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香港カスケード

作者: 仲村薫

ほんの少し、昔のこと――

 時計の針に指を添えて、ぐるりと逆に回してみる。

 するとそこに、かつて『アジアの西洋』と呼び称された魔都の姿が見えてくる。


 イギリスの占領下に日本軍が侵略し、わずか18日間で陥落したその場所に、確かに『彼』は存在したのだと、感じることができる――







「香港☆カスケード」








 真夜中すぎ――

 繁華街から大通りを抜けたフェイヨンは、裏街道に入り込んだ。

 手を伸ばしても一寸先すら見えない闇の中を、かきわけるように走りつづける。

 ちかちかと点滅するばかりで、何の役にも立たない路灯の下、彼はふと足を止めた。

 腐った魚に似た異臭に混じり、どこからかアヘンの煙香が漂ってくる。

 その匂いにぴくりと眉をよせ、フェイヨンは手にしたナイフを折りたたむと、慎重に歩を進めながら、とある建物の中に消えていった。





 人間が、ひとり入れるだけの狭い通路。

 ぎしぎしと軋む床の上を、彼は這うように先へと進んだ。

ぽとぽとと顎から滴り落ちる汗を気にもとめず、疲労困ぱいの体を引きずりながら、ようやく目的のドアにたどり着く。

 と、フェイヨンはぜいぜいと肩を揺らして、その場にしゃがみ込んだ。

 ――ドンッ!

 と、八つ当たり的な音を響かせてノックする。

 だが、向こうから返事はなく、代わりに艶かしい女の嬌声と動物のようなうめき声が、途切れがちに耳に届いてきた。

 「あ、くそっ、お楽しみ中かよ。……こっちが先に昇天しそうだってのにっ」

 悪態をついて、ひび割れた壁面を殴ってみても、結果は同じ。

 仕方なくおとなしく待つことにした彼は、両膝を折り曲げた上に顎を乗せ、小さくうずくまった。


「……なんか、どんどん汚くなっていくなぁ、ここ」

 ぼそりと呟いた言葉さえ、からからと回る古びた扇風機に吸い込まれていく。

 見上げた天井には、何十もの電線や配管が剥き出しになり、裂けた隙間から水滴がぽたぽたと滴っている。

 壊れたオモチャや、不要になった日用品、放置された生ゴミが乱雑に積み上げられている様子を横目にして、

「これじゃ、治る病気も治らねーよな」

 と、焦燥の息を吐いた。

 背後のドアが開いたのは、その時だった。

「フェイヨン」

 さえずるような声で呼ばれ、はっと顔を上げる。

 と、目の前に細長いパイプをくわえた女が立っていた。

 この場にそぐわない、赤紫色のチャイナドレスが目に痛い。

 彼女の背後でニヤニヤと薄ら笑いを浮かべる兵士に目を細めたフェイヨンは、不快そうに侮蔑の視線を返し、そっとシャツの下に隠し持っていた袋を取り出した。


 すっと伸びてきた白い手に乗せてやると、彼女は値踏みするようにその重さと中身を確かめた。

「いくらなの?」

「……800」

 伺うように見上げてくる彼に、彼女は表情を曇らせて苦笑した。

「アイリン、頼むから……」

 と、媚びたような少年の声が通路に響く。

 アイリンは、困ったように肩をすくめると、受け取った小袋をぽんと室内に放り投げ、財布から幾らかの紙幣を取り出して、無造作に少年に手渡した。


 胸の前で両腕を組んだ彼女に威嚇するように見下ろされても、フェイヨンは自分は悪くないとばかりに見据えてくる。

 その態度に呆れていたアイリンは、ふと、彼の様子がおかしいのに気が付いた。

「まぁ、フェイヨン。もしかして怪我をしてるの? またアヘン商人にやられたのね」

「……いつものことさ。殴られても撃たれても、仕事ができればそれでいいんだ」

 鮮血がにじんだ脇腹を片手で押さえ、不敵に笑う。

 そんな彼に眉をひそめ、彼女は信じられないという顔でフェイヨンを見据えた。

「いいこと? 私はもうアヘン売買の仲介なんて、ごめんだわ。あんたもいい加減、足を洗いなさい」

「薬がいるんだよ」

「それなら、ロウワンに頼んだらいいじゃない。彼の部屋はいつも薬であふれてるわよ」

「あいつは歯医者じゃねーか。話にもならねーよ!」

 バカにしてんのか、と叫んできびすを返した彼に驚き、アイリンは慌ててその背中に声をかけた。

「危ない橋ばっかり渡ってたら、そのうちリュウスーに嫌われてしまうわよ!」

「大きなお世話だ。娼妓に言われたくねぇ」

「フェイヨン!」

 アイリンの声は、彼には届かなかった。

 闇に溶けるように通路に消えたフェイヨ ンを見送ると、その後には、赤い血痕が床を染めて残っているだけだった。




 ――九龍城砦。

 清王朝の跡地に、急場しのぎで建てられたこの建物は、いまや移民と悪党の吹き溜まりになっていた。

 麻薬、売春、賭博、暴行……

 フェイヨンに、娼婦として食いつなぐアイリンの商売を責める筋合いはない。

 自分だって同じ場所で、似たようなことをやっているのだ。

 この砦の中では、自分たちが食べていくだけで精一杯であり、そのためならどんな犯罪に手を染めても、言い訳はできない。

 いくら、薬のためとはいえ――

(いや、薬が必要だからこそ、やらなきゃいけないのか)

 ふとそんなことを考え、むーっと口を引き結んだその表情に、珍しく少年らしい幼さが漂った。

 いつも可愛げがなく、絶えず周囲に鋭い眼光を投げかけているフェイヨンだが、こと薬に関しては――それを必要としているリュウスーのことを考えた

だけで、豊かな情に溢れてくる。


 娼婦アイリンの部屋から戻った彼は、真反対の棟に向かうと、そこで眠っているはずの友人の部屋をノックした。

「リュウスー。……起きてるか?」

 深夜とはいえ、礼儀もなにもあったものではない。

 反応がないのをいいことに、ずかずかと室内に足を踏み入れた彼は、緩やかな寝息を立てているだろう仲間を見舞った。

 ――が、誰もいない。

 明かりもなく、暗い闇の落ちた室内に人気はない。

 彼を出迎えたのは、つんと鼻につくカビ臭い空気だけだ。

「リュウスー? ……リュウ!!」

 とたんに蒼白になったフェイヨンが、転がるように通路へと飛び出していった。

 ぼんやりと、わずかな電灯に照らされた中を、探るように前に進んでいく。

 油断するとすぐに足をとられ、放置されたゴミや空き箱につまづいて転倒してしまう。

(リュウスー、リュウスー……!)

 瞬く間に焦りだけが彼を支配し、当てもなく居場所を求めつづけた。

 カビくさい空気。

 どこからか鳴り続けるラジオ。

 老人の罵声と、子供の泣き声。

 そんなものがまとわりつく暗い城内を駆け抜け、大切な友人を求めてあちらこちらと探し回った。

 さほど広くはない建物とはいえ、狭い敷地で数万もの人間がひしめき合いながら暮らしているとなると、捜索も容易ではない。

 1階から2階へ、そして、さらにその上へ――


 夜中にもかかわらず、静けさとはほど遠い‘眠らずの城’の中で、夫婦ゲンカや賭博場の喚声を耳にした彼は、苛立ちに舌打ちした。

「……くそっ」

 ほとんどダンジョンと化した暗黒の世界で、汗か涙かも分からない雫をぬぐう。

 そして、闇に倒れているかもしれないリュウスーを思い、彼は歯噛みして小さくうめいた。

 と、その時だ。

 どこからから、ヒュルッと奇妙な音がして、彼ははっと足を止めた。

 振り向いたとたん、ぱあっと周囲が明るくなる。

「……屋上か!」

 一瞬なんの音かと首をひねった彼は、すぐさま近くの階段を駆け上がっていた。




「! リュウスー!」

 薄っぺらい戸板を開けて屋上に出ると、生ぬるい風がふわりと頬をかすめた。

 目を細めたフェイヨンが、鬱陶しそうに前髪をかきあげる。

 フェンスもなにもない、腐りかけの板が並んだ上に、リュウスーが座っていた。

 毛布というにはほど遠い、くすんだボロ布を羽織ったその少年は、フェイヨンが近づいてきたのに気づくと、ふと仰いでいた空から視線を離した。

「……あ、フェイヨン」

「リュウ! 良かった、無事だった……」

 振り返ったとたん、後ろから抱きすくめられ、リュウスーは青白い顔を傾けて微笑した。

「ごめんね、心配したね。階下の老師たちがいさかいを起こして、うるさかったんで逃げてきたんだ」

「……あぁ、また誰かの金がなくなったらしいな」

「いつものことだけどねぇ」

 緩やかな笑みをこぼし、リュウスーは枯れた細腕を伸ばして、薄い布を羽織り直した。

 もともと健康とは言いがたいリュウスーは、最近とみに痩せ衰えてきた。

 手持ちにろくな食べ物がないのも理由のひとつだが、時々起こる原因不明の頭痛や関節の痛みが、余計に彼から生気を奪っているようにも思えて、心配でならない。

(リュウスーを死なせるわけにはいかない……!)

 恐れに似た不安が脳裏をよぎり、常に気が休まる時がない。

 労わるようにそばによる。

 と、視線を上げたリュウスーが、友人のシャツに大量の血がついているのに気づき、はっと息を飲んだ。

 驚愕の色を露にし、伸ばした手で掴むようにシャツを握る。

「フェイヨン。またアヘンを盗んだの? 刺されたんだね」

 アイリンと同じセリフをもらした彼に苦笑し、フェイヨンは自分のシャツを見下ろした。

 すでに血は止まっている。

 傷が浅かったのか、さして痛みを感じている様子もない。

 麻薬売買にもめごとはつきものだし、ケンカ沙汰はいつものことだと腹をくくっているのだろう。

「別に、こんなの大したことない」

 ぶっきらぼうに彼がそう答えると、リュ ウスーはほっとした顔で嘆息し、「気をつけてね」と呟くと、穏やかな笑みを咲かせて夜空を指差した。

「ほら。あれ を見て、フェイ」

 すぐ目の前で、ヒュルッと細長い螺旋を描いた光が、まっすぐに夜空へとあがった。

  一瞬だけ輝きを失ったそれは、すぐに生気を取り戻し、ぱあっと鮮やかな赤みを帯びて空中に広がっていく。


「すごい、綺麗だねぇ」

 感嘆の声を吐き、嬉しそうに笑ったリュウスーの傍らで、フェイヨンは「そうか?」と口を曲げた。

「ただの照明弾だろ。日本軍の滑走路建設に反対してるヤツらが、嫌がらせでやってんだ」

「それはそうだけど……」

 困惑ぎみの表情を向けたその時、足元のビルの下で、爆竹の音が鳴り響いた。

 遅くまで起きている子供たちが、デモの照明弾にはしゃぎ、便乗するように騒ぎ立てている。

「まったく、うるさいったらありゃしない」

「あはは。でも、喜ぶ気持ちもわかるよ。こんな夜中なのに、まるで昼間のように明るいんだからね」

 たえず前向きな意見を述べて笑う友人に、フェイヨンは苦虫を噛みを潰したような顔で肩をすくめた。

 ごろんと板間に寝そべり、退屈そうに空を仰ぐ。

「あぁ、どっか遠 くに行きてぇなー」

「遠く? ここを離れたら、僕たちは生きていけないよ」

 はかなげな笑顔で、リュウスーが首を傾げた。

 消え入りそうな影を帯びた瞳が、落胆とともに揺れるのが胸に刺さる。

 こんな廃墟に、自分たちはいつから住んでいるのか――

 そんなことすら覚えていないほど、彼らはここの生活になじんでしまっている。

 赤の他人でありながら、フェイヨンとリュウスーは、まるで兄弟 のように寄り添い、日々その命をつなげて生きているのが現状だ。


 ヒュッ……!

 と、閃光を放った照明弾が、再び空に上がった。

 ほんの一時だけ空を照らし、辺りが再び闇に包まれるその刹那、二人は呼吸するのも忘れ、いつまでも見入っていた。




****




 間もなくして。

 リュウスーの容体が悪化した。

 高熱にうなされ、全身に激しい痛みが走る。

 額から、首から、べとりとした脂汗が染み、原因不明の震えが体中を侵食していくのを、彼は堪えることもできずベッドでうめき続けた。

「……フェイ……、フェイヨン……!」

 朦朧とした意識の中で、かけがえのない友人の名を呼び続ける。

 だが、何度繰り返しても応答はなく、彼の目の前にフェイヨンの姿はない。

「……!」

 死にゆく恐怖と、孤独にとらわれた不安。

 そんな見えない魔物におびえ、リュウスーは幾度となく己の意識を手放しながら、汚れたシーツの中にひとり身を落とした。

 ――リュウ……

 リュウスー……

 ……リュウスー……!

「!」

 ふと、誰かに名前を呼ばれた気がして、彼は目を開いた。

 誰かが、ベッドの横に立っている。

「……フェイヨン?」

 いや、違う。

 身をかがめてこちらを覗き込んでいるのは、一人のしわがれた老人だ。

 長い白髪を後ろでくくり、くすんだ草色の長衫(チョンサム、服の種類)姿で見下ろしている男が、食い入るようにリュウスーの様子を伺っている。

「起きたか。どうだ、まだ痛むか」

「……老王(ロウワン)

 以前フェイヨンが『役に立たない歯医者』と罵っていた男を前にして、リュウスーは戸惑い気味に目をしばたかせた。

「ったく。ドアの前で瀕死のお前さんを見つけた時は、腰が抜けるかと思ったぞ。

 ……なぜ、こんな状態になるまで無理をするのか、その理由がわからん」

「……すいません」

「まぁとにかく、処置が間に合ってよかった。お前さんを死なせたら、フェイヨンになにを言われるか分かったもんじゃないからの」

「フェイヨンは……?」

 彼が不安気に尋ねると、ロウワンは困ったように息をつき、天井に放り投げた小袋をぽんと手中におさめた。

 中身がちゃりん、と音を立てて鳴る。

「あー、そっか」

 それだけで、リュウスーには分かってしまった。

 彼は、また薬代を調達しに行ったのだ。

 アヘンを盗み、それを横流しして金銭を手に入れる。

 ――そう長くは生きられない、友人のために。

 いずれ消え行く彼のために、フェイヨンはいつもそうやって傷を増やし、命を張って「生きろ」と言ってくれる。

 それがリュウスーには居たたまれなかった。

「お前さんの体は、もう限界だ。普通の鎮痛剤なんか効きゃしない。アヘンもモルヒネもしかり、高価なインド産のケシの実を使っても、金の無駄でしか

 ない。……内緒にしてても、いずれバレるだろうが……」

 ロウワンは、そこで一呼吸おくと、気の毒そうにリュウスーを見下ろした。

「お前さんを生かしておく方法は、ダウナーしか残っちゃいなかった。もちろん、禁断症状は気になるが……、おい、起きてるか」

「えぇ、大丈夫。ちゃんと聞こえてます、ロウワン」

 リュウスーは、汗ばんだ額を片手でぬぐうと、ベッドの上でこくりと頷いた。

 とどのつまり、痛み止めにヘロインを使用した、ということだ。

 別に、どうってことない……!

 いつかはこうなると分かっていた。

 ロウハンの言う「普通の鎮痛剤」といっても、所詮は抜歯用の痛み止めでしかないのだ。

 どうせ長くは生きられないだろう自分にとって、今さら麻薬に体内を侵されようが、さしたる問題ではないように思えた。

(もっとも、フェイヨンが知ったらただではすまないだろうけど……、今、生きてるだけでもマシってものさ)

 と、自嘲ぎみの笑みを浮かべた。


 しばらくして、

 ロウハンと入れ替わりに、フェイヨンが部屋に入ってきた。

「フェイヨン……」

 彼は、病に倒れたリュウスーよりも、青白い顔をしている。

 かける言葉もないのか、無言で立ち竦んでいるフェイヨンの様子を見て、リュウスーは迷わず細い両腕を伸ばした。

「フェイヨン……。良かった、帰ってきてくれたんだね」

「大丈夫か?」

「うん。……ロウワンのおかげだ」

「そっか」

 半分泣きそうな顔でおずおずと近づいてきた彼に、リュウスーは気丈に笑顔を見せた。

 だが、フェイヨンにはなにか思うところがあったのか、ベッドの端に腰を下ろしたまま喋ろうとしない。

 そして、しばらく俯いたままだった彼は、ふいに意を決したように視線を上げた。

「リュウスー。ここを出よう」

「?!」

「アイリンの知り合いが、広州に住んでるって。そこに行けば、少しはマシな治療が受けられる」

「……広州……」

 意外な言葉に、リュウスーは声を失った。

 日本軍が侵略して以来、環境はどこも似たようなものだと聞いている。

 そんな中で新天地などあるはずもなく、自分たちの置かれている状況が変わるわけでもない。

 今さら別の場所に移ってどうなるのか、といぶかしんでいると、フェイヨンは忌々しそうに舌を鳴らした。

「ヤツらは、オレたちを人間だなんて思っちゃいない。このままここにいて、いつか日本人に憂さ晴らし同然に殺されるなんて、まっぴらご免だ」

「……」

 吐き捨てるような暴言を耳にして、リュウスーは動揺を隠せず、双眸に影を落とした。 

 病み上がりの青い顔に、そっとフェイヨンの日に焼けた手のひらが乗る。

 温まるような熱が伝わり、リュウスーは漂う不安から逃れるように自分の身を抱いた。

「そんなに心配すんな、リュウ。アイリンが道案内をしてくれるから、大丈夫だ。……一緒に行こう」

 その力強い声音に、恐れなどない。

 ずっと一緒なのだと、

 どこまでも共に行くのだと、

 固い意志に促されるような笑顔を受けて、彼は体の痛みを堪えて小さく頷いた。 





 体調は、最悪だった――

 吐き気、悪寒、頭痛……

 痺れるような痛みが全身を襲い、くらくらと目眩がして立っていられない。

 鎮痛剤の名を借りた麻薬が、少しずつ自分の体内に浸透して腐らせていく。

 そんな地獄のような病状が続く中で、歯医者のロウワンが何度目かのヘロインを、彼に打った。

「……っ……!」 

 泣きわめきたいほど、辛い。

 どうか、僕のことは置いていって――

 フェイヨンのお荷物には、なりたくない。

 だから、広州へは一人で行って……!

 そう彼に伝えなければならないのに、リュウスーの弱い心はそれを拒み、ボロボロになってなお、友人の好意にしがみつこうとしている。

(やっぱりダメだ……。こんな体じゃフェイヨンの足手まといになるだけだ。僕は、行けない。だけど……)

 心の葛藤に打ち勝つことができず、リュウスーは焦燥と迷いの中で、激しい禁断症状と戦い続けることになった。

 ロウワンの打ってくれた薬が幸いしたのかどうか、鎮痛剤の威力が功を奏し、ようやく意識がはっきりし始めた頃――

 アイリンが、ひとり部屋に入ってきた。

「リュウスー、行きましょう!」

 大きな泥色の毛布をそっと彼にかぶせ、抱きかかえるように外に連れ出してくれる。

 その傍らに、フェイヨンが無言で立っていた。


 ふらつくリュウスーを固い表情で見つめ、見守るように後ろから付き添って歩く。

 静かな時間が流れた。

 緊迫した空気を遮るように階下に下り、足音をしのばせて城砦の外へと出る。

 痩せた月がぽっかりと空に浮かび、ほのかな明かりだけを頼りに大通りへと向かう。

 その時だ――

 今まで背後で感じていたフェイヨンの気配が、ふと途切れた。

「? ……フェイヨン?」

 怪訝に思って、振り返る。

 と、彼は城砦の前に立ったまま、動こうとしない。

 じっと2人を見つめたまま、小さな笑みを浮かべて佇んでいるだけだ。

「フェイ……?」

 アイリンに肩を抱かれたリュウスーは、その刹那、目の前で彼の姿がぼんやりと揺らいだのを目の当たりにして、息をのんだ。

「!?」

 向こう側の景色が透けるほど輪郭が薄れ……、再びぐらりと揺れて、その姿を現す。

「フェイヨン?!」

「リュウスー、何をしているの、早くいらっしゃい」

「ま、待って……! だって、フェイヨンが……っ」

「フェイヨンですって? なにを言ってるの、彼はもう、とっくに」

 死んでるじゃない――!

 そんな信じられない彼女の声を聞き、リュウスーは自分の耳を疑った。

「なに……、今、なんて……!」

 人気のない夜の大通りに、どやどやと軍人たちが近づいてきた。

 夜通し騒いでデモを繰り返す住人を取り締まる日本兵だ。

 短銃や長棒を振り回し、威嚇して子供たちを脅す兵士集団の中に、フェイヨンの姿がすーっと消えていくのが見えた。

「フェイヨン 、フェイヨン!」

「リュウ、いい加減にして! 兵隊に見つかったら、こっちまで巻き添えになるわ」

「イヤだ、待って! フェイ、フェイヨン!」

 意外なバカ力を発揮したアイリンに引きずられ、彼は人ごみに紛れるように引っ張られた。

 まさか――?

 そんなバカな……!

 いったい、いつから――?!

 ガンガンと脳裏に痛みが走る。

 これはなにかの間違いだと思いながら、アイリンにかばわれるように、暗闇を駆け抜けた。

 そして、通りの隙間へと入ろうとした刹那。

『行け――!』 

 彼の耳に、フェイヨンの声が響いた。

「!」

『いいから行け! 早く、構わずに行け!』

「……っ」

 がやがやとした喧騒と罵声の鳴り響く闇の中で、それは幻聴のように耳に届いた。

「リュウスー、早く、こっちよ!」

 頭からすっぽりと毛布をかぶせ、歩く気力すら失った彼を叱咤するように、アイリンが悲鳴に似た声で叫んでいた――





 2人は、北ではなく、南に向かっていた。

 しばらくしてその事に気づいたリュウスーは、眉をひそめて彼女を見上げた。

「アイリン、道が違う。僕たちは電車に乗るんだろ」

「えぇ、もちろんよ。蜑民(たんみん、水上生活者)に協力してもらって、港から迂回して線路に向かうの。そこから電車に乗るのよ」

「……どうして、そんな回りくどいこと……」

 理解できないという顔で首を傾げていると、アイリンは、

「あなたのためよ」

 と、即答した。

「あなたを確実に広州に送り届ける為に、フェイヨンが手配したの。途中で軍に見つかって死にたくはないでしょう? お金ならとっくにもらってるわ、

 前金でね」

 当然のように言ってのけるアイリンに、彼は胸を詰まらせて彼女を見上げた。

 聞きたいことが、たくさんある。

 フェイヨンは、本当に死んでしまったのか――

 それを尋ねることもできず、呆然としていると、アイリンはぐいっとリュウスーの腕を引っ張って歩き出した。

 海から、鉄道へ――

 闇に紛れ、揺れる電車の中へ押し込まれるように飛び乗った。

 傍らに寄り添うアイリンに体を支えられ、彼はふらつきながら車両に入った。

 薄汚れた床や連結部、あらゆるところに大勢の人間がうずくまっている。

 そして、それらをぐるりと見回した時――

「! リュウスー! しっかりしてっ」

「――!」

 染みだらけの座席の上に、ちょこんと横たわった小さな子供の死体。

 それを見つけた時、彼はとうとう力尽きた意識を手放し、ゆっくりと白濁した混沌に埋もれていった。




 その後――

 わずか数年のうちに、日本軍は撤退した。

 原爆投下の被害を受け、敗北宣言を発布したと同時に、その『場所』は再びイギリス占領下に敷かれ、50年以上の時を刻むことになったのだ。





****





 「老蘇(ロウスゥ)……、ロウスゥ……」

 穏やかな鈴のような声で、誰かがささやいている。

 清楚なベッドの上で、うとうととまどろんでいたリュウスーは、その呼び声にふと双眸を開いた。

 どっぷりと日が暮れ、暗闇に包まれた純白の室内に、静かな雰囲気が漂っている。

「ロウスゥ、お加減はいかがですか」

 消毒液の染み付いた白衣を着た女性が、アイリンによく似た面影を携えて覗き込んできた。

 その表情に懐かしさを覚えて、彼はふっと目を細めて笑った。

「――あぁ。子供の頃の夢を見ていた」

「まぁ、どのような? あの頃はとても悲惨だったと母から聞いていますのに、……ずいぶんと幸せそうなお顔でしたこと」

「そうか?」

 深い皺の刻まれた頬を緩め、リュウスーは思い出を反芻するように瞳を閉じた。

 窓の外で、

 ヒュルッ!

 と聞きなれた音がしたのは、その時だ。

 どこか懐古な、じんと胸の熱くなるような音に耳を澄ます。

 すると、いきなり周囲がぱぁっと明るくなり、病室の内部が昼間のように明るく照らし出された。

「……! 今のはなんだ、照明弾か?」

「まぁ、老蘇ったら。まだ夢を見ておられるのですか」

 リュウスーの手首の脈を計っていた彼女は、その作業をやめると微笑した。

 静かに窓辺に寄り、手馴れたしぐさでさっと白いカーテンを引く。

「!」

 大きく開かれた窓の向こうを凝視し、リュウスーは目を見張った。

 ガラス窓の先で、鮮やかな花が幾重にも咲き誇っている。

 ヒュルルル……!

 と、螺旋を描いた細い光の筋が、龍のごとく天に昇り、その直後、大 輪の花弁を広げてリュウスーに向かってくる。

「これは……幻か」

「まぁ、老蘇。本当にどうしたんです?」

 看護婦は、やはりおかしそうに笑い、リュウスーに寄り添った。

「返還記念のパレード花火ですよ。この国が150年の植民地時代から解放されるというので、街中は大騒ぎです」

 香港チャイニーズたちの記念日ですよ、と賞賛を込めて彼女が呟く。

 とたんに、リュウスーは声にならない嗚咽をもらし、両手で顔を覆った。

 驚いた看護婦が、慌ててその手をのけようとする。が、彼は大きくかぶりを振って、それを拒否した。

「……老蘇……?」

「すまないが、どうか……1人にしてくれ」

 切羽詰まった声を震わせる彼に、彼女はこくりと頷いてそっと退室した。

 一人きり。

 夜の帳がおりたその部屋で、リュウスーの横顔が、色鮮やかな花火に照らされた。

 こんな光景を見るのは、生まれて初めてだった。

 とりどりの色を重ねながら、止むことなく咲き乱れる大輪の華は、次から次へと新しい花々を開いていく。

 夢のような、幻想的なひととき……

 現から身を投じ、食い入るように凝視していると、わぁっと空を震わすような人々の歓声が届いてきた。

 涙があふれてくる。

 こんな日が来るとは思わなかった。

 苦しかった少年時代が彷彿とされ、彼は感慨深げに窓の外を見つめていた。

 その時。

 窓際に、ふと何かの影がぼうっと浮かびあがったのに気づき、リュウスーは目を開いた。

 緩やかな風が入り込むガラス窓の手前で、窓枠に腰を下ろした誰かが、じっとこちらを見つめている。

 静かな微笑を携え、ただ嬉しそうに、無言でこちらに視線を注いでくるその表情を捕らえ、リュウスーは驚きに声を失った。

(……フェイヨン!)

 声にならない叫びが、喉の奥から搾り出される。

 起き上がりたくても、体が思うように動かず、無我夢中で震える手を伸ばした。

 それを受け止めるように、フェイヨンがゆっくりと近づいてくる。

「フェイヨン、本当に、君なのか……!」

 確かめるように、何度も名前を呼びながら、懐かしい親友に握手を求めた。

 ぴんと伸ばされた皺だらけの手のひらを、フェイヨンがそっと両手で包んでくれる。

 穏やかな笑みを浮かべて見下ろされ、信じられない再会を前に、老人の瞳が潤んだ。

「会いたかった、フェイヨン。……ずっと、会いたかったよ」

 ただ微笑するだけの、幻のような彼の姿は、ちょっと目を離すと消えてしまいそうだ。

「なにか話して。どうか、僕に、声を聞かせて……!」

 懇願するように声を震わせたリ ュウスーの顔は、もう老人のそれではなかった。

 子供の姿に回帰し、幼い少年の面影そのままに泣きじゃくるリュウスーは、動けない体を硬直させたまま、その場を動かない。

『……ちゃんと、生きたか……』

「!」

 ずしりと重量を含んだ声音が響き、リュウスーは大きく目を開いた。

 ……ちゃんと生きたのか……?

 その言葉は、深淵の底から這い上がる光に似ていた。

 あの時。

 九龍を離れ、広州にたどり着いた彼は、麻薬の禁断症状と戦いながら、懸命に自分の命を繋いできた。

 過去を懐かしく思いながら、移り変わる時代のうねりに翻弄され、リュウスーは今日まで必死で生き続けてきたのだ。

『ちゃんと、幸せだったか……?』

 確認するように尋ねたフェイヨンの顔は、まるで、すべて分かっているとでも言うように淡い色を落としている。

「あぁ。君がいなくて、とても寂しかったよ」

 溢れる涙もぬぐわず、素直にそう答えると、フェイヨンは一瞬だけ照れたように苦笑し、嬉しそうに頷いた。

 一緒に、花火を見たかった――

 小さな照明弾にはしゃぎ、打ち上げられた赤い閃光を見上げていたあの頃のように。

 貧困と、病気と、麻薬に蝕まれながらも、それでも幸せを感じていた時代が、確かにあったのだと確信できる。

「もう、いいよ。……もう、十分なんだ」

 願いは叶った。

 天寿をまっとうするには、まだ早いかもしれない。

 治療に専念すれば、もう少し長く生きられるかもしれない。

 それでも、今このチャンスを逃すつもりは、リュウスーにはまったくなかった。

「……もう、いいんだ。僕は、たくさん生きたから……」

 リュウスーがすがるようにその首に巻きつくと、フェイヨンはしっかりと彼を受け止めて、その頭上に親愛の唇を落とした。

 ――朋友(パンヤオ)――!

 家族のように、兄弟のように、恋人のように。

 波乱の時代を、すい星のように駆け抜けたひとつの魂は、十分すぎる祝福を受けて、この時、静かにその生涯を閉じたのだった。





                    ****




 夜空に、大輪の花が咲く――

 鮮やかな閃光を放ち、幾重にも広がる夜空の瞬きの下で、

 歴史の波に翻弄されたひとつの時代は、今、新しい時を刻もうとしていた。

 ほんの少し、昔のこと。

 1997年7月1日の出来事だった。













―終―




《あとがき》


いつか書いてみたいと思っていた九龍城砦の話。

 歴史的背景にあまりこだわらず、時代の波の中で生きた主人公たちに焦点をあてて読んでもらえれば幸いです。

男の子の友情を書いたつもりが、なんかBLっぽい?(汗)

 最後まで読んでくださって、ありがとうございました!


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