神はいない
朝が来て私は目を開けた。私の身体の中で唯一動く瞳を動かして、何もない灰色の天井を見続ける一日がまた始まる。
瞳以外は指すらもまともに動かなくなった身体、口も動かず赤ん坊の様な喃語しか喋れなくなった。もはや人間ではなく生きている人形の様な有様だ。これで頭も呆けてしまえばよかったのだが、なんたる不幸か、これだけ身体が衰えても頭は衰えなかったのだ。なんという生き地獄であろうか。
それでも、この様になった最初の頃はまだ楽しかった。友人知人がしょっちゅう会いに来てくれて、くだらない話しをいくらでも聞かせてくれた。部下も連日見舞いに来て、世界の状況や困窮者に孤児の支援活動の様子を聞かせてくれた。
だが、友人も知人も、時が経つにつれて来る回数が減っていき、今では来ることがなくなった。部下も同じだ。私の耳が聞こえてないとでも思ったのか、「新しいリーダーの人が見つかってよかった」などど笑いながら言っていた。
私はとっくに用済みなのだ。誰からも必要とされていない、ただ偉大な人だからという理由で延命措置を施されているだけの、生かされているだけの存在だ。
もし私が喋れるのなら、「殺してくれ」と願うだろう。いや、仮に喋れたとしても私にそれを言う資格などありはしない。散々他人に「死なずに頑張りなさい」や「生きていれば良い事がある」と言い散らしてきた私が、今更どの面を下げて「殺してくれ」と言えるのか。
大体、人間は誰しも表面上は善人だ。私がそんな事を言ったらきっと「なんてこと言うんですか」とか「あなたが死んだら悲しむ人が沢山いるんですよ」と言うに決まっている。
確かに私が死んだら悲しむ人は沢山いるかもしれない。だか、それ以上に私はこんな状態で生きているのにもう疲れたんだ。せめて顎が動けば、舌を噛んで自殺できたのに、つくづく神というのは残酷なお人だ。
・・・・・・神か。支援活動の為に多くの国に行ったことがあるが、困窮者や戦争の避難民たちは、多くの人が神に祈りを捧げていた。どれだけ悲惨な状況下であってもだ。その敬虔な信仰には関心もし、若干呆れもしたものだ。
信じる者は救われる、善人は報われると信じて祈りを捧げているのなら、そもそもその様な状況にならないのではないか。・・・神とはなんだ?それ程までに頼りにされ祈られる存在なのか?
ふとした疑問は私も退屈な時間を忘れさせてくれる。まともに動く頭を使っていくらでも考えてみよう。私の時間は残り少ないが、ならば少ない時間を有意義に使うことにするか。
私は敬虔なキリスト教徒でもないし仏教徒でもない。だから宗教だとか神だとか、その様なことはあまり知らないし、実際興味もなかった。そんな私でも宗教が神を崇め崇拝する為のものなのは知っている。
神とは人間を守ってくれる存在なのか?いや、守ってくれるのならば私たちなど存在する必要などないではないか。
では神の存在意義はなんだ?そう言えば日本では豊作祈願や合格祈願などで神に祈りを捧げるが、では神とは人間に利益を与えてくれる存在なのか?いや、豊作祈願はともかく、合格祈願をした学生が全員受かるわけじゃない。大体、個人差はあるだろうが、学生は合格する為に必死に勉強をしているではないか、ならば神がその努力を報わせないのはなぜだ?神は気まぐれで利益を与える人間もその時々で変わるというのか?そんなの馬鹿げているし、不条理だ。努力した奴が落ちてたいして努力しなかった奴が受かることが神の気まぐれなどとは認めない。
視点を変えて考えてみよう。神とはどの様にして産まれたんだ?
支援活動する都合上、世界に信者が多いキリスト教の勉強をしたことがある。これはキリスト教の救済説で精神的に救うのではなく、困窮者などと交流を円滑に行うための知識として学んだのだ。
ずいぶん昔の事だが・・・・・・・・・そうだ、確か・・・キリスト教はユダヤ教を母体にして生まれたのだったか?ああ、思い出してきたぞ。確か古代イスラエルの民が異民族の攻撃に苦しみ、苦難を乗り越える為にユダヤ教が出来たのだった。そしてその要である神も創られたんだ。
心の支え、そうだ支えだ。どんな時でも自分達には神が付いている、苦難を乗り越えれば報われる、守ってくれる、そう思わせるのが神か。
あの時は特に気にもしなかったが、今思うと実にあっけない答えだ。人間は自らが生み出した空想物に救いを求めて祈りを捧げているのか。
いないものに祈りを捧げ心の支えにする。そうしなければ立っていられないからだ、絶望の状況下に陥った人ほど神にすがるのは、何か一つでも頼れるものがないと不安で仕方ないからだ。
そう思うと神に祈りを捧げている人が哀れに思えて仕方ない。必ず救われる、良き行いをすれば必ず報われると信じているのだから。むしろ世の中は理不尽で不条理の塊で、いくら努力しても神頼みしても報われないことだらけだ。
神はいない。一つの疑問に答えを出した私は、また退屈な時間に襲われた。思考することでしか暇を潰せないが、思考できることは限られている。だが興味がないからと思考しなかったら暇なままだ。どうせ私にはこれしかない、神に繋がることで思考すれば少しは面白いかもしれないな。
そうだな、キリスト教でも仏教でも、他人の為に身をつくして行動する人は善人であり聖人であるとするだろうな。それらの宗教に関わりのない奴らでも、基本道徳として他人に優しくすることを学んでいるし、それが善行であると信じているだろう。
逆に悪は自分の事しか考えずに他人を蔑ろにして、盗みや殺しを平然と行うことだ。それが悪であるのは、小学生でも理解できるだろう。
だが神はいないと考えると、この世の道徳は全て人間が決めたものだというのか?存在しないはずの神という絶対の支配者を信じ込ませ不当に儲ける宗教家は歴史上にいくらでもいるが、それならば人間の支配者は人間と言う事か?
至極当たり前の事だ。そもそも私だって無神論者だ。この世の道徳は人間が作ったものなのは当然の事ではないか。だから支援活動に尽くした私が偉大な人として扱われているんじゃないか。
しかし、よくよく考えてみると道徳というのは曖昧で不確定なものなんじゃないか?
人を殺すのは悪と言いながら、戦争では人殺しが善になっているじゃないか。戦争中自国の国民や兵士を救うのはいいが、目の前で死にそうな敵国の国民や兵士を救うのは悪で見捨てるのが善じゃないか。
そもそも道徳というのは国ごとに違うじゃないか。日本じゃ麻薬を密輸したり使用しても収監されるだけだが、マレーシアやシンガポールじゃ死刑になるじゃないか。万国共通の善行は人助け、悪行は人殺しと盗み、それぐらいじゃないか?
そうだ、いつだったか本で読んだことがある。私もかつて行った事のあるインドのカルタッタという場所は、乞食がとにかく多い街だ。そこでは乞食としての生活がうまくいくように幼少時に親が子供の足を切断してしまう。それを見た日本人が子供を哀れに思い、養子として引き取った。だが元々乞食で親からほとんど教育を受けていない子供は普通の生活が出来ずに苦しんでいる。その様子に日本人は「私はその子を哀れに思い引き取ったが、もしかしたら乞食になっていた方がその子は幸せだったかもしれない」と語った。
私たちにとっての道徳の善が、別の国の人の道徳にとって善と言うわけではないという事か。正義の押し付け合いをしても意味がないという事か、時代と国が変われば道徳も変わる、それは正義も変わるということだ。凝り固まった考えではなく柔軟な思考が重要だな。
そう思うと、私のしてきたことは正しかったのだろうか?他人の為に身を尽くし、多くの国で多くの人を救ってきた。誰がどう見ても善行だが、道徳という概念が曖昧であると思うと、どうにもそう思えなくなる。
他人の為に尽くすことが道徳的善であるのなら、自分の為に尽くすことは道徳的悪だと言うのだろうか?馬鹿な、自分の事を愛さない人間が他人の為に尽くせるはずがない。自分を愛し、本心を向かい合った時人は人を救えるんだ。
自分を愛する?思考の中で浮かんだこの言葉は瞬く間に頭の中に反響し私の身体を震わせた気がした。
私は若い頃に他人の為に尽くそうと決めた。それが正しい行いであり万人から正当化され絶対的な正義だと信じたからだ。自分の事などどうでもいい、助け合ってこその人間ではないか。
だが、実際は違う。昔はそう信じていただろうが年老いた自分にはわかる。私は他人から文句を言われない生き方を、称賛される生き方を選択したんだ。
若い時の私はどうにも対人恐怖症のきらいがあり、どうにも社会で生きていくのが難しかった。それに加え取り立てて才能もない凡才で、だれがどう見ても長所がない人間だった。だが、社会は働かない人間に風当たりが冷たい。当然だ。私だって自分が働いている横で寝ながらテレビを見ている奴がいたらムカつくし怒りを覚える。
社会がそうであったから、人間もそうである。周囲からの冷たい視線に耐えられなくった私は絶対に正しい道に入って、冷たい視線から逃げ出したんだ。
人を助けたいとは誰しもが心に抱いている。そして誰しもが抱いているだけで終わる。実際に行動に起こせる人はほとんどいない。だからこそ誰もやらないことをやって冷たい視線を暖かな視線に変えたかったんだ。
本当は私にも夢があった、小説家になるという夢だ。簡単になれるものではないが、それでも私は努力を続けた。夢を叶えるためならどの様な苦境も困難も乗り越える気だった。だが周りは認めなかった、社会の一員になろうとしない私にあらゆる言葉を投げかけ、私はそれに耐え切れなくなって逃げ出したんだ。
働くことが道徳的に善であり、働かないことは道徳的に悪である、私もそれは正しいと思うし否定するつもりもない。問題なのは本当に無気力な奴と夢を抱きそれを一心に努力している奴を一緒にしないことだ。
「働きながらでもできるじゃないか」道徳的な奴はこう言うだろう。だが誰しもがそう出来る訳ではないのだ。どの様な物事でも突き詰めていけば必ず成果を出し幸福を得られるかもしれない。
もし私があの時自分の意志を貫いていたら、夢を叶えて今よりも充実した日々を送り、こんな状態になっても悔いはなく、退屈などしなかったかもしれない。
なんという虚しさだ。私は社会の道徳を意識しすぎるあまり、自分の本心を押し殺してしまったのか。人々から称賛され、果てしなく働いたが、それは過酷な道の様に見えて逃げ道だったのか。
私の身体で唯一動く瞳から涙が流れた、ろくに動かぬ口から呻き声が漏れる。私の人生は何だったのだ?私は自分を騙し続けて、自分の本心を見ようともせず、道徳に縛られて、充実していた様に思える人生は、実に空虚じゃないか。自分の事さえわからないような奴が、さもわかった様に同情し他人を助けるなどおこがましいにも程がある。私は、もっと自分を愛してやるべきだった。
叶う事なら、若い時に戻って夢に向かってただひたすら努力したい。どんな苦労も困難も乗り越えて、夢を叶えて充実した日々を送りたい。
だが、それは叶わぬ願いだ。・・・・・・神は、いないのだから。
皆様こんにちは。真っ白なキャンバスです。小説を作り始めて初めて短編小説を作り、内容にはまだまだ粗雑な点があるかも知れませんが、すこしでも楽しんでいただけたら幸いです。
人というのは必ず、何かに縛られて生きています。それは神であれ、道徳であれ、夢であれ、様々なものです。話しの中では神の存在を否定し、道徳に縛られずに自分の夢を求めればよかったとしましたが、私自身は神の存在を否定しませんし道徳に縛られることがいけないことだとは思ってません。
重要なのは自分の本心と向き合い、自分自身を知ることです。自分はどの様な人間なのか、何が得意で苦手なのか、それを知ることが大切だと思います。
自分の本心とは即ちやりたいことであり夢です。その夢がなんであるかわかったのなら、神を信じて生きることを選んでも道徳に従って生きることを選んでもその人の自由です。他人は助言をすることは出来ても、選んだことに対して否定することは出来ません。何故ならばその人の人生はその人のものであり、人生の責任はその人が負うからです。
どの様に生きようともそれが自分で選んだ選択ならば決して後悔はしません。他人に命じられて生きていては必ず後悔してしまいます。
勿論、他人の意見を蔑ろにするのではなく、聞き入れることも大切です。他人の意見に流さることがいけないのであり、嫌なことは嫌だと言い、やりたいことはやりたいとはっきりと言う明確な自分の意志を持つことが大切です。
最後に、これはあくまでも参考書の様なものであり、決して生き方を押し付けるものではありません。ただ、この小説を読んで少しでも自分を見つめなおしてもらえれば幸いです。




