第三章 3
久しぶりに火の番が必要なく眠れるというのに、ヴィオレッタはすぐに眠れなかった。
同じように寝付けないのか、寝返りを繰り返していたキアランが、不意にぽつりと呟いた。
「レッタ。起きているんだろう? さっきカロンが渡していた紙切れは何だったんだ?」
「『再びまみえるまで、紫の薔薇を弓手に』とだけ。これはおそらくラウラの……私の侍女の書いたものよ」
ラウラが無事でいる。それだけでもヴィオレッタは心が軽くなった。どういう経緯かブラッドはラウラと出会ったらしい。
「何だ、それは? 意味が分からない」
キアランは困惑した様子で問い返してきた。
知らなくても無理はない。西大陸の人々には意味が分からないだろう。ヴィオレッタはそう思って小さく微笑んだ。
「コローニアの神話の物語にある言葉よ。古代、人は天をつく巨人の姿をした神オルシアニから数々の英知を授かった。神はやがて神の国に帰らなくてはならなくなった。その時、最後に紫の薔薇を託したとか。人々はオルシアニに授かった英知を忘れないということをその薔薇を手に誓った。その時の神との最後の約束の言葉がこれなの。紫の薔薇はコローニアの王家の紋章でもあるし」
黙って聞いていたキアランが、ぽつりとそこで呟いた。
「なるほど。……それにしても、まるっきり反対なんだな」
「え?」
反対、というのはどういう意味なのだろう。ヴィオレッタは身を起こしてキアランの声のする方を見た。
「母が教えてくれた昔話では、昔人々が戦を繰り返していたときに、手のひらに載るほどの小さな人の姿をした神が現れて、人々に平和に生きるための知恵を授けたという。その言い伝えのからすると大昔、もしかしたら東大陸と西大陸は行き来があったのかもしれないな。そのことが後々に伝わって残っているのかもしれない」
「そう……ですの?」
「オレの母は東部出身だ。東大陸に通じる大海に接したそこは、かつてディルダウではなく、別の国が存在した。オルシニアという。レッタの国の神様と名前が似ている。それと、こちらの神の名は、コロンナと言う。コローニアと似ていると思わないか?」
ヴィオレッタは思わず大きく頷いた。
かつて大陸には行き来があって、互いの知識をやりとりしていたのかもしれない。
そして、そのころの出来事が、後に神話の元となったのかもしれない。
「コロンナというのは、コローニアの古名だわ。凄い。大発見だわ。私、この国とコローニアの言葉がほとんど同じだということに気づいていたのに、そんなこと考えてみなかった」
今ここに紙とペンがあったら、そのことを書き留めておくのに。
こんな凄い発見なら、祖国の学者たちが大喜びするのに。
思わず興奮してしまったヴィオレッタに、キアランは吹き出した。
「今どんな顔をしているか、見当がつくな。全く、冒険好きの姫君なんて、初めてだ」
「あら、他の姫君ならご存じなのかしら?」
ヴィオレッタが皮肉混じりに問い返すと、キアランは困惑したように言いよどむ。
「いや、そうじゃない。貴族の姫君はお人形のように大人しく教育されるって聞いていたから、意外だったんだ。それとも、レッタの国には、冒険好きのお姫様が大勢いるのか?」
ヴィオレッタは苦笑した。
「残念ね。あいにく私一人だけ。紫の瞳に生まれる者は変わり者が多いという言い伝えがあるので、周りは好きにさせてくれたのだけれど」
二年前亡くなった大叔母も紫の瞳の持ち主だった。彼女の名もヴィオレッタで、小さなヴィオレッタが生まれてからは「大レッタ」と呼ばれていた。男勝りで学問に秀でた彼女は偉大な足跡を残している。
「……そうか。それじゃ、コローニアは大損したな」
「あら、なぜ?」
「そんな国宝級の姫君を外国に出すんだから」
からかうような口調だが、ヴィオレッタは腹が立たなかった。
ブラッドやキアランはヴィオレッタ自身の気性を理解して、認めてくれている。この先、帝都や宮殿に行けば、そうした人ばかりではなくなるのだ。
ディルダウに着いてからのそうした出会いは、ささやかな冒険ではあったけれど、自分にとっては最初で最後の冒険になるかもしれない。
「……レッタ?」
困惑したような声がした。
「気を悪くしたのか?」
「いいえ。……ただ。私はもうじき、普通の姫君になるしかないのかもしれないわ。あなたの言う、お人形のような」
おしとやかに振る舞う自信はある。けれど、それを一生涯続けるのは、まるで牢獄に入れられるような気がした。
「そんな我慢ができるような性格なのか? 我慢しすぎると、気鬱になって、夫をぶん殴ったりするんじゃないだろうな?」
闇の中で、キアランが笑っているのがわかった。彼はヴィオレッタに叩かれた経験があるのだ。しかも、一度ではない。
「まあ、ずいぶんね。そんな下品な真似はしないわ。我慢しなくても、大人しくすることはできるもの」
「へえ?」
「あら、信じられなくて? 私、これでも国外ではおしとやかな姫君で通っていたの。求婚者も数え切れないほど」
そこまで言ってから、ヴィオレッタは思い出していた。その求婚者のほとんどが近隣国の貴公子で、今は生死が分からない状態だ。
心の中に重いものが沈んでいる。いくら明るく笑っても、ふと、その存在に心が向いてしまう。
祖国に近づく新興国家の脅威。それは彼女の中でずっと消えることがない。
それに気づくたびに、自分の心はまだコローニアと繋がっていると感じる。
「ごめんなさい、キアラン。私、もう休みます」
ヴィオレッタはそう答えるのが精一杯だった。
自分は何のためにディルダウに来たのか。
祖国のためだ。だからこそ、自分の将来のことなど考えなくていい。
なのに、ヴァレンティンといいキアランたちといい、ヴィオレッタの性格を認めてくれる人がこの国にいると知って、期待を抱いてしまった。
きっと、ローデリア宮殿はそんな甘い場所ではない。
覚悟が足りない。
ヴィオレッタは目を伏せた。
しっかりしなければ。祖国を助けることが、自分の役割なのだから。
翌朝、キアランとヴィオレッタは街道を北に出発した。
「ブラッドは皇太子直轄領のディヴォンの街にいるらしい。白鳥城はディヴォン城の別称だ。皇太子が所領に滞在中で、警備の兵も増えているから、賊の入り込む余地は少ないだろう。好都合だ」
ヴィオレッタを外套の内に隠すようにして、キアランは馬を走らせた。
「皇太子殿下が……?」
キアランの言葉に、ヴィオレッタはどきりとした。
エディアルド皇太子。ようやく、その人物に会うことができる。
今までヴィオレッタは、全く意識していなかったのだ。彼女にとっては皇太子の夫になることよりも、祖国のことが中心だったから。
「何だ? どうかしたのか?」
「私、あまりよい婚約者とは言えないわね。皇太子殿下に何をして差し上げるかなんて、全く考えていなかったわ。皇太子殿下のお人柄やご趣味について、何一つ関心を持たなかったのですもの」
これでは、皇太子妃という地位をねらって押しかけてきた貴族の令嬢たちとどこが違うというのだろうか。
キアランは、そんなことか、と、こともなげに答える。
「そんなことは、お互い様だろう。これから知ればいいことだ。いずれは分かることだ。レッタが冒険好きでとても勇敢だということも」
「……それはあまり知っていただきたくないことね」
ヴィオレッタが憮然とすると、キアランが声を上げて笑った。
「大丈夫だ。レッタを嫌うような男はそういない」
その言葉に、ヴィオレッタは胸の鼓動が大きくなった。
同時に、自分が誰を意識してきたのか気づかされた。
「……本当に、婚約者失格ですわ……」
小さなつぶやきは、キアランには幸い届かなかったらしい。




