着替えさせられた。祖国から持ってきたものではなく、ディルダウ風の襟にレースをあしらったドレス。おそらくラウラが手配してくれていたのだろう。

 スカートの下に骨組みのようなものを入れて膨らませたドレスは、濃い青紫の光沢のある生地に、銀糸をあしらった上品なものだった。

 ヴァレンティンがヴィオレッタに付き添い玉座に向かって足を進める間、聞こえよがしな声が頭上から降り注いできた。

 上から見られているのが見下されているような気がする。まるで上から抑えつけられるような圧迫感。

「あのような背丈では、子宝を望むことはできまい」

「しかし、皇太子殿下も、話によれば人ではいられなくなるらしい」

「さすがに狼に冠を被せるわけにはまいりませんからな」

「しかし、そうなるとヴァレンティン殿が?」

「そういう訳には行かぬだろう。確か先々代の皇帝の弟君の血筋が……」

 コートレイル公はすでにエディアルドの身の秘密を諸侯たちに暴露してしまっていたらしい。彼らの関心はエディアルドが皇位を継がないなら誰がなるのかということになっていて、本来は祝賀で満たされるはずのこの場の空気を変えてしまっていた。

 ヴィオレッタは心配げな目を向けるヴァレンティンに小さく頷きかけた。

 万一、エディアルドが皇位継承者から外れると、もっとも有力な皇位継承者候補は、皇帝の妹姫の息子ヴァレンティンになるのだという。

 つまり、コートレイル公がエディアルドの貴竜の力を制御するのを手伝わなかった理由には、ヴァレンティンに皇位を継がせようという思惑があったのではないだろうか。そうすればコートレイル家は統治者として戴冠し、かつてディルダウに併合されたオルシニアを実質再興できる。

 けれど、当のヴァレンティンはそれを望んではいない。エディアルドに皇位を継がせたくて、彼は父親にまで逆らってきたのだ。

 玉座にいる皇帝アルフレッドの傍らに、皇太子エディアルドも立っていた。

 そして、そのすぐ近くに黒い髪の壮年の男と、ヴァレンティンよりも少し年若い黒髪の男が立っていた。二人とも貴竜の地位を示すメダルを胸元に見えるように下げている。

「あれが、父と弟です」

 ヴァレンティンがそう囁く。ヴィオレッタはその黒髪の青年を見て、ふと確信した。

 雪の森で出会った、あのときの黒い狼。あれはあの青年ではなかったのだろうか。

 自分を見る無遠慮なまなざしに、見覚えがある。ならば彼が率いていた者が鳥に変化していたキアランを射たのだ。そう考えると怒りが蘇る。

 よくまあしれっとこの席に出てこられるものだわ。

 ヴァレンティンがアルフレッドに一礼し、ヴィオレッタの到着を報告する。

 アルフレッドは玉座から立ち上がり、ゆっくりとヴィオレッタに近づいて来た。

「ディルダウによくおいで下さった。我が娘よ」

「ありがとうございます。お父様。諸侯の皆様にも感謝いたします」

 諸侯たちがざわめく。アルフレッドは婚礼を取りやめるつもりがないと示したのだ。

 けれど、話はそれだけでは終わるはずもない。

 コートレイル公がゆっくりと足を踏み出した。

「それでは、陛下。この場をお借りしてお尋ねしたい。エディアルド皇太子殿下を皇位継承者となさるのかどうか」

 アルフレッドは軽く目を細めて、それからヴィオレッタをエディアルドの隣に並ばせた。

「公は勘違いしてはいないか? 皇太子とは皇位継承者のことであろう? いまさらそのような問いは必要あるまい」

「しかし、貴竜の血を制御できぬと聞いております。そのような状態では政務に支障が出るのではありますまいか。現に、皇太子の職務の大半が滞っております。これでは皆も不安になるでしょう」

 アルフレッドは全く動じる様子もない。

「あの程度の政務、一月ほど寝ずにやれば片付くであろうよ、大したことではない」

 エディアルドが周りに聞こえない程度の小声で、大したことだろう、と呟いた。

 たしかに、一月も寝ないでやれとは、血も涙もない言葉だ。

 アルフレッドは飄々とした様子でコートレイル公を見据える。

「たしか、公の家で定めた貴竜の定義は三つだったな。一つは自らの姿を制御できること。二つめは三つ以上の姿を持つこと。そして、人の姿を保つことができること」

「左様でございます。自らの力を制御できない貴竜は、いずれ人ではいられなくなる。それでは皇位などおぼつかないでしょう。そうなる前にエディアルド殿下は皇位継承者から外すべきです」

 その目は一国の皇太子に向ける臣下のまなざしではなかった。暗く冷たい、まるで価値のないものを見つめるかのような。

 彼にとっては、貴竜の長であることが自らの存在意義なのだろう。そして、エディアルドを絶対に認めるつもりなどないのだ。彼が自分より高位にあるから。

 伯父と甥という関係のはずなのにこの冷淡さは何なのだろう。

 ヴィオレッタはそっとエディアルドの表情を見上げた。色素の薄い肌に、かすかに赤みがかかっている。彼はこうした屈辱に耐えてきたのだろうか。

 そっと手を伸ばして、彼の白い手に触れた。

 控えていたヴァレンティンがたまりかねた様子で口を開いた。

「父上、この場でそのご発言は口が過ぎるのではございませんか。皇位について臣下たる我々が口を差し挟むことはできません」

 コートレイル公は、怒りのこもったまなざしをヴァレンティンに向けた。ヴァレンティンは怯むことなく言を継いだ。

「私は殿下が貴竜として弱いとは思っておりません。むしろ、貴竜に理解のある皇帝が立ってくだされば、当家にも悪いことではないでしょう」

 コートレイル公はゆっくりと足を踏み出した。憎悪の混じった瞳で息子とエディアルドを睨む。

「貴竜の長は私だ。黙っていろ。確かに皇位に口出しはできぬが、貴竜の力に関しては代々当家が任されているのだ」

 コートレイル公はエディアルドを認めない。

 ヴィオレッタはあまりに頑迷なコートレイル公に薄ら寒いものを感じていた。

 貴竜の長という立場に固執するあまり、自分の力を過信しすぎている。

 おそらく貴竜という存在はとても気位が高いのかもしれない、とヴィオレッタは思った。かつてオルシニアという国の支配者であった貴竜たちは民を顧みずに自分たちの争いに終始していたと聞いた時から、貴竜という一族は自分たちの序列に敏感で争いを好む傾向があるのではと推察していた。

 まるで野生生物の群れの序列のように。上下関係を力で決める。そんな感じがした。

 ……今まではコートレイル家は皇帝の権力に従っていたのだろう。けれど、貴竜の力を持つ皇子の存在でその均衡が崩れたのかもしれない。

「貴竜の長ならば同じ貴竜を導くものではないのですか? あなたは長なのでしょう?」

 ヴィオレッタは毅然として顔を上げた。コートレイル公がヴィオレッタをちらりと見る。

 その表情には複雑な感情が秘められていた。怯えにも似た、困惑の表情。

「力が不安定だからと突き放すのが長の役割なのですか? 弱い者を排除し見下すだけなら誰にでもできますわ」

 紫の瞳ににらみ据えられたコートレイル公は、その場から動けなくなったように、硬直した。

 エディアルドは思うようにならない自分の身体にずっと苦しんできたはずだ。それを突き放すのが貴竜の長だというのなら、そのような肩書きは意味など無い。

「分かったように口を挿むな。そなたなどに何がわかる」

 コートレイル公はそう言うと、ヴィオレッタにつかみかかろうとした。

 背後から手が伸びてきて、ヴィオレッタはエディアルドに抱え上げられた。

「私の許嫁に乱暴は止めていただきたい。それに、コートレイル公。公は何か勘違いなさっているようだ。あなたが今までコローニア王女ヴィオレッタになさった非礼について、釈明なさる方が先ではないのか」

「釈明だと? 何の政治力もない政略結婚が国のためにならぬのなど、自明の理だろう。それを止めるのが何故悪い。しかも、そのような相手のために、貴竜軍を動かすなど、言語同断だ。たとえ皇帝陛下の命令であっても……」

 悪いことをしたつもりはないし自分は間違っていない。コートレイル公はそう考えているからこそ、ヴィオレッタの前に堂々と現れたのだろう。

 確かにこの国にとって遠い異大陸の小国など存在しないも同然かもしれない。それでもこの人の態度は酷すぎる。

「臣下でありながら皇帝陛下の命令に従えぬというのなら、それなりの処分がなされる覚悟もあるのだろうな」

 エディアルドは小さくため息をついた。そして、周囲に命じた。

「公は少々取り乱しておられる。しばらくご静養が必要なようだ。しばらく謹慎していただこう。それでよろしいですか? 父上」

「……そのようだな」

「しかし、陛下。貴竜として半端な者を……」

 コートレイル公はさらに言いつのろうとする。

 アルフレッドはうんざりとした表情で答えた。

「そろそろ黙るがいい。コートレイルよ。勘違いも甚だしいぞ。私はエディアルドが貴竜だと認めて欲しいとそなたに言った覚えはない。力が制御できねば生活に支障があるゆえ困っていただけだ。エディアルドが皇太子であることは今までと変わらぬ。確かにまだ獣の姿を制御できてはいないが、その方法も皇位につくまでに見つかれば問題ない。それにこのヴィオレッタ王女はかの『紫の薔薇』だ。今後エディアルドの助けになってくれることは間違いない」

「しかし、その王女が紫の薔薇だという確証など……」

「そなたの確証など必要ない。むしろそなたがヴィオレッタ姫に危害を与えたことを考えると逆に本物だと確信したくらいだ。これ以上とやかく口出しをするのなら、コートレイル家の当主とはいえ、謀叛とみなすがそれでも構わぬか?」

 皇帝がコートレイル公の暴言をすぐに遮らなかったのは皇家の姻族でもあることからの配慮だったのだろう。けれど、すでに彼の言動は臣下の分を大きく超えている。

 貴竜という基準で考えるからこそ、公の正義感は歪んでいるのだ。

 この国は貴竜の国ではなく、人の国なのだから。

「謀叛ですと? 人の王の分際でこの貴竜の王を裁こうとなさるのか」

 ヴィオレッタはコートレイル公の全身の輪郭が歪んだのを見て、はっとした。

 エディアルドとヴァレンティンも気づいたのだろう。

「全員下がれ。この場から逃げるんだ」

 玉座を庇うようにしながら叫ぶ。諸侯たちも慌てて出口に殺到していく。

 まるで部屋の中で竜巻が産まれたようだった。揺らいだ輪郭が部屋全体を覆うように広がる。

 聳えるような巨大な姿が現れた。

 轟音と共に天井を突き破り、現れたそれは、黒い鱗に全身を覆われた生き物だった。

 長大な身体に鋭い牙の並んだ口。背中には大きな翼を持っている。

「竜……」

 ヴィオレッタは壁画でしか見たことのない生き物に目を奪われた。そうだった、旅の途中で貴竜は古代の竜の血筋だと聞かされた。彼らの本来の姿はきっと竜なのだ。

 こういう状況でなければ大喜びしただろう。けれど観察している余裕はない。

 あの巨大な竜はコートレイル公が姿を変えたものだ。あんなものに襲いかかられたら、ひとたまりもない。

 落ちてくる瓦礫から、ヴィオレッタを庇いながら、エディアルドが告げた。

「驚いたか? あれが貴竜本来の姿だ。完全な竜身を取れる者はさほど多くないが」

「……そう……なのですね」

 ヴィオレッタはそれで理解した。貴竜は本質が人間ではないのだ。だからこそその姿が定まらない。

 巨大な竜はエディアルドたちをにらみ据えて、こちらに進んで来ようとする。

「この場でその姿をとるとは、何をやっているのか分かっていないようだな。コートレイル公」

 アルフレッドがそう言って、ヴァレンティンに目を向けた。

「ヴァレンティン、あれを取り押さえよ」

「御心のままに」

 ヴァレンティンが決意した表情で頷いた。ゆっくりと首のメダルを外そうとする。

 彼の周囲の輪郭が揺らいだ。何をするつもりなのか理解したヴィオレッタは思わず叫んだ。

「お止めなさい。竜になってはいけません」

 大きな竜が二体も暴れたら建物が倒壊して被害が大きくなる。それに。

 あの優しい人に父親を手にかけさせるなどできない。

 ヴァレンティンは自分の手のひらを見て呆然とした表情をした。

「レッタ?」

 ヴィオレッタは自分を抱え上げているエディアルドに目を向けた。

「降ろしてくださる? 私、心底頭に来ましたわ」

 エディアルドは小さく頷くと、言われるままに彼女をそっと降ろす。

 ヴィオレッタは巨大な竜の前に足を踏み出した。

「コートレイル公、あなたなど恐ろしくありませんわ」

 そして人差し指を突き出して、怒りのままにまくし立てた。

「大きくなれば偉いわけではなくってよ。人の痛みも苦しみも理解しないような人が偉いわけがありませんもの」

 誰も苦しめたくないから、ヴィオレッタは海を渡ってこの国に嫁いできた。

 一人で国を救うのだと、と気負っていた。それができるとうぬぼれていた。

 けれど、この国での出会いは、そんな彼女に多くのことを教えた。

 自らの力に苦しんでいたエディアルドは、それでも彼女を守ろうとしてくれた。

 父親に逆らってもエディアルドとヴィオレッタに味方をしてくれたヴァレンティン。

 危険を顧みずに、何の見返りも求めずに手を貸してくれたブラッド。

 彼らは一様に人の痛みや苦しみをきちんと受け止める度量を持っていた。誰かのために自分の力を使うことを惜しまなかった。

 なのに、この男は人の苦しみなど、全く理解していない。

「あなたの言っていることは、だだっ子と同じだわ。コートレイル公。自分が偉くなければ嫌、人を押しのけてでも自分が一番になりたい。そんな人恐ろしくありませんわ」

 小さなヴィオレッタが巨大な黒竜を怒鳴る図に、取り残された周囲の貴族たちは呆然としていた。

 竜が牙を向いてヴィオレッタに襲いかかろうとした。大きな口が開いて、とがった牙が向かってくる。

 エディアルドが駆け寄ろうとしたのが見えた。

 紫の瞳で竜を射るようににらみ据えていたヴィオレッタはそれを手で制した。

 自分が『紫の薔薇』かどうかなど、どうでもいい。許せないものは、許せない。

「その姿、あなたにはふさわしくありません。コートレイル公。あなたの度量にふさわしい大きさになるがいいわ」

 怒りを込めたその言葉と同時に変化が起こった。大きな口を開けて飛びかかってきていた巨大な竜がヴィオレッタに覆い被さろうとした瞬間、輪郭を失って急速に萎んでいったのだ。

 何が起こったのか分からない人々の前で、山のような竜の巨体は消え目の前を小さな黒いネズミが一匹這いずっていた。兵士たちがすぐさまそれを捕らえて籠に入れた。

「……レッタ……」

 彼女の隣にエディアルドがへたりと膝を落とした。

「……凄いな君は」

 気の抜けたような言葉に、ヴィオレッタも苦笑した。

「私は言いたいことを言っただけよ。だって私の婚約者の悪口を言うのですもの」

「ならば私も息子の悪口はほどほどにしないと、叱られそうだな」

 笑みを含んだ声で歩み寄ってきたのは皇帝アルフレッドその人だった。

「……あらためて、ヴィオレッタ。我が娘として末永く頼むぞ」

 ヴィオレッタはスカートを摘まんで一礼した。

「どうかよろしくお願いいたします」

 謁見の場は大変なことになってしまったけれど、ヴィオレッタは精一杯優雅にそう答えた。

 天井に大きな穴が空いた大広間には穏やかな日差しが差し込んできていた。

 一瞬の出来事に人々はすっかり今まで何をしていたのかさえ分からない様子で、立ちつくしていた。


 ネズミになったコートレイル公は捕らえられ、彼に味方したヴァレンティンの弟を含めた数人の貴竜も、ヴィオレッタを恐れて大人しく捕まった。

 コートレイル公は罪状を認め、ヴァレンティンに家督を譲りすべての地位を退くこととなった。

「考えてみりゃ、コートレイル公の危惧も当たってはいたわけだ」

「どういうこと?」

 ブラッドはヴィオレッタの護衛という名目で、毎日のように訪ねてきてはのんびりくつろいでいる。

 失脚したコートレイル公の代わりに、独立貴竜軍の司令官という地位についた彼は、最初の任務として数日後に竜軍を率いて東大陸のコローニアへ旅立つ。

「だってそうだろう? 今までコートレイル家は機会があればオルシニア再興など簡単にできると思っていたから威張り散らしてたんだよ。けど、貴竜の皇帝が即位して貴竜の力を抑えられる者がその妃では、完全に頭が上がらなくなるじゃないか。ざまーみろ、だよ」

「それをコートレイル一門の方がおっしゃってもよろしいの?」

 ヴィオレッタは呆れながら訊ねた。

「いいんだよ。今まで貴竜は人より優れているっておごっていた連中も、これで少しは謙虚になるさ」

 婚礼の日は間近に迫っていた。ラウラはディルダウの侍女たちに混じってその準備に忙しく駆け回っている。

「それにしても、レッタ姫の花嫁衣装が見られないのは辛いな。絶対見たかったのに。竜軍の指揮なんぞ、ヴァレンティンにやらせりゃいいのに。大体あいつが一番コローニア通なんだから」

「え?」

 ヴィオレッタが聞きとがめたその時、窓の外で鳥の羽ばたきが聞こえた。ふと見ると、バルコニーに一羽の褐色の鷹がいた。

 ヴィオレッタは目を見開いた。

 忘れようもない、その鷹はコローニアへ皇帝の書状を届けに来ていた使者だった。

 ディルダウに行けば、いつか再会できると思っていた。

 その感動も吹き飛ばすような一言を、ブラッドが告げた。

「よお、お帰り、ヴァレンティン。あっちはどうだった?」

 ブラッドが手をひらひらさせて、鷹に手招きする。

「……ヴァレンティン?」

 ヴィオレッタが訊ねると、鷹は小さく頭を縦に振った。それから、足に結わえた小さな革袋をひょいと差し出す。中には見覚えのある文字の書状が入っていた。しかも数通。

 ヴァレンティンがこの使者の鷹だったのなら、道理で最初からコローニア人の背丈やヴィオレッタの行動に動じなかったはずだ。

「まさか、ここ数日姿がなかったのは……」

「皇帝陛下から、レッタが無事帝都にたどり着いたことを知らせるように命じられたんだ。返事をとっとともらってこないと奥方の出産に間に合わないぞ、と脅されて」

 ……そういう脅迫もあるんだろうか。

「それに、レッタも祖国のことが心配だろうからな」

ヴィオレッタは書状の文字に目を向けた。

「ああ、たしかにお父様の字だわ。それに、こちらはカテリーナとカルロ。私の妹と弟ですわ……ああ、それにこちらは……」

 涙が出そうなくらい嬉しくなった。懐かしい人々の署名を見ただけで。

「よかった。みんな無事なのですね……」

 まだあの国は平和に暮らせている。援軍は竜の姿を取れば二日で東大陸にたどり着くのだという。

「大丈夫だ。国のことはオレに任せておけ。向こう百年くらいはコローニアに手出しできないように脅かしておいてやる」

 ブラッドはにやりと笑う。

 そこへ、先触れもなくエディアルドが現れた。部屋の主のようにくつろいだブラッドに眉をひそめ、それから鷹の姿のヴァレンティンに目を向ける。

「帰っていたのか。早く家に戻った方がいい。コートレイル家から報せがあって、奥方が産気づいたとか」

 ヴィオレッタは、あわてふためいて飛び立つ鷹、というのを初めて見た。

「それと、ブラッド。部下が探していた。司令官がいないと決裁できない書類がもうじき天井に届きそうだとか」

「うげ」

 あまり司令官にふさわしくない返答で、ブラッドはあわてて立ち去った。おそらくは仕事に向かうのではなく、どこかに隠れるために。

 エディアルドはそれから部屋の中に積み上げられた荷物に目を瞠った。絹の布やレースのハンカチ、陶磁器に宝石。

「これはどうしたんだ?」

 ヴィオレッタは苦笑いした。

「結婚のお祝いにいただいたの。いちおう危険なものがないかどうか、ブラッドに見てもらいましたけれど」

 どうやら貴族たちは、ヴィオレッタが人の姿を自在に操れる術者の類だと勘違いしたらしく、すっかりおそれをなして、競うように結婚祝いの品々を送りつけてきたのだ。

「……そうか。まあ、くれるというのなら貰っておくといい」

 エディアルドは婚礼前だというのに、忙しく立ち働いていて、ヴィオレッタの部屋に立ち寄ることがなかなかできなかった。

 エディアルドが静養と称して長く帝都を空けている間に、執務が滞っていたのだ。

「そういえば、私、ずっと言わなくてはいけないと思っていましたの」

 ヴィオレッタはエディアルドに椅子を勧めると、そう告げた。

 エディアルドは何を言われるのか期待するように、青灰色の瞳を見開いた。

「私、愛妾が何人いても気にはしませんわ」

「……はい?」

 エディアルドは訳が分からない、という顔で首を傾げた。

「だって、私では、世継ぎを産めないでしょう?」

 皇位後継者がエディアルドしかいないから、今回の混乱が起きた。だからこそ、世継ぎの問題は深刻だった。けれど、ディルダウ人と体格差のあるヴィオレッタでは、それができるとは思えなかった。

「ああ、そのことか。なんとかなるだろう」

 エディアルドは平然と応えた。

「そんな暢気に構えていていいんですの?」

 悩みを聞き流されたような気分になって、納得が行かない。

「大丈夫だ。父上だってまだ若いのだから、それこそ再婚なさればいい。レッタ一人に世継ぎを要求するのが間違いだと、きっちり言ってある。だから、急ぐ必要などない」

 エディアルドはそう言ってから、ふと何か思いついた顔をする。

「それに、体格差が気になるのなら、いつかのようにレッタが命じてくれればいい。コローニア人になってくれと」

 ヴィオレッタは頬に血が集まってきたような気がした。確かに、鳥にも獣にも姿を変えられるのならば、エディアルドがコローニア人の背丈になることも可能なはずだ。

「……それは思いつきませんでした」

 エディアルドは小さく微笑んでから、何かを思いついたようにヴィオレッタに問いかけてきた。

「だが、そんなに急いで子供が欲しいものなのか? レッタはまだ冒険し足りてないと思っていたんだが」

 世継ぎを急がない、という理由がそれだったとは。

 ヴィオレッタはさすがに頬が熱くなった。

 こんなにまで自分を理解してくれる殿方が今までいただろうか。

 たしかに、まだこの広大なローデリア宮殿でさえ冒険しつくしてはいない。それにこの国の珍しい生き物や植物を見るために隅々まで冒険したいとは思うけれど。

 さすがに結婚を控えた身では口にだすことはできなかった。

「冒険してもよろしいのですか?」

「もちろん、ただし、その時は私も誘ってもらえるか?」

 エディアルドがにこりと笑う。

 冴え冴えとした光を帯びた銀色の髪に縁取られた笑顔に、ヴィオレッタは微笑みを返した。



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