第一章
――ギルンデルク王国
――――黄土色の町
埃を纏った薄汚い路地裏は日の差さない裏世界のようで、私はどうやらそんな道を走っていた。
徒に積み上げられたゴミの山のその横を駆け抜ける。入り組んだ路地裏は、人を撒くには最適な場所だ。
私を追いかける複数の足音も、角を曲がれば少しは遠くなるけど、真っ直ぐ走っているとまた少しずつ迫ってくる。
家屋から流れ出た水が、水溜りを作っていた。その水面に私の姿が映りこむ。
濃い目の橙色の髪の毛は全体的にショートヘアだが、右上を結んで小さくサイドテールにしている。
動きやすい格好になるよう心掛けているので、古く柔くなった、薄手のコートを身に着けている。ベージュ色なので、あまり目立たなくていい。代わりに汚れは目立つのが難点だが。
色んなところにポケットが付いていて便利な一品だった。
下は黒いショートパンツなので、こちらも運動するのに快適だ。細くしなやかな脚で水溜りをひとっ飛びする。
真っ赤な空き缶を蹴っ飛ばして、積み重なった木箱を飛び越えて、光の差す方へ。
もっと速く、もっと先へ。
どれだけ速く走っても、どれだけ連続して角を曲がっても奴らを撒けないのは、きっとこいつのせいだ。
がしっと強く踏みつけた舗装すらされていない土の地面が、足跡を残して進路を追っ手に知らせてしまっている。
通りの喧騒が私の耳に届いて、ようやく出口が近い事を悟った。
頭上に張り巡らされた洗濯物の影を踏み越えて、ほんの少しだけ足を緩める。
腰に付けた短剣が、走るリズムに伴ってカチャカチャと耳障りな音を立てる。
これも悩みの種で、軽装を心掛けている私には重さだってバカにならないけど、この子は生命線だ。これがなければ、この世界は生きていけない。大体こんな世界どうかしている。武装していなければ生きていけない世界なんて、どうかしているに決まっている。
ナイフより耳障りな物もベルトに吊るしてあるから、今は気にしない方がいいかな。
下水道の漏れ出した腐水が鼻に衝いて、こんな日陰一刻も早く出ようと思う。
ま、物理的に出たところで、精神的に出る事は出来ないんだけど……。
ゴミが山積みにされた角を曲がると、その先に見えた大通り。
「ビンゴ!」
軽く笑うと、ラストスパートを掛けた。大通りに出てしまえば、この追いかけっこもお仕舞いだ。人ごみの中で、奴らがシーフである私を見つけられるとは思えない。短剣捌きと、撒き術には長けているつもりだ。
振り返ると奴らもちょうど角を曲がってきたところで、私は頭だけ振り向いて、笑みを浮かべながらべーっと舌出すと雑踏の中に消えていった。
――――
「痛っ……」
暗がりの中、何か大きいものとぶつかって、私は思わず後方に倒れ込んでしまった。しりもちをついた状態で顔を上げる。
「おいおい、危ないなぁ。お嬢ちゃん?」
嘲笑といったところだろうか。下衆な笑みを浮かべた親方が、アジトに帰着した私の目の前で腕組して立っている。
町外れに今では使われなくなった地下牢がある。土と石ばかりの町に対して、この地下牢は鉄の錆付いた臭いが蔓延っている。
この地下牢が、私が所属する盗賊グループのアジトだ。グループは二十人強で構成されているが、この牢屋はその倍の倍は収容できるくらい広い。薄暗い地下牢は壁に設置してあるたいまつで照らされており、目の前くらいは見えるけどやっぱり数が足りない。
私が普段寝床にしている最奥の独房などは特にそうだ。駆け足で歩けばすぐ誰かとぶつかってしまうほど、視界が悪い。
そうなると、一味の中で最年少で尚且つ唯一の女である私は立場的に厄介な事になるので、気をつけているのだが……。
今現在、こんな奥まったところで親方と衝突してしまっている。まずい。非常にまずい。
しかし、多分というか絶対親方はわざとぶつかってきたのだと思う。
何故なら、親方は普段一番広い、入り口付近の牢獄で過ごしているのだから。
今親方が仁王立ちしているこの場所の先を寝床として使用しているのはグループの中でも私しか居ない。
この先だってまだまだ寝床に使える場所はあるにはあるが、大抵人骨などに占拠されていて、誰も近寄ろうとしない。だからこそ、私はこんな奥まった場所を選んだのだ。
その証拠に、こんな深部に親方が来る事なんて今まで一度も無かった。
では何故親方が普段いるはずもないところで仁王立ちしているのかと言うと、いつも憂さ晴らしの種を探しているのだから、今回もきっとそうに違いない。ここのところ不況だから仕方ないのかも知れないけど。
「んで、何か収穫は?」
彼は何かあるなら寄越せと言わんばかりに一歩距離を詰めてくる。
二メートル近くもある体躯が、巨人のように感じられた。
「……これ」
ベルトから引っ剥がして差し出したのは、手のひらサイズの巾着袋だ。中には金貨がタンマリ入っている。
「ほーお」
親方はニンマリと笑った。
彼は年齢だってもう三十は超えているはずなのに、相変わらず単純な思考の持ち主だ。大柄な体格に、背中に吊るした大剣。まるでトロールみたいに思えてならない。
確かに大規模戦闘になった時、彼ほど頼りになりそうな人は他にいないけど、私たちは盗賊だ。
基本的には隠密に行動している。大規模戦闘なんてそうそうない。つまり、端的に言えば彼は役立たずだ。ここでふんぞり返っているだけ。
彼が何で生計を立てているのかというと、私たちが持ち帰ったお宝だ。
分け前は持ち主と親方で二:一。
普通に考えれば三分の一も分け前を取られるので損だが、それでも皆が親方に着いていっているのには理由がある。
それは、彼が町の自警団と裏の繋がりがあるという一点に限る。
どうやら稼いだ金の一部を自警団に渡す事で、丸め込んだらしい。賄賂というやつだろうか。だから、自警団はここには攻めてこない。一応、彼らは町では真っ当に職務を果たしているが、盗賊の本拠地を攻めるという至極当たり前な手段には出ないのだ。
故に、私たちは安全な拠点を得るために親方に着いていっている。ついでにご機嫌取りも。
腐敗した世界だと思う。自警団が盗賊と繋がるなんて。だからと言って自警団を攻める気にもならない。そもそも盗賊として盗みを働いているのは私たちなのだから。
「お嬢ちゃんにしては頑張ったな。んじゃこれ、頂くわ」
親方は私から巾着袋を丸々ひったくると、そのまま踵を返した。
「ま、待って!」
思わず親方に向けて手を伸ばした。
栄養失調気味で、色白な腕。小枝のような指。泥だらけの手のひら。
「あ?」親方は怪訝そうに、顔だけ振り返る。
「私の分け前は……」
「ハッ! ぶつかってきた罰だ。それにお嬢ちゃんには金なんて要らないだろ? どうしても分けてほしいんだったら、身体でも売るんだな」
ガッハッハ、と化け物のような笑い声。
「そんなっ……」
伸ばした手は力なく下がる。ここでは親方が絶対の存在で、理不尽が当然の世界で、私には反抗する事さえ許されない。
俯く私に、目を細める親方。
「んだよ。俺様がわりぃみたいじゃねえか。生意気だな」
不意に飛んできた蹴りが左頬に直撃して、私は半回転しながら無様に倒れこんだ。
瞼の裏で火花が散って、一瞬視界が真っ白になる。短剣が腰を離れてどこかへ滑っていく。数瞬後カランと、金属が鉄格子にぶつかる音がした。埃と、血の匂い。鉄の味が口の中に広がる。
「ケッ」
遠のく足音。
衝撃を受けた頭が平衡感覚を失ったように渦を巻き、立ち上がる事すらままならない。多分、頬も腫れ上がっていると思う。
あんなウスノロにいいようにされて、悔しくて、涙が止まらなかった。
頬を伝った二筋の透明の線は、やがて床に到達して血と混ざり合う。
汚れた床にうずくまって、日が差し込まないこの場所で、寒さから身を守るように背中を丸めた。
――――
そのまま眠ってしまったのだろう。
私は暗闇の中を浮いていた。
水、水の中を漂っているみたいで、意識は宙を舞う。
あらゆる負を溶かした海の中、漂う。ゆらり、ゆらり。
こんな薄汚れた不潔な場所で、私は何で泣いているのかな。
なんで私は盗みなんて働いてまで生きているのかな。
「これがお前の望んだ事か?」
違う、違う。決して、こんな事を望んだりはしていない。
「盗みを働き、時には人を殺めた。それを望んだのは、自分自身だろう」
私は、ただ生きるために仕方なかった。そうしなければ、自分が死んでいた。今はただ、そういう世界だった。
「生きていて、楽しいか?」
「無様に転がって、泣いているくせに」
楽しくなんか……ない。
小さい頃から物乞いをしていたお陰か所為か、いつしか仮面のような笑顔を浮かべるのが癖になってしまった。
仮面の下で、泣いていた。
「だったらなんで生きる? いっそ楽になっちまえよ」
死ぬのは怖いから。
「散々人を殺しておいて、か? お前なんか、死んでしまえばいいのに」
声にならない声が、形にならない姿が、見えもしない色が、歪む。
歪んで、取り囲んで、責め立てる。それぞれの罵倒で。それぞれの文句で。幾つもの影に囲まれて、私は頭を抱えてしゃがみこんだ。
――嫌だ、来るな。
嫌だ、来るな。――
――――――――
暗闇の中で、私は静かに覚醒した。いやな夢だった。いや、夢だったかどうかさえ定かではないけど……。
遠くで、笑い声が聞こえる。男衆の、下品な笑い声だ。きっとお酒でも盗んできて、回し飲みしているのだろう。いつもの事だった。
瞼を開ける事さえ億劫で、いっそこのまま死んでしまえればいいのに。恐怖を抱く間もなく、気付かない合間に。
四歳の時に故郷である集落を首なしに襲われ家族や知り合いは全員死に、気がついたら路地裏で乞食として生きていた。
その頃既に世界には暗雲が立ち込めていたものの今と比べれば比較的平和で、善人振りたい人たちがよく餌を与えてくれた。
心は酷く冷めているのに、屈託のない笑顔でお礼を言った。そうする事で、気を良くした彼らはまた明日も餌を持ってきてくれる。
程なくして暗黒時代が訪れた。
世界を悪人が支配するようになって、辺境のこの国はまだ王制統治が続いていたけど、不況になった。
餌を持ってきてくれる人は日毎に減って、三日に一回の食事という時期もあった。
七歳になると、自然と生きる知恵を付け始めた。生き残るためには手段を選べない。空き巣を狙っては、強盗を繰り返した。必要なら、殺人だって平気でした。殺した人数は二桁を軽く超える。ひとつの町に留まり続ける事はなかった。いつか足が着くからだ。
幾つかの町を転々し、十一歳になった頃、この町に辿り着いた。
溢れかえる市場。
裕福そうな市民。
強欲に笑う商人。
この国の中でも、二、三番目に大きい町らしかった。そんなお宝の山に、私はもう三年間住み着いている。
今日も、町にやってきた裕福そうな移動商人の一団に目をつけて、
密かに盗みに入ったのだ。しかし、目のいい用心棒を雇っていたらしく、巾着袋をひとつ手に入れたところで見つかってしまった。
慌てて逃げ出したが、多分顔は見られている。普段は顔を覚えられないように行動しているので、これは大失態とも言える。
下手したら、町中に顔が割れてしまう。
長年この町を拠点としてきた私が最も注意していた事は、隠密性だったのに。
しかし、長い目で見れば取立てて問題のない事だ。
移動商人たちはすぐに次の町へと移動する。再び戻ってくるまで半月は掛かる。
それだけあれば……。その間に、資金を集める事は可能だ。
もう、こんな穴倉は嫌だった。理不尽な暴力も、取立ても、窮屈な鳥篭も。
どこか遠くの町に行く。出来るだけ大きな町がいい。そう、例えば、ギルンデルクの城下町……この国の首都。
そこで、新しく生きていくんだ。長い旅路になると思う。たくさんのお金が掛かるだろう。
そして、町に着いた後、生活を安定させるのにもお金が必要だ。買わなければいけないものはたくさんある。
住処だって必要だ。必要とあらば、宿屋に泊まり続ける財力も要る。
そのお金だけ、盗むんだ。それで最後にするんだ。
身勝手だって分かってる。
盗賊の私が、いまさら真っ当に生きていくなんて。
「……許して」
ポツリ、声にならないような声で呟いた瞬間、私を取り巻く環境は大きく揺らいだ。