たったひとつのねがい
今日は年に一回の父さんとの面会の日。
いつもは服装に気を使わない僕だけど、今日だけはちょっとおしゃれしてみた。父さんと会うのにおしゃれするなんて変だと思われるかもしれないけど、一年間で成長した僕の姿を見てほしいと思ったんだ。
家を出る前に母さんには厳しく制約を言い渡された。
曰く、必ず夕食までに帰ってくること。曰く、僕たちの今の住所や電話番号、母さんがどこで働いているかなどは一切言わないこと。曰く、家には何も持ち帰らないこと。ほかにも細かい言いつけをたくさんされた。
いつもはとても優しい母さんなのに、毎年この時だけは鬼のように厳しくなるもんだから、とっても胸が苦しくなる。
どうして母さんはそんなにも父さんを嫌うのだろう?
僕の父さんなのに。
僕の家庭では、父さんのことを決して話してはいけない。それはいつの間にか禁忌となって、僕の家庭にずっと横たわっている。
どうしてみんなそんなにも父さんを恐れるのだろう?
僕の父さんなのに。
僕がまだ幼く、周りに気を使うのが難しかったころは、よく父さんの話題を出して、そのたびに空気が凍りついたのをよく覚えている。
その度に、母さんだけじゃなく、きっと幼い僕も傷ついてた。父さんは僕らにとってそんな存在になってしまった。
理由は分からない。母さんにいくら聞いても決して教えてはくれない。
いや、もしかしたら知らない方がいいのかもしれない。あんなに優しい母さんを怒らせ、忌避させるようになった訳。きっと父さんは何か大きな過ちを犯してしまったのだろう。でも子供の僕にはそれがなんなのかさっぱりわからない。だからきっと知らなくて正解なんだ。大人の世界は大人になってからしかわからない。
僕は自分をそう納得させて、過去に何があったのかは考えないようにしている。
とにかく僕が知っているのは、数年前に母さんが僕たちを連れて家を出て、新しい生活を始めたこと。そして、父さんには年に一回しか会えないこと。
それだけだ。
「大きくなったね」
おなじみの駅に行くと、懐かしそうに目を細めた父さんが、車窓から顔を出して手を振ってきた。
「そういう父さんは少し太ったね?」
俺は勝手知ったる動作で助手席に滑り込み、ドアを閉めた。
父さんがゆっくりと車を動かし、年に一度の面会が始まった。
「ちゃんと運動しないとだめだよ」
僕がそういうと、父さんはちょっと困ったように苦笑いした。
「はは、実の息子にそういわれると頭が上がらないよ」
「奥さんは元気? うまくいってる?」
「ああ、元気だよ。あ、そうだ! いいことを教えてやろう! 智也に新しい妹ができたんだよ」
「え!? ほんと!?」
「ああ、本当だとも。今はまだお腹の中だけどね。年内には生まれる予定なんだ」
「うれしいな。また会わせてね!」
「ああ、いつか、必ずだ」
父親と息子との間に交わされるにはあまりにも違和感のある会話。
きっと客観的に見れば、誰もが父さんを責めるに違いない。
でも、これでいいんだ。
父さんと離れ離れになった時から僕は決めていた。
これから起こる全てを受け入れよう、と。
その決心だけは幼いころから変わらない。
あの時みたいに周りの出来事にいちいち振り回されていては、心が持たないと子供なりに感じたからだ。
それもそうだけど、兄妹が増えるというのも純粋にうれしかった。
ああ、きっと僕は傍から見れば非常識なんだろうなぁ。
「母さんはどうしてる? どこかで働いているのか?」
そう聞かれて僕は言葉に詰まった。
家を出る前の母さんの姿が脳裏に映った。
「うん、母さんは元気だよ」
苦し紛れに返した答えに、父さんは一言。
「そうか…」
それっきり父さんは無言になった。
自分たちのことを言えない寂しさが、僕の心を締め付けた。
そっと父さんの様子をうかがうと、父さんは両手を膝に置いてハンドルを持っていた。
それは僕がとっても幼いころから知っている父さんの癖だった。
本当に久しぶりに見るその手つきに僕の視界は少し霞んだ。
まずは僕がかつて住んでいた、今は父さんとその家族が住んでいる家の周りを散歩するのが面会の定石だった。
僕と父さんは車を降りると、並んで歩き出した。
ここら辺は、僕が今住んでいる地域よりも大分田舎で、周りにひろがる田園と小さな山々が遠くに連ねる広々とした景色が懐かしかった。
しばらく歩くと、見覚えのない真新しい家々が見え始めた。
「あれ?あそこって前まで空地だったよね」
「ああ、最近家が建ったんだ」
「そっか…」
昔はあの雑草が生い茂った空き地に入って、虫採りをしたものだった。
その空地も僕のいない間に無くなってしまっていた。
僕は寂寞を感じずにはいられなかった。
昼食をとある小さなステーキ屋でとるのもこれまた定石となっていた。
今年奮発して、一番いい肉を使ったステーキを頼んでくれた。
先に運ばれてきた冷たいジュースをちょっとだけ飲んで一息ついた。
向かいに座る父さんが口を開いた。
「勉強はちゃんとしてるかい?」
「もちろん、私立に行くお金なんて家には無いからね。ちゃんと勉強して、公立高校に行くよ」
僕はそこまで言って自分の犯したミスに気が付いた。僕の家にあまりお金がないのは、すなわち働き手であった父さんがいなくなったからであり、父さんはそのことをきっと気に病んでいるに違いないからだ。
案の定、父さんは申し訳なさそうな顔になって、僕を見た。
「いやっ、今のはそういう意味じゃなくて…。とにかく僕は頑張って公立を目指すよ」
急いで取り繕ったが、父さんにそのことを思い出させてしまったあとではもう遅い。
「智也、ごめんな…、駄目な父さんで。いや、もうお前の父さんだなんて名乗る資格もないか…」
「そんなことないよ! 父さんはいつまでも僕の父さんだよ! 一緒に住んでなくたってそれは変わらないよ」
僕はそうまくしたてた。これは紛れもない本音だ。僕のたった一人の父さんは何があっても父さんだ。でもそんな父さんが僕の母さんやみんなから忌避されていると思うと、やりきれない思いが込み上げてきた。
「父さんはさ、なんでそんなに太っちゃったの?」
僕は無理やり話題を変えようと、務めて明るい声を出した。
それに父さんが答える前に注文したステーキが、プレートの上でじゅうじゅうとおいしそうな音を立てながら運ばれてきた。
「…もしかしてこれのせい?」
「そんなわけあるか。最近寝る前にその、お前のこととか母さんのこととか考えちゃってな、酒でも飲まないと眠れないんだ」
話題がまた暗い方向へとずれ始める。
「僕たちのことは心配しなくてもいいんだよ! だって僕がいるんだから」
「そうだな、智也に任せておけば安心だな」
「そうそう!だから寝酒なんて健康に悪いことはやめなよ」
それから僕は、自分の近況を話したりして、できるだけ昔のこと、母さんのことには触れないようにした。
父さんも僕の意図をくみ取ってか、それ以後はそんな話はしなかった。
久しぶりに話す父さんは、やっぱり父さんで、悩みとかも母さんよりもずっと話しやすかった。僕の話をうんうんと聞いて、それにアドバイスをくれる。
僕も父さんの話を聞いて、それに助言してみる。
そんなやり取りはなんだか気の知れた友人と話しているようで、純粋に楽しかった。
「ちょっと待ってて」
父さんがそう言って家に何かを取りに行ったのは、帰りの途中のことだった。
車窓から懐かしい夕焼けを眺めながら待っていると、父さんは白い箱を抱えて車に乗り込んで来た。
「智也、誕生日おめでとう」
そう、今日は僕の誕生日だった。
「これ、ケーキ買ってきたよ。家に持って帰ってみんなで食べて」
「え」
脳裏に母さんの言いつけが浮かんだ。家に何も持ち帰ってはいけない。
でも。
「ありがとう。受け取っとくよ」
こんなの、断れるわけないじゃないか。
「ごめんな、こんなことしかできなくて」
父さんはしょげたように呟いた。
「ううん、仕方ないよ」
他にいい慰めの言葉が見つからなかった。
車が動き始める。
「今日は楽しかったよ。ありがとう」
「ああ、こっちこそだ。来てくれてありがとうな。忙しいだろうに」
「今日は特別だよ。忙しいとか言ってられないね」
僕がそういうと、父さんは今日初めて嬉しそうに笑った。
それを見て、僕は心底安心した。
それから僕たちはとりとめのないことをいっぱいしゃべった。なんだか一年分の会話を一気にしたような感じがした。
今日一日何となく感じていた寂しさはいつの間にかなくなり、僕も父さんも心から会話を楽しんだ。
駅に着くまではあっという間だった。
「じゃあ」
そう言ってみるけれど、なかなか車を降りることができない。
明日からまた一年、きっと父さんと会うことができない。
明日からまた一年、父さんのいない家で暮らすことになる。
でもそれは仕方がないこと。僕は大人になるまで大人が作ったルールに従わなくちゃいけない。
「また来年」
覚悟を決めた僕は、逃げるように父さんの車から降り、駅に走りこんだ。
ああ、父さんはどんな顔をしているだろうか。
振り返りたい気持ちを必死に抑えながら帰りの電車に駆け込んだ。
夕食ぎりぎりの時間に僕はひっそりと自宅の戸を開け、自室に戻った。
右手にはさっきもらったケーキの箱が握られている。
「これどうすればいいんだよ…」
とりあえずケーキは机の下に隠して、夕食をとった。
箱をそっと机の上に出して、開けてみた。
ふわっと広がる甘い香りとともに、大きなホールケーキが顔を出した。
中央に立てられたプレートには、『智也、誕生日おめでとう』の文字。
「みんなで食べて、か…」
そうすることができたらどれだけよかっただろう。
俺はキッチンからこっそり持ってきた大ぶりのフォークをケーキに突き刺した。
「いただきます…」
一口目、さわやかな甘みが口の中に広がった。
二口目、父さんの笑顔を思い出した。
三口目、母さんの厳しい顔を思い出した。
四口目、ケーキはだんだんしょっぱくなってきた。
「うっ…」
視界が滲んだ。
どうして一年に一回だけしか会うことが許されないのか。
そもそもどうして離れ離れになったのか?
今までは分かったつもりになって自分を無理に納得させていたけど。
五口目、涙でむせて、ケーキを吐き出しそうになった。
父さんのあんなに寂しそうな顔を見てしまったら。
六口目、構わずに口にケーキを放り込んだ。
父さんのあんなにうれしそうな顔を見てしまったら。
七口目、自分が何を食べているのかが分からなくなってきた。
「クソっ!!」
フォークを放り投げ、俺は母さんのもとに向かった。
もう我慢できない。
自由にさせてくれ。ちゃんと何があったのか教えてくれ。
どうして父さんを嫌うのか、教えてくれ!
もうこんな思いはしたくない。母さんと父さんの板挟みにはなりたくない。自由な時に父さんと会いたい。
知りたい、知りたい。何があったのか。
それが、僕のたったひとつのねがい。