第四章 3
エディアルドはゆっくりと立ち上がると、ヴィオレッタに手を差し伸べた。
ふわりと腕の中に抱え上げられて、ヴィオレッタは困惑した。
「あの……殿下? 私、自分で歩けましてよ?」
「今まで通りキアランでいい。抱え上げていないと顔を見ながら歩けないからな。それにいろいろあって疲れただろう。ここは冷えるから、入るぞ」
彼なりのいたわりなのかもしれない。けれど、肩越しに後ろにいたヴァレンティンとブラッドを見ると、顔を見合わせてにやにやしていた。
ラウラは一瞬唖然としていたが、それ以上何も言わなかった。
宮殿の中は見上げると首が痛くなりそうな高い天井にまで絵画が飾られて、優美な装飾に彩られていた。
エディアルドはむしろ足速に回廊を歩きながら、ぽつりと囁いた。
「元々は、ブラッドがレッタの護衛を引き受けたと聞いたからついて行ったんだ。わざわざ異大陸から嫁いでくるなど、何の狙いがあるのかと思ったから。正直勝手に決められた縁談に反感もあった。ならば見届ければいいと……」
エディアルドはヴィオレッタにそう告げた。
「ブラッドが、私の護衛を?」
少し離れてついてきていたブラッドは大きく頷いた。
「そうそう。皇帝陛下から気が向いたら皇太子の婚約者の護衛をしろって命じられていたんだよね。んで、その途中にディヴォンに寄ったわけ、一応婚約のお祝いっつーか、からかってやろうと思って。そしたら、ついてくるっていうから」
ヴァレンティンが顔を手のひらで覆った。色々言いたいことがあるが、話の腰を折ってもと悩んでいるらしい。
たしかに、ツッコミどころが多すぎて大変だわ。
気が向いたら護衛しろといういい加減な命令もありえないし、一国の皇太子をからかう臣下もありえない。
その上勝手に静養中の皇太子を外に連れ出すなど、言語道断だろう。
ただ、説教とか、苦言とかは、相手に聞く耳があってこそ有効なのだ。
ブラッドは暢気な口調で、相手が呆れ果てているのも気にしている様子はない。
「ま、ヴァレンティンもついてるんだし、たいしたことねーだろと思ってたら、いきなり賊に囲まれて馬車がひっくり返っただろ? あわててレッタ姫だけは助けたんだけど。こりゃやばいところにエディアルドを連れてきたかと思っちまったよ。それに素直に帝都には向かわせてもらえないだろうってことも」
予想外にヴィオレッタを狙う輩は多かった。しかも、彼女の外見などが彼らに知れ渡っていて、まっすぐに帝都に向かうのが難しい状況だとブラッドは考えた。
「別行動してからすぐに部下を招集して、あちこちで派手に偽物の王女様を騙るように命令したんだ。そうすれば追っ手は混乱して動きに統制がとれなくなる。それで二人だけでも帝都に入れればと思ってな」
ヴァレンティンは小さくため息をついた。
「しかし、エディアルドと王女殿下だけでよくまあ……」
「だーいじょーぶだって。エディアルドよりよっぽどしっかり者だよ。この姫さんは」
ヴァレンティンは口をぽかんと開けた。無礼にもほどがありすぎて言葉にならないのだろう。
エディアルドはそう言われても顔色一つ変えずに大きく頷いている。
「客観的に見ても、事実だな。私は火を起こしたり料理をしたり、とっさに大道芸人のまねをしたりはできないから」
エディアルドは苦笑いを浮かべて、別行動の間の出来事を話した。
とりあえずしばらくはおしとやかな姫君を振る舞うはずだったヴィオレッタにとっては、婚約者とその関係者には知られたくない破天荒な出来事の数々だったが。
当の婚約者が同行していたのだから、今更どうにもならない。
話を聞いて、ヴァレンティンとブラッドは怪訝な顔をした。
「何だ? どうかしたのか?」
「いえ、本当にそれだけだったのですか?」
「そうそう。何か隠してないか?」
口々に問われたエディアルドは、確認するようにヴィオレッタに目を向けた。
「別に隠し立てなどしていませんわ」
すると、彼らが打ち合わせていたかのように、そろって大げさにため息をついた。
「オレが甘かった。二人で放っておけば、少しは色っぽい話になるかと思ったんだが」
「叔父上、彼の堅物は今に始まったことではありませんよ」
二人の言いたいことを察したヴィオレッタは頬に一気に血が上った。
エディアルドもそれで理解したらしい。けれど、彼は狼狽えるどころか平然と言った。
「なるわけ無いだろう。私は自分の身分を明かしていない。それではレッタの貞淑を疑っているように聞こえて、不快だぞ」
何も告げずにキアランとして言い寄ることは、彼にとっては不実なことだったのだろう。
……だからカロンにからかわれて落ち込んでいたのかしら。
ヴィオレッタがそう思い出していると、ブラッドがにやりと笑う。
「女性を庇うとは成長したな、エディ坊や」
「何とでも言え」
エディアルドは眉根を寄せて、それからヴィオレッタに目を向けた。
そうして、少しだけ表情を和らげた。
「オレにとってレッタは守らねばならない相手なのだから、当然だろう」
ヴィオレッタはその優しい瞳に、胸が熱く高鳴った。
この人が自分の婚約者だったなんて。
帝都に着いたら自分を押し殺さなくてはならないと思っていたのに、この人なら、ありのままのヴィオレッタをわかってくれる。それが嬉しかった。
ローデリア宮殿は回廊で繋がれた二つの建物からなる。
完全な線対称に設計されたその白亜の宮殿が、薄く雪に覆われた庭園の向こう側に見える。
皇太子の私室がある北宮殿の一角に到着したエディアルドはまず、ずっと軟禁状態だったヴァレンティンの妻アンナを静養させるための部屋を用意するように指示した。
そしてエディアルドとブラッドは中庭に面した部屋にヴィオレッタを案内してくれた。
「この部屋はレッタのために用意させた。好きなようにつかってくれ」
ヴィオレッタは驚いた。
優雅な装飾のついた窓や壁面にではない。その部屋の調度品がヴィオレッタの背丈にふさわしい大きさで揃えられていた。しかも、その装飾は曲線的なディルダウ風ではなく、コローニア風の幾何学紋様があしらわれていた。
エディアルドはゆっくりと丁寧にヴィオレッタの身体を降ろす。
今まで何もかもを見上げてきたヴィオレッタは、まるで故郷に戻ったような感覚に、思わず足を止めた。
ブラッドが身体をかがめてきて教えてくれた。
「ラウラはそりゃあもう頑張ったんだぞ。帝都でレッタ姫をお迎えする支度を万全に調える、と。家具職人やら、大工やらを総動員してこの部屋を改装させたんだ。すげーだろ?」
この国に来てすぐにはぐれた侍女は、ブラッドが帝都に向かう途中で保護したのだという。
ブラッドの部下にローデリア宮殿まで送ってもらって、ここで主君の到着を待っていたのだそうだ。たった一人で彼女も戦ってくれていたのかと思うと、ヴィオレッタは何て自分は恵まれているのかと感激した。
「素晴らしいわ、ラウラ。あなたが無事で本当に良かった」
そう告げると、あまり表情を顔に出さない侍女が頬を染めて泣きそうな顔をした。
「私にできることはこのくらいですから。でも、これからは全力でお仕えさせていただきます」
ラウラはそれから指示を求めるようにエディアルドに振り返った。
「さっそくで悪いが、レッタ。すぐに着替えて準備してくれ。おそらくコートレイル公が動き出す。すぐにでも父上と謁見してこの婚約を認めていただかなくてはならない」
ヴィオレッタは自分のドレスを改めて見つめた。絹のドレスは長旅でぼろぼろになっていて、結わえていた髪も解けて、汚れてしまっている。これでは皇帝に謁見などできるはずもない。
「私とブラッドは父上にレッタの到着を報告してくる」
「コートレイル公は、一体何をなさるおつもりなのですか?」
「おそらく、私が不安定な貴竜だと諸侯に知らせて、皇位継承者から引きずり下ろそうとするだろう。狼と人の姿を行き来するような状態ではたしかに人前に出ることもままならぬからな」
他人事のようにエディアルドはそう答える。おそらくはずっと懸念していた事態なのだろう。彼は自分の姿を制御できなかったのだ。
「……だがもう恐れることはない。私にはレッタがいる」
ヴィオレッタは両手をきつく握りしめた。
「でも、私……」
たしかに、あのときヴィオレッタの目の前で彼の身体の変化が止まった。けれど、あれは本当に自分の力だろうか。
話は聞いたけれど、本当に自分が貴竜の能力に干渉できるとは、まだ自信を持てずにいた。
未知のことや、知らないことは嫌いではない。けれど。
戸惑っていた彼女の頭の中で、冒険家マルティネスの言葉が響いた。
うつむくな、前を見据えろ。
希望は、お前の足下ではなく、進む道にある。
ヴィオレッタはゆっくりと顔を上げた。
「いえ。やれるかぎりのことはいたしますわ。そのためにここに来たのですもの」
「大丈夫だ。レッタ一人に何もかも背負わせる気はない」
エディアルドはヴィオレッタの不安に気づいていたのかも知れない。突然、貴竜との関わりを知らされたのだから。
差し伸べられた大きな手に、ヴィオレッタは手を添えた。
やっと、たどり着いた。
遠く遠く、海を渡って。旅をして。
「私、コートレイル公になど、負けませんわ。コローニア王女の意地を見せてさしあげますわ」
ヴィオレッタは煌めく紫の瞳を、エディアルドにまっすぐに向けた。
「それでこそレッタだ。一緒に奴を驚かせてやろう」
エディアルドは力強く頷くと微笑みを返してくれた。




