第三章 2
魔物退治のお触れから、人を避けるようにして馬を進めてきたヴィオレッタとキアランは、マローネ侯爵領エルシダの北部にさしかかっていた。明日にもマローネ候の領地から出ることができるという。
「ここから北に抜けて皇太子直轄領に入って、レイナン・ディルディを目指すのが一番安全だろう。さすがに皇太子直轄領であんなふざけたお触れは回っていないだろう」
とキアランが告げた。
皇太子直轄領。それを聞いてもヴィオレッタはあまり心が浮き立たなかった。
国のため、と思ってここまで来たけれど、自分は相手のエディアルド皇太子のことを何一つ知らないのだ。
あのヴァレンティンの従弟に当たるということしか。
たった一人、ここまで来たヴィオレッタに救いの手を差し伸べてくれるだろうか。
人形のように小さなヴィオレッタを見て、一体どう思うだろうか。
「……何か、お祝いごとかな?」
町に入る前に、キアランはヴィオレッタを外套の中に隠すようにして、片手で抱えていた。身体をキアランの胸板に寄りかからせる格好になって、直接体温が感じられる。
その暖かさに自分はいつまでも甘えていていいのだろうか、とヴィオレッタは思う。
「好都合だな。騒ぎに乗じて入り込めそうだ」
たどり着いた宿場町は夕闇が迫ろうとしているのに、なにやらにぎやかに人々が騒いでいるのだとキアランが告げた。通りで酒を飲んでいる輩もいる。
けれど、祭りなどで人が集まっている訳でもなく、宿も希望通り一部屋借りる事ができた。
キアランが宿の主人にさりげなくにぎわっている理由を尋ねると、彼らが予想もしなかった答えが返ってきた。
「皇太子殿下の婚約者のヴィオレッタ王女様が、この先の高級宿にご滞在中なんだよ」
キアランが驚いているのが、脈拍が速まったことでわかる。外套の中に隠れていたヴィオレッタも声を上げそうになって、あわてて手で口を塞いだ。
「そりゃすごい。……さぞやお美しい方なんだろうね」
キアランがそう言って水を向けると、話し好きらしい宿の主人は得意げに話し始めた。
昨日、突然従者を連れたお姫様がやってきたのだという。金髪の美しい姫君で、身のこなしも立派だったと。ただ。
「小柄かって? まあ、普通の背丈だと思うがね。私もちらっと見ただけなんだが。皇太子殿下は体調がよろしくなくて領地の城に籠もっているとか、暗い話ばっかりだったんで、ご婚約と聞いてみんな喜んでいるんだよ」
キアランが心付けに主人の手に金を握らせたせいか、上機嫌で主人は下がっていった。
「……偽物か」
キアランは部屋の扉に鍵をかけてから、外套を脱いでヴィオレッタを寝台の上に降ろした。一人分の寝台と小さなテーブルと椅子があるだけの質素な部屋だった。
「確かに皇太子の婚約については国中に触れが回っているから、ほとんどの者が知っているだろうが、それに便乗して偽物が出てくるとはな」
「……その人たちに何もなければいいのですけど」
ヴィオレッタは呟いた。
ヴィオレッタを害しようとしている者たちが、すべてヴィオレッタの背丈のことや、外見を知っているとは限らない。紛らわしいからとそうした偽物まで排除してしまいかねない。
「偽物の心配か? 結構お人好しだな」
言いながらキアランが不意に窓の外に顔を向けた。カーテンの隙間から外を窺う。
「どうやら、おいでなさったようだ」
「え?」
「マローネ家の馬車だ。兵も連れている。名目は王女殿下にご挨拶、ということだろうが、その実偽物だったら、その場で捕らえるってことだろう。自業自得だな」
ヴィオレッタはため息をついた。
「よりによって私などに化けるからですわ。なにしろヴァレンティン殿のお話では、今一番命を狙われている王女のようですもの。皇太子殿下は一体何人のご令嬢をお断りになったのかしら。八つ当たりされているようで、納得行かないのですけれど」
それを聞いて、キアランが小さく吹き出した。彼もまた皇太子妃選びの騒動のことを知っているらしい。
「会ったら一番に言ってやるといい。『あなたのおかげでひどい目に遭いました。責任とって下さい』ってな」
「それはいい考えね。夫婦仲は最初が肝心だって、何かで聞いたわ」
ヴィオレッタは笑った。
キアランはしばらく狼の姿に戻ることがなかったせいか、ひねくれた言動が少なくなった。それどころか、ヴィオレッタが沈んでいると、こうして笑わせようとしてくれる。
食事を運んできた宿の女主人が、マローネ家の馬車の話を聞かせてくれた。
「あの王女様、偽物だったらしいんだよ。侯爵様からのお迎えに、さっさと部屋から逃げ出していたんだそうだ。けど、ちゃんと宿代は支払って行ったっていうから、カタリにしちゃ真面目だねえ」
一見貴公子のようなキアランの美貌に口が軽くなったのか、彼女はあれこれと話して聞かせてくれた。
キアランも情報を得るためにか長話に辛抱強く付き合っていたが、彼女が部屋を出ると、ぐったりとテーブルに顔を埋めた。
「女ってな、なんでああも大量にしゃべれるんだ」
寝台の下に隠れていたヴィオレッタは苦笑した。
「そんなことを言っていたら、女性にもてないわよ」
「……なるほど、女性にもてるってのは、忍耐が必要なわけだ」
キアランは顔を上げて、ヴィオレッタをテーブルの上に座らせた。食事のパンを小さくちぎって手渡す。
「慣れないことをして疲れたから食欲が失せた。全部食べていい」
「キア……」
キアランが口元に笑みを浮かべて、ヴィオレッタを見ていた。
「レッタの話は聞いていてもここまで疲れないんだけどな」
ってことは、多少は疲れるっていいたいのだろうか。
少しは見直してあげていたのに、やはり失礼な男だ。
ヴィオレッタは黙ってパンを口に放り込んだ。けれど、結局食べ切れなかったので、包んで取っておくことにした。
不意に窓を叩く音がした。
「ここって、二階よね?」
キアランが頷いて寝台の下を指さした。
ヴィオレッタがそこに隠れると、キアランが窓に近づいた。窓の止め金を外す音がした。
すると、何者かがとても二階とは思えない身軽さで室内に飛び込んできた。
「いやっほー、キア坊。久しぶりー。元気だった?」
軽い口調の、どうやら若い男のようだった。キアランが意外そうな声を上げる。
「カロン? 何でここに?」
「ブラッドにたのまれちゃって」
一体、誰? ヴィオレッタはそろそろと寝台の下から顔を覗かせた。
「あら。ホンモノのお姫様? ホントに可愛いじゃない」
相手がそれを読んでいたように、ヴィオレッタの前に駆け寄ってきた。
キラキラと神々しい印象のある、巻き毛の金髪の若い男だった。キアランよりも頭一つ背が低い。柔和な顔立ちで華奢な身体に剣を下げている。真冬に襟元をはだけたようなきわどい衣服を纏っていて、その首にブラッドと同じ金のメダルを下げている。
立ち上がったヴィオレッタの前に両膝をつくと、深く一礼する。
「初めてお目にかかります。ヴィオレッタ王女殿下。私はカロン・ニコラス。ブラッドから事情を伺いました」
急に真面目な口調になった相手に、ヴィオレッタは訳が分からなくて混乱した。
このくるくると印象の変わる男は何なのだろう。まるで忙しい道化師のようだ。
キアランが冷淡な口調でヴィオレッタに告げた。
「……レッタ。多分、ニセ王女はこの男だ」
「いやーん。ばれてたの?」
不意にカロンは女言葉になって相好を崩す。ヴィオレッタは耳を疑った。
「え? この人が?」
線は細いが明らかに男性だ。信じられない。
「だーかーらー。ブラッドにたのまれたの。だから劇団員を連れて一芝居打ってたってわけ。ちなみに劇団員で手分けしてやってるから、今、ヴィオレッタ姫は五人くらいいるはずよ」
キアランが頭を押さえている。
「カロンの本業はローデリア宮にも出入りしている劇団の役者だ。女装なんてお手の物だろう。けど、マローネ侯爵はレッタの背丈のことを知っているぞ」
カロンはにこにこと笑いながら頷く。
「そうそう。最初っから成敗ーって感じで来てた。だからさっさと撤収を決め込んだってわけ。あ、それから……」
カロンはヴィオレッタの前に来て、かがみ込むようにして小さく折った紙片を手渡す。
「これはあなたに」
ヴィオレッタはその紙片に書かれた文字に、息を呑んだ。
「じゃあ、私はこれで。……ちなみに、ブラッドからの伝言は『白鳥城にいるから、さっさと来い』と、もう一つ」
相手の嬉しそうな表情から、ろくな事ではないと察したキアランが嫌そうに顔を向けた。
「姫君と二人っきりだからって、変なことするんじゃないよ、だって」
キアランが言葉を詰まらせた。ヴィオレッタから彼の表情は見えなかったけれど、ヴィオレッタも思わず頬が熱くなった。
変なことになるわけないじゃない。
今まで思いも寄らなかったが、貴婦人が若い男と一部屋で一緒にいるというのは、あまりにはしたない。というより、今までずっと二人きりだったのだ。
ラウラあたりが聞いたら、無表情でお説教してくれそうだ。
ヴィオレッタにすれば、自分とキアランほど体格差があっては、そういうことはありえない、と頭から思いこんでいたのだ。
キアランが言い返そうとするより前に、カロンはひらりと窓から外に出て行った。
役者というより軽業師のようだ、とヴィオレッタは思った。
けれど。
あんなことを言うから、何だか気まずい。
キアランは寒風が入ってこないように窓を閉めて、そのままヴィオレッタに背を向けて黙り込んでいた。
「キア?」
「……オレって、そんなことするように見えるのか?」
何だか本気で落ち込んでいる様子で、ヴィオレッタは気の毒になった。
それに、キアランはそうしたことに生真面目な性格らしい。今までも女性を目で追ったり、性的な話題を口にするのを見たことはない。
こちらの宗教が恋愛や性的なことに厳格、というほどでもないらしいことは、ブラッドの口調からでも察することはできる。どちらかといえば、こちらの人々は恋愛沙汰におおらかな印象を受けていた。
「レッタ。何なら、オレは外で寝ようか?」
「凍えてしまうわ。それに、今更そんなことする必要ないでしょ? キアがそうした人ではないってこと、私は知っているもの」
ヴィオレッタの言葉に、キアランはやっと振り向いた。
「そうだよな。そんなことを考えるブラッドの方がおかしいんだ」
真顔でそう言われて、ヴィオレッタは思わず頷きながら、内心思った。
いや、普通男女が一緒にいたら、勘ぐられてもしかたないのが、現実だけど。
世の中には奔放な恋愛を楽しむ人は数多くいるのだけれど。
キアランにはキアランの基準があるらしい。
結局、二人は寝台を譲り合って、キアランは床に、ヴィオレッタは木箱に毛布を敷いてそれぞれ眠ることにした。




