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紫の薔薇は海を越えて  作者: 春奈恵
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第三章 4

 街道の脇にはのどかな畑地が広がり、それらが薄く雪に覆われている。所々にある小さな農家。平穏な田園風景が続いていた。

 二人を乗せた馬がディヴォンに差し掛かろうとするあたりで、キアランが不意に馬の速度を落とした。

 薄く雪を乗せた木立から、空を見上げてしばらく黙り込んだ。

 そして、重い口調でヴィオレッタに告げてきた。

「まずいな」

「え?」

「この先に追っ手が見張っているらしい。気配がする」

 ヴィオレッタは外套の隙間から顔を覗かせた。

 木立の奥に続く街道の向こうには何もいるように見えない。

「ブラッドもそうだったけれど、ディルダウの人はとても目や耳がいいのかしら? 私には何も見えないのに」

 キアランが苦笑いを浮かべた。

「そんなにすごくはない。オレの場合は狼でいた時間が長いから鳥や獣の動向で異変に気づけるだけのことだ。それにブラッドは生粋の貴竜だからオレとは別格だ。耳も目も感覚が並外れている」

「貴竜?」

 ヴィオレッタは聞き慣れない言葉に目を丸くした。どうやら、この国には不思議な力を持つ人々がキアのほかにもいるらしい。

 キアランは馬から下りて、外套を脱ぎ捨てる。

「知らないのか。古代の竜の血を引いている一族と言われている。この先にいる連中の中にもおそらく貴竜がいる。オレが気づくくらいだから、もう、レッタの存在に気づいているはずだ」

 まだ何も見えも聞こえもしないこの状況で? そこまで気づくというのか。

 ……まるで魔法かなにかの手妻だわ……。もう皇太子領はすぐそこなのに。

 ヴィオレッタは背筋が寒くなった。

 そんな恐ろしい能力を持った追っ手にどうすればいいのか。

「……それではキア、あなたは私と一緒にいない方が良いわ」

 彼らが狙っているのはおそらくヴィオレッタの方だろう。おそらく皇太子妃の地位を狙う貴族の誰かが、ヴィオレッタの王都入りを妨害して、不慮の事故で片付けるつもりだ。

 自分はこの大陸に何一つ後ろ盾のない小国の王女。供の者ともはぐれてしまって、身を守る手段もない。

 ……キアランを巻き込む訳には行かない。

「……馬鹿なことを言わないでくれ。こんな所に女の子一人を置いて行くような恥ずかしい真似ができるか」

 キアランはヴィオレッタの身体を外套に包んで、それから真剣な瞳を向けた。

「レッタ。オレに命令してくれ」

「え?」

「一言でいい。『鳥になれ』と」

 ヴィオレッタは意味が分からなかった。どうしてそんな命令が自分にできるのか。

 そもそも、彼は呪いで狼に姿を変えると言っていた。鳥になど変わることができるのか?

「いいから、試すと思って言ってみてくれ。レッタの言葉なら、オレを変えられるんだ」

 キアランの強いまなざしに、頷くしかできなかった。彼には何か確証があるのだろうか。

 自分の言葉にそんな力があるのだろうか。

 けれど、怯んでいるわけにはいかない。このままではキアランも自分も捕らえられて終わりだ。

「……キア。鳥になって……」

 ヴィオレッタがおそるおそる呟くと、キアランの身体が一気に形を変えた。全身が輪郭を失い、白く光を帯びる。

 ふわりと纏っていた衣服が地面に落ち、そして、目の前に大きな翼を拡げた一羽の白い鷲がいる。首にかかった飾り帯で、ヴィオレッタはそれが誰なのか分かった。

「キア……なのね?」

 彼が目の前で姿を変えたのを見たのは初めてだった。

 大鷲の翼には一点の染みもなく、見事に純白だった。

 呪い、だと聞かされた。こんなに、見とれるほど美しい呪いがあるのだろうか。

 衝撃で声が震える。けれど、相手は冷静な目で、彼女を見据えていた。

 時間が惜しいというように、白い鷲は外套に包んだヴィオレッタを両脚で掴もうとした。

「待って。キア。服を持っていかないと、あなたが後で困るでしょう?」

 ヴィオレッタがあわてて落ちた衣服をまとめて外套の中に押し込む間、白鷲は苦笑いを浮かべるかのように、灰色の目を細めていた。


 空を飛びたいと思ったことはあったけれど、それが叶うとは思わなかった。

 外套の裾を白鷲の両脚に結んで、ヴィオレッタは空へ高く持ち上げられた。

 キアランが狼以外の姿を取るとは思いもしなかったし、なぜ自分がそれを命じることができたのかも分からない。けれど、鳥や獣の時は、会話をすることができないらしく、キアランは何も説明してくれなかった。

 見下ろした木立の間に数頭の馬と人影を見つけて、ヴィオレッタはその言葉が正しかったことを知った。

 彼らの中に弓をこちらに向けている者を見つけて、ヴィオレッタはキアランに警告した。

「見つかったわ。こちらを見ている」

 鎖帷子を纏った、すらりとした長身と黒い髪の男。

 その男に見覚えがあるような気がして、ヴィオレッタは目をこらそうとした。

 白鷲が敵の姿を認めたのか力強く羽ばたき、速度を増そうとした。その瞬間。

 風を切るような鋭い音がして、ヴィオレッタの目の前に赤い飛沫が落ちてきた。

 ふらりと左右に傾く感覚。

「キア?」

 矢で射られたのだと気づいて、ヴィオレッタが呼びかけると、がくりと高度が落ち始めた。

 懸命に羽ばたこうとするのだが、思うように動かせないらしい。このまま森を抜けるまで飛ぶことは難しいように思えた。

「キア。無理をしないで、どこかに降りましょう」

 すでに木立を抜けて、真下に開けた雪原が見えた。吹き溜まりのように雪が厚く集まっている。

「あそこに降りて」

 そこまでの制御ができるのかも分からなかったが、理解したかのように、鷲はその雪原に向かって降下した。

 幸いそこは雪が盛り上がっていて、落ちるように降下したヴィオレッタは無傷だった。けれど、鷲は翼に損傷を負ったらしく、だらりと翼を伸ばしたまま、苦しげに雪の中に半身を埋めたまま動かなかった。

 ヴィオレッタは髪に結わえたリボンで傷口を押さえると、周囲を見回した。

「副え木になるものが必要ね。すぐに探してくるから」

 走り出した彼女を止めようとするかのように、鷲の姿のキアランが鋭い声を上げた。

「大丈夫。待っていて、すぐ戻るわ」

 ヴィオレッタは雪に足を取られながら、歩き続けた。

 これだけ木があるのなら、副え木はすぐ見つかる、と思っていたのだ。

 しばらく進むと雪の上に枯れ枝が数本落ちていた。

 中でも一番まっすぐに伸びた一本を見つけて足を止めて、拾い上げようとした。

 一瞬、身を屈めた彼女の真上を、大きな黒い影が横切った。

「え?」

 影が動いた方向に目を向けると、巨大な真っ黒な狼がそこにいた。

 獰猛なまなざしをこちらに向けて。

 その狼の首に金色のメダルが光っているのを見て、ヴィオレッタは目を瞠った。

 あのメダルの意味は何なのだろう。

 コローニアにやってきた鷹とブラッドの首に掛かっていたあのメダル。

 けれど、一つだけ漠然と考えていた。それをつけているのが、「貴竜」と呼ばれる存在だと。

 狼はゆっくりと獲物を追いつめるようにヴィオレッタに歩み寄ってくる。

 ヴィオレッタは後ずさりしながらも、方向を確かめようとした。

 キアランが倒れていた場所から、ここは見えない。怪我をしている彼をこの狼と対峙させるわけにはいかない。

 鳥と狼では勝負にならない。こんなことなら、彼をせめて狼の姿にしておくのだった。

 ……逃げるなら、別の方向しかない。

 ヴィオレッタは間合いを測りながら、腰に結わえた布袋に手を入れた。

 相手は一頭。他にも兵士が周りにいるかも知れない。さっきの弓を構えていた男も。

 けれど、彼らはヴィオレッタを当たり前の姫君だと思っているはずだ。

 ヴィオレッタは右手に握りしめていた小枝を狼めがけて投げつけた。

 それが合図のように、狼はひらりと身をかわすと、そのままヴィオレッタに飛びかかろうとした。

 ヴィオレッタはもう片方の手に持っていた小瓶の中身を狼の鼻先めがけて振りまいた。

 とたんに相手が悲鳴のような鳴き声を上げて、飛び退いた。

 ヴィオレッタはその隙をついて、走り出した。

 獣よけに作っていた強烈な匂いの薬品だ。鼻の利く獣ほど苦しむはめになる。

 とにかく、キアランとは逆の方向に逃げなければ。ヴィオレッタは懸命に走った。

 隙をついたと言っても、そう長くは持たない。彼女の背丈よりも大きな狼ならば、足も速いだろう。

 浅く積もった雪が彼女の足を鈍らせる。

 なんで自分はこんなに小さいのだろう。この大陸の者たちからすれば、自分など非力で一ひねりできるちっぽけな生き物にすぎない。

 あの狼に噛まれたらあっさりと首を折られてしまうだろう。

 だけど、キアランから離れないと。彼が無事なら皇太子領にいるはずのブラッドがいつか彼を助けてくれる。ブラッドに離れていても存在がわかるという特殊な力があるのなら、この事態にもきづいてくれるはずだ。

 倒木をくぐり、懸命に距離を取ろうとして、目の前に気配を感じて足を止めた。

 その正面に数人の兵士たちが立ちふさがっていた。

 追い込まれた。

 最初から狼のねらいは、彼女を味方が囲んでいる場所に追い込むことだったのだ。

「いたぞ。こっちだ」

 取り囲むように周りに集まってくる。

 手に手に剣を構えて、どう見ても彼女を保護しに来たとは思えない出で立ちで。

 逃げられない。巨大な影が覆い被さってくるようで、ヴィオレッタは初めてディルダウの人間を恐ろしいと思った。

 今まで怖くないと思っていたのは、相手が味方だからだ。

 敵として対峙したことなどなかった。

 彼らの膝にも満たない自分は、まったくの非力だ。

「ヴィオレッタ王女殿下。大人しく我らと来ていただけるなら、危害は与えない」

 男の声が、遙か頭上から聞こえてきた。片手にむき出しの刃を持って、そんなことを言う輩を信じるヴィオレッタではなかった。

「無礼な。それならばまず剣を収めるべきでしょう」

 ヴィオレッタは顔を上げた。彼らは取るべき礼も取らず、この国の皇太子に嫁ぐ王女を捕らえようとしている。

 しかも、彼らが身につけている黄色と緑の旗印には見覚えがあった。

「それに、私、不忠者も嫌いですわ。いつからコートレイル家は皇帝陛下に弓引く真似をなさるようになったのです?」

 男たちが、その言葉に息を呑んだ。

 先刻、弓を構えていた男に見覚えがある気がしたのは、そのせいだろう。

 彼らはヴァレンティンと同じ紋章を身に付けていたのだ。

 どうして皇家の姻戚であるコートレイル家に縁の者が、皇太子妃となるヴィオレッタに弓を向けるのか。

 ……コートレイル家も味方ではないというのだろうか。

 では、ヴァレンティンも?

 けれど、そうしたことを考えている余裕もなさそうだった。

「……仕方ない。あなたは賢すぎるようだ。しばし眠っていていただこう」

 兵士の中で一番年嵩の男がヴィオレッタに手を伸ばしてきた。

 乱暴に腕を掴まれて、引きずられるように引き寄せられた。

「放しなさい、無礼者」

 ヴィオレッタは頭の片隅で、雪の中に倒れていた白い鷲を思い浮かべた。

 もう、逃げられないのか。怪我をした彼を放っておいて。祖国を救うことも何もできないまま。

そのまま両手首を拘束されて、鳥かごのような檻に押し込められる。ヴィオレッタは相手をにらみ据えた。

「私をどうするつもりです?」

「抵抗なさらなければ、何も手荒なことはしない」

 ヴィオレッタは眉根を寄せた。殺すつもりはない? コートレイル公がもし、皇太子の結婚を妨害するつもりなら、ヴィオレッタを殺すだろう。生かしておく必要など無い。

 男が布をヴィオレッタの口元に近づける。それが眠らせる薬の匂いだと気づいたが、小さな檻の中に入れられていたのでは逃れようはなかった。

 意識が遠のく一瞬、頭の中を銀狼のキアランの姿がよぎった気がした。

 せめて、彼が無事ならば、このことを誰かに伝えられるだろうか。

 ヴィオレッタの意識は、そのまま闇の中に墜ちていった。


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