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紫の薔薇は海を越えて  作者: 春奈恵
14/18

第四章 1

 ヴィオレッタが目を覚ましたとき、周囲は薄暗く、締め切った部屋の埃の匂いがした。

 自分が閉じ込められているのがまるで小鳥を入れるような籠だと気づいて、納得が行かない気持ちになる。

 確かにヴィオレッタの体格では彼らの牢などでは抜け出してしまえるかもしれないけれど、人扱いされていない気がしたのだ。

 彼女を閉じこめた鳥籠は、薄暗い部屋のテーブルの上に置かれていた。どうやら物置なのかあまり使われていない部屋に見えた。

 室内の調度品を見て、どうやら裕福な身分の館の中だと、ヴィオレッタは見当をつけた。

 壁や窓の周りの装飾などは、余裕がなければ凝ることはない。そうしたものを売り飛ばしたりせずにおいたままにしているのはお金持ちの証拠だろう。

「象眼細工よね、これ」

 テーブルの卓面に描かれた文様を見て、ヴィオレッタは呟いた。木の目や色を利用して文様を描き出す手の込んだ技術だ。コローニアでも職人が少なく、高価なものだった。

 ……問題は、ここが誰の館か、ということだった。

 鳥籠には鍵がかかっているし、どうやらこの部屋は少なくとも一階ではないらしい。窓の外には、木の枝や他の建物が全く見えない。

 どうやら見張りの兵士はいるようで、時々様子を窺いに来た。

 ヴィオレッタは顔を伏せてうずくまって、彼らの方を見ようとはしなかった。

 彼らは大人しくしているヴィオレッタに、すっかり観念したものと思いこんだようだった。

 気は強そうだが所詮お姫様だ、などとヘラヘラと笑いながら去って行った。

 けれど、ヴィオレッタは冷静に状況を見定めようとしていた。

「私を並のお姫様扱いなどしていたら、後悔するってことを教えて差し上げなくてはね」

 ヴィオレッタは見張りの男たちが出ていったあと、ドレスの裾を引き上げて、腰に結わえていた布袋を取りだした。

 ヴァレンティンにこの国で自分が歓迎されていないらしいと聞かされたヴィオレッタは、唯一の荷物だった冒険用装備の入った布袋をドレスのスカートの中に隠すことを思いついたのだ。幸いこちらのドレスは大きく裾が広がっているデザインが多いおかげで、彼女を捕らえた者たちも、この布袋の存在に気づいていない。

 ヴィオレッタは袋の中の装備を確かめて、小さく微笑んだ。

「まだ、負けないわよ。コローニア女の執念を思い知るがいいわ」

 自分がここまで来られたのは、自分一人の力ではない。

 祖国の人々、船乗りたち。

 ヴァレンティンや、ラウラ、そしてブラッドやキアラン。

 恩人を裏切るのは、コローニア人の仁義に反する。

 そして約束通りコローニアへの援軍を送り出さなくては祖国が滅ぼされてしまうかもしれない。

 ここで諦めるなんて。そんなことはできない。

 一人でも戦ってみせる。最後の一手が尽きるまで諦めない。

 それが冒険ってものでしょ? 

 こっそりと鳥籠の中から手を回すと、どうやら壊せない鍵ではなかった。

 ラウラとの冒険ごっこで、敵に捕まったときは鍵を壊してでも逃げ出さなくては、と練習したのが役に立ちそうだ。

 ヴィオレッタは口元に笑みを浮かべた。

 ラウラもブラッドと一緒にいるはずだ。どういう経緯かはわからないが、きっと無事だ。まだ自分は一人っきりになったわけじゃない。


 鍵を壊して出窓によじ登ったところで窓の下を見たヴィオレッタは腕組みをして考え込んだ。

 ……三階? 四階? ……の三倍近くあるわね。

 こちらの人々の背丈で作られている建物は、ヴィオレッタから見れば恐ろしく高さのあるものだった。

 鈎のついたロープはあるけれど、長さが全く足りない。一階ずつバルコニー伝いに降りていくしかない。見たところ予想通り貴族の館らしく、優美に整えられた庭が眼下に広がっている。

 ……コートレイル家は皇家に連なる大貴族らしいから、その邸宅だろうか。

 けれど、コートレイル家の跡取り息子のヴァレンティンは皇太子エディアルドと懇意にしていた様子で、ヴィオレッタにも好意的に接してくれていた。

 あれが嘘だとはヴィオレッタには思えなかった。

 そうなるとコートレイル家は一枚岩ではないということだろうか。

 考えても仕方ない。出窓の鍵を開けて体当たりしてなんとか出られるだけの隙間を確保してから、ヴィオレッタは真下の窓枠との距離を目で測った。


 その部屋は明らかに異様だった。窓の内側には鉄の格子がはめられていて、猫でもないかぎり、ここから逃れ出ることはできない。室内の調度も少ない。

 ヴァレンティン・ディ・ルナーは、傍らに腰掛けた妻をいたわりながらも、心の中では焦りを感じていた。

 この部屋は数代前の当主が、心を病んだ妻を静養させるために作られたものだった。バルコニーに出て、風に当たることもできない部屋。こんなところにずっといては、ますます気鬱になることは間違いないだろう。

 宮殿で皇帝陛下との謁見から戻ろうとした矢先、本邸から身重の妻の容態が悪くなったと使いが来た。そうしたら強引に、この部屋に閉じこめられてしまった。

「あなたお一人なら、ここから出ることはできるのでしょう? 私のことはどうかお気になさらないで。大事なご用があるのでしょう?」

 妻アンナは身重の身体で、ここから連れて逃げ出すような荒事はさせられない。

 しかも、彼らをここに閉じこめた父は、一人で逃げ出したらアンナに何が起ころうと保証しない、と念押ししたのだ。

「……私にそんなことができるわけがないだろう」

 そもそも、自分がエディアルドに縁談を勧めたのだ。彼の窮状を従兄として見過ごせなくて。自分は情に弱くて、何かを犠牲にできない。

 けれど自分が自由ではないこともわかっていた。大貴族の長男であり、多くの部下を率いる立場であり、そして家族もいる。

 だから、こうして絡め取られてしまうと、身動きが取れなくなる。

 こんな時、ブラッドという男が羨ましいと思う。

 あの男はただ一人、何に縛られることもなく生きている。だからこそ、しがらみに身動きがとれない自分と違い、ヴィオレッタ王女に手を差し伸べることができる。

 自分は、守らなくてはならないものが多すぎて、彼女に差し伸べた手を離してしまった。

 今彼女はどうしているのか。自分より遙かに大きな人間たちに囲まれて怖い思いをしていないだろうか。

 妻はそんなヴァレンティンを見て大きく首を横に振った。

「……けれど、私よりも慣れない異国で苦労していらっしゃる王女殿下の方がもっとお辛いはずです。どうか、早くお助けして差し上げて」

「アンナ……」

 ヴァレンティンが妻の手を握った瞬間、外から窓を叩く音がした。

 思わず二人はその方向を見て、そして、そのまま硬直してしまった。

 そこにはロープにぶら下がった小さな少女の姿があった。

「ヴィオレッタ……王女……?」


 その部屋に気づいたのは偶然だった。

 檻の鍵を壊して窓からロープを下げて逃げようとしたヴィオレッタは、格子のついた窓を発見した。そういう部屋は、たいていの場合都合の悪いものを閉じこめている。

 誰が閉じこめられているのだろうと好奇心から覗いて、ヴァレンティンたちを見つけたのだ。

 彼は身重の女性と何やら真剣に話し込んでいる。たしか、奥方がいて、今身重だと言っていたような記憶があった。

 窓の外から呼び掛けると、彼らは驚きを通り越して、すっかり放心してしまっていた。

 窓の格子はヴィオレッタなら難なく通り抜けられたので、あっさりと室内にはいることができた。

 家具を踏み台にしながら絨毯の上に着地すると、ヴァレンティンたちを見上げた。

「珍しいところでお会いしますわね、ヴァレンティン殿」

 驚愕から立ち直ったのはヴァレンティンの方が早かった。

「待って下さい。どうしてここにあなたがいらっしゃるのですか?」

 ヴィオレッタは室内を見回した。窓から外に出たとき、この建物がかなり大きな貴族の屋敷だと見当をつけていた。

「ここって……ここは一体どこですの?」

 ヴァレンティンは、褐色の瞳を大きく見開いて、それから答えた。

「ここはコートレイル公爵家の帝都本邸です」

「ということは、あなたのお家ですね? どうして、このようなお部屋にいらっしゃるの?」

 窓の鉄格子に目をやってからヴィオレッタは訊ねた。

 コートレイルの本邸ということは、ヴァレンティンにとっては実家。けれど、ここは跡取り息子夫婦の寝室とはとても思えない。室内も質素すぎるし、何より鉄格子は要らない。

 ヴァレンティンはヴィオレッタの口調にふっと口元を緩めた。

「じつは、私のやろうとしていることが、父のお気に召さなかったらしくて閉じ込められました」

 ヴィオレッタはそれはおそらく自分の味方をしてくれたことだろう、と察した。

 彼は身重の奥方を盾に取られ、身動きできなくなっていたらしい。

 ここがコートレイル家本邸なら、ヴィオレッタを捕らえたのは本物のコートレイル家の兵士だ。コートレイル家はすべてが味方というわけではないことがこれで確実になった。

「でも、王女殿下。あなたがどうして……」

「私は、帝都に向かう途中でコートレイル家の旗印をつけた兵たちに捕らえられて、ここに来たのです」

 ヴィオレッタはヴァレンティンの表情をじっと観察した。

 ヴァレンティンは愕然としたように、顔を強ばらせた。

「あなたを捕らえた? あなたはブラッド・ウェインと一緒ではなかったのですか?」

「事情があって別行動でしたの。途中までは一緒でしたわ。ディヴォンで合流する予定だったのですけれど。その途中で不覚をとってしまいました」

 詳しい事情は説明しなかった。ヴァレンティンの立場が分からないのだから、下手なことを言って、事態をややこしくしたくない。

 第一、ブラッドがヴィオレッタに関わっていることを、どうして彼が知っているのだろう。ブラッドって……そもそも何者?

「……なんてことだ。あの男がいるなら、大丈夫だろうと思っていたのに」

 ヴァレンティンはそう呟いてから、ヴィオレッタの前に両膝をついて頭を下げた。

「すべて私のせいです。あなたをこのような目に遭わせてしまったのは」

 ヴィオレッタは夫に従って自分も膝を折ろうとした奥方に、その必要はないと告げた。

「私は謝って欲しい訳ではありません。説明していただけませんか? どうして、コートレイル家は私にこのようなことをするのです?」

 ヴァレンティンの話では、コートレイル家は皇太子妃候補にする令嬢がいないから、皇太子妃選定の当事者ではないということだった。

 けれど、ヴィオレッタの行く先々で、彼女の背丈のことを他の貴族たちが知っていたり、賊が知っていたりしたことが、気になっていた。クレンの人々か、ヴァレンティンに従って来ていた彼の部下、そしてコートレイル家くらいしかそのことを知らないはずだった。

 つまり、ヴィオレッタを狙う者に情報が流れていた。

 それは、コートレイル家の者ではないだろうか。ディルダウ屈指の大貴族ともなれば、それに関わる人数も多い。

「……私の認識が甘かったのです。父がそこまであなたとエディアルドの婚姻に反対だとは思わなかった。それほどまでに自らの誇りに拘泥するとは、考えてもみなかった」

 ヴィオレッタは意味を掴みかねた。

 自分の結婚は、コローニアへの軍事援助と国交樹立の交換条件となる、それだけのはずだった。コートレイル家は嫁がせる令嬢がいないのだから、反対する理由が他にあるのだろうか。もし、西大陸の人間の体格差が理由だとしても、用意周到すぎる。それを前もって知っていたとは思えない。まして、それがコートレイル当主の誇りを傷つけることだろうか。

「それでは意味がわかりませんわ」

 ヴィオレッタは正直に答えた。

 不意に窓の外が急に騒がしくなった。ヴィオレッタは助走をつけて、窓際に置いた椅子に上ると、窓枠に足をかけて外を見た。

「……ヴァレンティン殿。白地に青の交差した旗印は、皇家のものでしたわね?」

 一台の馬車が建物の前に停まっている。それにつけられた旗印。

 ヴァレンティンも窓に近づいてきて、ヴィオレッタの背後からそれを見た。

「たしかに。それにあの紋章はエディアルドの馬車だ。乗っているのは誰だ?」

 ヴィオレッタは驚いた。ヴィオレッタには馬車の側面に記された紋章までは見えない。どうしてこれだけ離れていて、それが分かるのか。

 ブラッドといい、このヴァレンティンといい、人並み外れた視力や聴力を持っている。

「ヴァレンティン殿、あなたも『貴竜』ですの?」

 問いかけると、頭上から見下ろす形でヴァレンティンがヴィオレッタを驚いた表情で見つめていた。

「……貴竜のことを誰かにお聞きになったのですか?」

「いいえ、言葉の端々で聞いてはいますけれど、何のことなのかは分かりません。竜のメダルを持っている人とか……獣とか鳥のことですわね?」

 ヴァレンティンは小さく微笑んで、ヴィオレッタの隣に腰を降ろした。

「そうですね。正解ではありませんが、ほぼ当たっています」

 不意に窓の外で鳥の羽ばたきが聞こえた。黒と褐色の翼を持った鶏くらいの鳥。この国では小鳥ということになるのだろう。口に金色のメダルをくわえていた。

 驚愕していると、その鳥は室内に入ってきた。そして、一瞬で輪郭が膨れあがったように広がり、がっしりとした大柄な人の姿を形作る。

 こんな光景を目の前で見たことがある。

 ヴィオレッタはあまりの驚きに身動き一つできずにいた。

 彼の他にこんなことができる人がいたのか。

 けれど、アンナもヴァレンティンも全く驚く様子はなかった。心得ていたかのように、ヴァレンティンが外套を脱ぎ、裸の男に羽織らせながら告げる。

「おいでになると思っていましたよ」

 黒い髪のディルダウ人の中でもひときわ大柄な男は、気さくな笑みを浮かべて、ちらりとヴィオレッタに目をやった。無精ひげがなくなっていたので、印象が違うが、その人物には見覚えがあった。

「遅くなって悪かったな。レッタ姫」

「ブラッド……」

「説明は後だ。エディアルドがコートレイル公の注意を引きつけてくれているから、とりあえずその隙に強行突破だ」

 ヴィオレッタは耳を疑った。

「ブラッド。まさか、皇太子殿下と一緒に?」

「そう。だからその間にここからレッタ姫たちを連れ出すことがオレの仕事」

 ブラッドの言葉が終わるか終わらないかのうちに、ドアの向こうからノックの音が聞こえてきた。三回鳴らしてから一拍置いてまた三回。

「合図だ。いくぞ。ヴァレンティンは女性二人を頼む」

 言葉と同時に、ブラッドの全身の輪郭がゆがむ。一回りさらに大きくなったその姿は、全身が真っ黒な熊だった。

 その姿のまま、扉に突進すると、扉が吹き飛んだ。恐るべき膂力に唖然としていたヴィオレッタに、ヴァレンティンが手を差し伸べた。

「私は大丈夫ですわ。奥方様を守って差し上げて」

 ヴィオレッタは隠し持っていた短剣を握りしめた。そして、ヴァレンティンを見上げる。

「あなたが身重の奥方様を見捨てるような方だったら、軽蔑するところでしたわ。あなたはとても素晴らしい殿方だわ」

 ヴァレンティンは困ったような少し悲しそうな顔をしたが、すぐに微笑んだ。

「そう言って下さるのは光栄です」


 扉の向こうは数人の兵士が倒れ伏していた。そして、すらりとした背の高い金髪の侍女が、陽気にひらひらと手をふっていた。正確には侍女の格好をした見覚えのある人物。

「カロン?」

 ヴィオレッタは思わず声を上げた。宿場町で出会った役者の青年だった。

「あらー? 小さなお姫様、お久しぶりー」

 暢気なことを言っていると、熊の姿のブラッドが怒りを込めたうなり声を上げた。

「分かってるわよぉ。大丈夫、見張りは大半眠らせてきたから」

「まさか、第二中隊を動かしたんですか? 父に知れたら……」

 ヴァレンティンがいぶかしげに訊ねた。カロンは口元に手を当てて、おほほと笑う。そうしていると男性とは思えない。

「何を今更おっしゃいますの? 第二中隊なんて貴竜の風上にも置けないはぐれ者ばかりだからって、正規軍扱いしないのはコートレイル家じゃありませんの? わたしたちはブラッド卿の部下であって、コートレイル家の部下でも皇帝陛下の部下でもありません」

「……?」

 中隊……貴竜……軍? ヴィオレッタが困惑していると、時間が惜しいと言わんばかりに熊のブラッドが頭を振る。

 カロンは手にしていた長剣をヴァレンティンに差し出した。

「これを手にする覚悟はできていますか? お坊ちゃま」

 ヴァレンティンは頷いた。

「私はこの家の長子として、父が間違った方向に家を動かすなら、正す役目がある」

 迷いもなく差し出された剣を掴む。

 彼には覚悟はできていたのだろう。ただ、奥方をここに残していくことも、身重の彼女を連れて荒っぽい手段で逃亡することもできなかったのだ。

 この人は、良くも悪くも、優しい男なのだろう。

 ヴィオレッタはそう思った。

 ヴァレンティンが剣を取ったのが合図だったかのように、巨大な黒い熊は、先頭を切って進み始めた。

 鉢合わせた侍女や使用人が、熊を見て悲鳴を上げて逃げ出したりすることはあったが、ほとんど妨害もなく、彼らは庭まで出ることができた。

 迷う様子もなく、広い邸内を進んでいく大きな熊を見て、ヴィオレッタは不思議に思った。ブラッドという男は何者なのだろう。

 庭に出たところで、ブラッドは人の姿に戻った。カロンが素早く差し出した衣服を纏う。

 それがいつものよれよれになった衣服ではなく、レースをあしらったり豪奢な装飾が施されたものだった。

 姿勢がいいせいか、それが決して浮き上がらず様になっているのが、意外だった。

「どうよ? 似合うだろ?」

「ええ、お似合いです。そうしていると貴公子そのものですわ」

「そりゃ照れるなあ。まあ、久しぶりに実家に帰ってきたわけだから。多少まともな格好しとかないとなー」

 のほほんと言われて、ヴィオレッタは愕然とした。

「実家……?」

 少し離れたところで、妻に付き添っていたヴァレンティンが呆れたように言った。

「一年以上ふらふらしておいてよくそんなこと言えますね、叔父上」

「叔父?」

「ええ、彼は私の父の末の弟です。れっきとした軍人なのですが、職務を部下や私に押しつけて年の大半をあちこち放浪なさっていて所在が分からないという、大変立派な方でして」

 説明するのが、ものすごく嫌そうに見えるのは、気のせいではないだろう。

 ヴィオレッタが説明を求めてブラッドを見上げると、彼は意外そうな顔をした。

「言わなかったっけ? 実家に戻りたくないから、人目につきたくないって」

「……その後半だけをかなり端折ってお聞きしましたわね」

 ……端折るにもほどがあるだろう。

 その言葉を思い出して、ヴィオレッタは顔を上げた。

「ブラッド。キアは……?」

 そっと問いかけると、ブラッドは察していたように、頷いた。

「大丈夫だ。ぴんぴんしてる」

 ヴィオレッタは大きく息を吐き出した。

 キアランは無事だった。あの森で別れてから、どうしているかと思っていた。

「これから、我々は邸の前に停めてある皇太子の馬車を強奪して脱出する」

 ブラッドが明るくとんでもないことを口にした。

 普通、皇帝一族専用の馬車を勝手に強奪などしてはいけない、そのはずだ。この国ではそうではないのだろうか、とヴィオレッタは耳を疑った。

「そんなことをしたら皇太子殿下がお帰りになるときに困るのではなくて?」

「だいじょーぶ。ちゃんと了承済みだから。あいつは徒歩で帰ればいいじゃん。こっちはか弱い姫君と身重の貴婦人と、愛らしい軍人なんだし。元気な若人は歩くべきだろ」

「……」

 愛らしい軍人、って誰? ヴィオレッタは唖然とした。一国の皇太子に徒歩で帰れとは、臣下の言葉とは思えない。

 ヴァレンティンもさすがに呆れ果てた顔をした。

「この男……ホントに畏れを知らないというか……」

「この国には不敬罪というものは、ないんですの?」

 ヴィオレッタの問いに、ヴァレンティンが苦笑いした。

「もちろんありますよ。けれどこの男は陛下に対してもこの口ぶりなんですからね。陛下がそれを一度もお咎めになったことがないのをいいことに……やりたい放題です」

「……皇帝陛下はずいぶんと心の広いお方なのですね」

 ヴァレンティンは複雑な微笑みだけで答えた。破天荒な叔父を持ったために気苦労があるのかもしれない。

「よっしゃ、行くぞ。馬車を強奪したらすぐに合図するから、姫と奥方は後から来てくれ」

 馬車の周囲を窺っていたブラッドがにやりと笑みを浮かべて宣言した。


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