第四章 2
馬車の周囲の護衛兵数人はヴァレンティンとブラッドの敵ではなかった。形だけ御者を脅かして、馬車強奪はあっけなく成功した。皇太子専用馬車を呼び止めるような者はなく、そのまま馬車はコートレイル邸を抜け出した。
馬車が大きな通りに出ると、遠く正面に優美な建物が見えてくる。いくつもの尖塔と白亜の壁。広大な庭の向こうに佇むそれはまさしくこの国の主人の住まう場所だった。
それを指差して、ブラッドは告げた。
「レッタ姫。あのでっかいのがローデリア宮殿。皇帝陛下とその一族の住まう場所だ」
それを聞いてヴィオレッタは大きく紫色の瞳を瞠った。
ああ、やっとここまで来た。海を越えて、遠回りをして。これでコローニアとこの国の約束は果たされるだろうか。
ヴァレンティンが感慨深い表情で、ヴィオレッタに微笑みかけた。
「ずいぶんと回り道をさせてしまいましたね。もっと安全にお連れするつもりだったのですが……。私の父が乱暴な手を使ってくるとは予想もしていなくて」
「コートレィル公は私を認めてくださらないのですね。やはり得体の知れない異大陸の者だからでしょうか」
ヴァレンティンは首を横に振る。
「いいえ。父が憎んでいるのはエディアルドの方です。彼は皇帝の血と貴竜の血、そのどちらも持ち合わせて生まれてきたので……」
「貴竜?」
「ええ。先ほどブラッド叔父上が鳥や熊に姿を変えたのをご覧になりましたね? 貴竜というのはいくつかの条件がありますが、基本的にあのように人以外の姿を取る力があります。人と交わることがあっても、人とは異なる種族だったのです」
ヴィオレッタはブラッドの顔を見上げた。そして、それから疑問を抱く。
人の姿から動物に変わることが出来る人を他にも知っている。
そのキアランは自分のことを貴竜だと言ったことはない。呪われていると言っていた。
そしてブラッドが持っているようなメダルを身につけてはいなかった。
「貴竜は古くからオルシニアという国に伝わっていた血脈なのですが、混血が進み数は少なくなる一方でした。そのため百年ほど前から、その定義を厳しくして血筋を守ろうという考えになったようです。つまり、貴竜を名乗るにはコートレイル家に認められなくてはならなくなったのです。直系の貴竜の血が残っているのは、今やコートレイル家だけなのですから、本来はそれで支障はないはずでした」
ヴァレンティンの話は予想外に壮大なものだった。
かつてディルダウ東部に存在したオルシニア王国は、貴竜という特殊な一族が治める国家だった。けれど、貴竜だからといって政治能力が優れているとは限らない。
結局、貴竜同士が王位を巡る争いを繰り広げたため国内は荒れ果て民は疲弊した。
隣国ディルダウの皇帝が送り込んだ兵を民は救世主のように迎え入れたという。
オルシニア王家は東部領主コートレイル家として残った。それはディルダウ帝国が貴竜という存在に一定の敬意を示す形になった。
国王の地位を失ったゆえにか、彼らは貴竜の血筋にますます拘るようになる。
「貴竜といってもその力には個体差があります。中には自分の力を制御できない者や、暴走して周りに危害を与える者も。貴竜の長たるコートレイル公は、そうしたものを処罰する権限も与えられてきました。今まではそれで良かったのです。コートレイル家は貴竜の長という存在価値で、その自尊心を満たすことができていた」
貴竜の血は男系にのみ遺伝し、男子にしか顕れない。それが定説だったので、皇家はコートレイル家の娘を妃に迎え入れてきた。
皇家には貴竜は生まれない、そのはずだった。
「エディアルドが貴竜の力を示したのは十歳のときでした。力が制御できず、周囲も混乱し、皇帝はまず私の父に助力を求めたのです。けれど、父はその協力を拒んだのです」
貴竜として育っていないエディアルドは、当然幼いうちに学ぶべき貴竜の力の制御方法を知らなかったのだ。
けれど、コートレイル公は助力を拒んだ。自ら制御できない者は貴竜ではないと。
「実は、貴竜の力を制御できない者は大半が周囲に貴竜がいない環境で育っていると言われています。子供のうちに制御法を身につけていなければ、大人になるとその力で自滅してしまう。……父はそれがわかっていて故意に協力を拒んだのではないかと私は思っています」
ヴァレンティンは重々しく呟いた。
「何故ですの? 公にとっても甥にあたるのに……」
「甥ではありますが、その前にエディアルドは皇位継承者であり、自分より高い地位にあります。そのうえ貴竜の血まで引いている。彼が子をなせば、皇家に貴竜の血が続くことになる。父は貴竜の長として、自分より地位の高い貴竜の存在を許せなかった」
「まあ、他に威張れることがなかったんだろうさ。もとは一国の王家、それをディルダウに奪われた、とか考えていたりしてな。気位だけは高ぇんだからなー」
ブラッドは肩を竦める。そうした怨念めいた感情を抱いている家柄だからこそ、彼は居着かないのかもしれない。
ブラッドの地位は貴竜のみで編成された独立貴竜軍の第二中隊長。その隊に所属しているのはコートレイル家以外で生まれた貴竜たちばかりなのだという。竜軍の統括をしているのはコートレイル公で、第二中隊の存在を認めていないらしい。
先刻のカロンの口調では、ブラッドの部下たちも見下されているようだった。
「私は幼い頃から何度かエディアルドに会っていますが、彼が貴竜であることは秘密でしたし、その不安定さから宮殿の奥で閉じこめられたような生活を送っていました。このままでは彼は力に潰されてしまって皇位継承すらも危うくなるのは間違いありません」
現在直系で皇位継承権を持つのはエディアルドしかいない。だからこそ皇帝アルフレッドは息子の結婚を急いだ。最悪、エディアルドの血筋だけでも残そうと。
「けれど、あまりに急ぎすぎたせいで、エディアルドは却って追いつめられたのかもしれません。貴竜の力はますます不安定になり、人前に出ることもままならなくなった。そんなときに、あなたの存在を知ったのです」
貴竜という耳慣れない存在の話に聞き入っていたヴィオレッタは戸惑った。
どうして、ここで自分のことが出てくるのだろう。
ブラッドが小さく微笑んで歌を口ずさんだ。
「昔々、王様は、神様と約束をした。知恵をお借りするかわり、一番大切なものを、神様に差し上げる。神様は王様の一番大事な、紫の薔薇を摘んで行った。だから、オルシニアには紫の薔薇はない。紫の薔薇は故郷を遠く遠く離れて、神様の国からこの地を見守る……この国には、こんな歌があるんだが、知っているか?」
ヴィオレッタは頷いた。
初めてこの国で迎えた夜。その歌を聴いた。
故郷を遠く離れて、という歌詞が、とても胸に響いたのを覚えている。
そして、お互いの国の神話についてキアランと語り合ったことがある。
かつて東西の大陸には行き来があって、お互いの知恵をやりとりしていたのかもしれないと。だからこそ、そのお互いを神と呼んでいるのかも知れないと。
オルシニアの紫の薔薇を、神が摘み取って持ち去った。
一方で、紫の薔薇を神から預かったという伝承が、コローニアにはのこっている。
この偶然は一体何を意味しているのか。
「オルシニアの紫の薔薇、それは貴竜の中のある一族のことです。紫瞳の一族とも呼ばれています。彼らは貴竜の中でもっとも力が強く他の貴竜の力に干渉することができました。いわば、貴竜の王とも呼べる存在です。彼らは東大陸に移り住んだと言われています。調べているうちに、その血筋はコローニア王国に繋がっていてコローニアの王家にはたびたび紫の瞳の者がいることがわかりました。しかも今ならばエディアルドと歳格好の合う紫瞳の姫がいる。皇帝陛下は一縷の希望として、あなたをディルダウ皇家にもらい受けることになさったのです。ただの言い伝えかもしれない、それでも何か手を打ちたかったのでしょう。けれど、私の父に知れたらおそらく妨害されるだろうと考えました」
だからこそ、ヴァレンティンは、コートレイル公とヴィオレッタを引き合わせることをしなかったのだろう。
「……まあ、予想通り私の周りに父の息がかかった者がいたのでしょうね。あなたが紫の瞳の持ち主だということが父に知られてしまった。紫の薔薇の血まで皇家に奪われるわけにはいかないと言ってきました。私はそれを無視して逆らっていたので……まあ、閉じ込められていたわけです」
馬車は宮殿の正門を抜け、美しく整備された庭を抜けていく。
……紫の薔薇。
「……確かにコローニアの建国王ガルティエロは紫色の瞳の持ち主だったと伝えられています。けれど、そんな意味があったなんて……」
「当然でしょうね。コローニアには貴竜がいなかったのですから。何故紫の薔薇の一族が海を渡っていったのかはわかりませんが」
ヴィオレッタは自分が皇太子妃に選ばれた理由に心あたりがあった。
自分は、キアランの変化を止めたことがある。そして言葉だけで彼の姿を変えることもできた。
あれは、ただの偶然だったのだと、特別な事象ではないと思っていた。だが、それがもしコローニア王家にたまにあらわれる紫瞳の持ち主の力だとしたら?
キアランはきっと、コートレイル公が認めなかった貴竜の一人なのだろう。
皇太子も彼と同じように苦しんでいるのかも知れない。
皇帝がヴィオレッタを皇太子妃に選んだのは、皇太子を助けたかったからなのだろう。
キアランの時と同じことができるのかどうかはわからないけれど。
必要とされている。それはヴィオレッタにとっては胸が熱くなるほど嬉しいことだった。
「正直、信じられませんわ。私にも、皇太子殿下のお役に立てることがあるのですね」
ヴァレンティンは、ヴィオレッタに微笑んだ。
「そうです。私はずっとあなたがここへ来てくださるのを楽しみにしていました」
馬車が速度を緩める。目の前に壮麗な建物が聳えていた。
ローデリア宮殿。コローニアの王宮よりも複雑な装飾を施された美しい建物。
ヴィオレッタはそれを見上げて、小さく頷いた。
やっとたどり着いた。
馬車が止まり、扉が開けられる。その向こうに大勢の男女が控えているのを見て、ヴィオレッタは戸惑った。
ヴァレンティンは躊躇うことなく馬車から降りて、ヴィオレッタに手を差し伸べた。
「さあ、王女殿下」
ヴィオレッタは頷いた。
宮殿の人々は小さな背丈のヴィオレッタに顔色を変える様子もなく、落ち着いて頭を下げている。
そして、その人々の中に、ひときわ小さな姿を見つけて、ヴィオレッタは声を上げた。
「ラウラ」
あの森の中ではぐれた侍女は、相変わらず冷静な表情で、けれどわずかに頬を染めて主に目を向けた。
「お待ちしておりました。ヴィオレッタ姫様」
「無事だったのね。ラウラ」
手を取り合って再会を喜び合う主従の背後で、のんびりとしたブラッドの声が聞こえてきた。
「ご苦労さん、エディアルド。もう降りていいぞ」
エディアルド?
ヴィオレッタが振り向くと、ブラッドが馬車の御者に話しかけているのが目に入った。
「ずいぶんだな。言われなくても降りさせてもらう」
御者台に座っていた男は不機嫌そうに答えて被っていた鍔の広い黒帽子を取った。
流れるような銀色の髪が肩を伝い落ちる。
青みを帯びた濃灰色の瞳。整ったその顔立ち。ヴィオレッタは息を呑んだ。
「キア……?」
キアランは軽やかに御者台から飛び降りると、流れるように自然な所作でヴィオレッタの前に膝をついた。
それは敬意を示すというより、顔の位置を合わせるために。
「オレの正式な名はエディアルド・キアラン・アリステア・ディルダという。黙っていてすまなかった」
ヴィオレッタは目を見開いた。エディアルド?
よくよく考えてみれば、ブラッドはキアランのことを甥だと言っていた。ブラッドがコートレイル家当主の弟ということならば、皇太子も甥に当たるはずだ。皇太子の母后はコートレイル家の姫だったのだから。
嘘はついてない。たしかに。嘘は何一つなかったのだ。肝心なことを黙っていただけで。
「あなたが……皇太子殿下でしたの?」
まだきちんとすべてが着地できていない状態でヴィオレッタがそう尋ねると、彼は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「そうだ。何なら、殴っても構わないぞ」
さんざん冒険好きのお姫様は変だと言っておいて。外をうろうろ旅をしている皇太子は変じゃないのだろうか。
ヴィオレッタはあまりのことに、言葉が出なかった。
だから、そのままくるりとブラッドに顔を向けた。ブラッドは怒鳴られると思ってかあわてた様子で弁解する。
「オレは嘘ついてないぞ。てっきりエディアルドが事情を話してると思ってたのに」
エディアルド・キアランは何を今更、という落ち着き払った顔で言い返した。
「外でそのことを絶対に話すなと言ったのはブラッドだろう?」
「だってお前、せっかく二人っきりにしてやったのに。何もなかったの?」
どうやらブラッドは、自分がいたらエディアルドが自分の事情をヴィオレッタに話せないと思っていたらしい。当の本人はブラッドとの約束をしっかり遵守して黙っていたのだ。
「待ってください。……二人きりってどういう事なんですか? 叔父上、あなたは一体何をやってたんですか? エディアルドはずっとディヴォンにいたはずでしょう? どこでお二人が会う機会があったんですか?」
ヴァレンティンが険悪な表情で割って入った。どうやらヴァレンティンは、エディアルドが旅をしているのを知らなかったらしい。そういえばヴィオレッタも事情を説明したとき、ブラッドとはぐれたあとで捕らえられたことしか言っていない。もう一人の同行者の存在をちゃんと話していなかった。
自分より一回り長身の相手に掴みかかりそうな勢いで、ヴァレンティンは問いつめた。
「まさか外に連れ出したのは、ブラッド叔父上ではないでしょうね? この大事な時期に何かあったらどうするんですか」
ブラッドは引きつったような笑みで、それでもへらへらと応じる。
「しょうがねえだろ? 本人煮詰まってたし皇帝陛下は勝手に縁談決めちまうし。あんまり追いつめたって、人間の姿を保てるわけじゃないだろ? 一応陛下には事後承諾とってるし」
ヴィオレッタは思わず突っ込みを入れたくなった。
事後承諾って。それは承諾とは言わないだろう。ただの強行だ。
けれど、ブラッドが彼を帝都から連れ出した事情はほとんど嘘は入っていなかった。
エディアルドは人の姿と狼の姿を行き来し、それが自分の意志ではどうにもできない状況にあったのだ。しかも貴竜のメダルを持たない狼では、誤って殺されてしまう可能性もある。だから外に出られなかった。
「ヴァン。あんまりブラッドを怒らないでくれ。悪意があったわけではないのだ」
エディアルドが援護しようとすると、ヴァレンティンは険しい顔をした。
「エディアルドといい、皇帝陛下といい、この男に甘すぎる」
「いやー。末っ子だから甘やかされるのが好きだもんで」
へらへらとした様子のブラッドに、ヴィオレッタは吹き出した。
この男の悲壮感のなさは、いっそすがすがしいほどだ。
周りに控えている女官や侍従たちも全く動じていないあたり、こうしたやりとりは珍しくないのかもしれない。




