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第十章


 地に伏せられた体勢で、何とか視線を上げようと力を入れる。

 すると、視界の上端に怪訝な顔をした用心棒の顔が映った。

「まさか……私の自慢の…………やられる……なんて…………ない」とブツブツ呟いているのが風に乗って聞こえてくる。

 どうやら余程深刻な事態らしい。

 頭の中で算段を立てる。

 もしかしたら私が逃げる機会も生まれるかも知れない!

 用心棒は指をパチンと鳴らすと、どこからともなく三体の影が現れた。

 これでこの場にいる影は六体となった。

 内一体は私を押さえつけており、残り五体は用心棒の周りを星型に囲んでいる。

 臨戦態勢のようだ。

 しかし、彼の話によれば、影は七体生み出せるはず。

 残り一体はどこへ行ったのだろう……。


 刹那、強風が広場を一舐めした。

 髪を攫い、土ぼこりが舞うほどのその風の先には、黒服の用心棒なんかよりよっぽど真っ黒なコートにフードを被った青年が一人立っていた。

 既に抜刀された剣は、鈍色の光沢を帯びている。

 ゼルスのコートは風に吹かれはためき、輪郭が陽炎のように揺れていた。

「貴様だよね。私の可愛い影を嬲り殺したのは。そうだよね、そうに違いないよね、なら殺さないと。仇をとらないと、弔い合戦をしないと」

 用心棒は狂ったように語りだす。

 そして、その指先をゼルスに向け、「行きたまえ!」と叫んだ。

 その命令に呼応するように、用心棒の周囲に居た五人の影はするすると地面に潜り込み、地中を移動開始する。

 一方のゼルスは、剣を正面に突き出したまま、不動の態勢を貫いた。

 迎撃を決め込んだらしいが、果たして上手くいくのだろうか……。

 五体の影はゼルスを五方向から囲むと、一斉に潜水艦のように浮上した。

 浮かび上がった影たちは、それぞれの方向から腕を伸ばしゼルスを狙う。

 しかし、どの腕が届くよりも早くゼルスの剣が瞬いた。

 ゼルスを中心に、数本の直線が空に刻み込まれ、それは金色に閃く。

 線は影たちを一体残らず貫いており、閃きと同時に影の動きは止まった。

「うそっ……⁉」

 あの一瞬のうちに、影五体を撃破したというのか。

 崩れ去る影を踏み越えて、ゼルスは駆ける。

 その走りに迷いなど見られなかった。

「ば、馬鹿な……。あ、ああ、こっちに来るな! 来たらそこの女をころ……」

 用心棒が言葉を言い終わる前に、ゼルスの姿が掻き消えた。

「なっ⁉」

 用心棒の男が情けない悲鳴を漏らし、視線をあちこちへ彷徨わせるが、ゼルスの姿を捉えるには至らない。

 ゼルスは既に用心棒の男を抜き去り、私の目の前まで来ていた。

 そのまま剣を一閃、私を拘束していた影を両断する。

「ゼルスさんっ!」

 歓声を上げてよろよろと立ち上がる私の隣で、ゼルスは切っ先を用心棒に向けていた。

「で、そこの女を何だって?」

 何とも漫画チックな言葉を平然と吐く男である。

 味方としては頼もしい事この上ないが、相手にとってはまさに悪い夢のような存在だろう。

 私たちと用心棒の間には十メートルほどの距離が空いているのだが、それでも威圧感が半端ないのだろう。

 用心棒はジリジリと後ずさっている。声さえ出ないようであった。

「アンタの影魔法は確かに便利だが、それだけだな。武器さえ持たない雑兵なんざ相手じゃない」

「あは、あはははっははああはははっはははははははははっはははははは……‼」

「どうした。気でも違えたか?」

「私は、私は……! 用心棒の中でも最強と言われる男なんでねェェエエエエエエエ!」

 用心棒は懐から長さ十センチ余りの針のようなものを取り出すと、奇声を発しながら駆けてきた。

 何か策があるような様子もなく、ただ死へ突っ走るような……。


 そして私は気づいた。

 その〝違和〟に。

「ゼルスさんっ! そいつ、殺しちゃ駄目です……っ!!」

 私の声は届いたのだろうか。それとも、届いた上で、刺してしまったのだろうか。

 私の一歩前で、ゼルスは剣を突き出していた。

 水平に突き出された銀の剣は、用心棒の腹部を串刺しにしていた。

 彼の得物である針は折れており、半分が地面に突き刺さっていた。

「ハハッ……貴様らがギルドから出てきたところを見てたんだよ……。

 大方デュラハンでも倒して、『ジャッジメント・エヴィデンス』を貰って来たんだろ……?」

 掠れ声で、用心棒は語りだす。口元から溢れた血を吐き出して、ニヤリと笑った。

「あれはなぁ! お尋ね者はなれない決まりなんだよ! 残念だな! あは! ハハッハハハハッハハ!!!」

 高らかに、咽び笑う。

「私の主人は聡明な方でね、奴隷商売をしているからか非常に用心深い。私の事も完全には信頼して下さらない。

 ゆえに! 私には盗聴器が付けられているのだ! ゼルス! お前は用心棒を殺した殺人犯となるだろう。

 主人はすぐに貴様を指名手配にする」

「バカな……。ギルドがそのようなデマで動くはずがない」

「主人はこの付近では非常に力のある商人だ。ギルドさえも無視できない影響力を持っているのさ。

 そしてそこの小娘! 貴様は二度も主人を煩わせた……! 命ある限り主人は貴様を追い続けるだろう……。奴隷送りか、娼館送りか、それよりもっと酷い目に……。

 それが盗賊である貴様に相応し…………」

 言い終わる前に、ゼルスが用心棒の腹部に刺さったままの剣を横に薙いだ。

 地面に転がった黒服の男は、こと切れていた。

「…………」

「…………」

 重い沈黙がその場を支配する。

 このままではゼルスが指名手配になり、王属騎士になるという目的を阻害されてしまう。

 チラリとゼルスを見ると、彼は無言で立っていた。

 ただ、抑えがたい威圧が、重力のようにどっと両肩に圧し掛かった。

「ぁ…………」

 そして。

 ずっと隠し通せると思っていた。

 私は盗賊に捕まった哀れな被害者で、ただの一般人。

 ずっとそのままで通そうと思っていた。

「……コノハ」

 静かな声だった。

 何の感情も篭められていない、静かな声。

「お前、盗賊だったのか?」

 今まで、私の前で圧倒的な力を見せてきた彼の剣のその切っ先が、今度はこちらに向けられていた。

 圧倒的な殺意が、全身を縛りつけ、動く事すら適わない。

「俺、お前がタダ者じゃない事は分かっていた。

 だが……だが、本当に、盗賊……なのか?」

 信じたくない、だが聞かなければならない。

 ゼルスのそういった混迷が、私には感じられた。


 喉元にあてがわれた切っ先が、冷たくて、冷たくて、気がつけば双眸から涙が零れ出ていた。

 粒のような涙ではない。しとしとと流れ出る、露のような涙が、頬を伝った。

「――うん。全部、本当。」

 驚くほど掠れた声が出た。まるで自分の声ではないようだ。

 そして私は目を瞑った。

 ゼルスは決して悪を許さない人だから。

 私はその銀の剣で両断されてしまって仕方ないから。

 だから、震える身体を、恐怖を必死に堪えて、〝その時〟を待ち続けた。

 走馬灯というのはどうやら本当に流れるものらしい。

 しかし、私の走馬灯は直近の、ここ数日の思い出ばかりが流れるのだ。

――ゼルスと初めて出会った時の事。洞窟で寝泊りした時の事。初めて辿り着いたこの町で、別れた事。

 洞窟で戦った事。この町でのんびり過ごした日々の事、そして、今しがた救ってもらった事――。


――なのに、何でいつまで経ってもその時は訪れないのだろう。

 少しずつ目蓋を開けると、頭をポンと叩かれた。

 いつかのようにグローブをしているけど、、優しげな手の温度が、髪を挟んで感じられる。

「ゼルスさん……?」

 声を出すと、また目頭が熱くなって、ぼたぼたと落涙が止まらない。

 きっと今の私は涙と鼻水でひどい事になっているんだろうなと思いながら、顔を拭った。

 すると今度は腰の力が抜けて、へなへなと座り込んでしまった。

「……すまない。この世界がこうなってしまったのは俺の責任でもあるから……」

「わたっ……私っ……」

 それは違う、と否定の言葉を口にしようとするが、声にならない。

 嗚咽が込み上げて、発声を阻害する。

「いいんだ。そもそも勘違いしたのは俺だったし……」

 そう言うと、ゼルスは片膝を突いて、私と目線を合わせた。

 そして、真っ直ぐ私の目を見て言った。

「あいつらのキャラバンの名前、分かるか?」

 頭が熱に浮かされたようにじんじんしていて、その質問の意図は分からなかった。

 だから、私はただ単純に三回くらい頷いた。

 それに答えるという事が、どういう意味を持つのかも分からずに。

「『アキンド』っていう……キャラバン……」

 鼻を啜りながら言うと、ゼルスは深く頷いた。

「分かった。ありがとう」

 そう言って、ポケットから何かを取り出した。

 それは金色に輝く龍の象られたバッジ、『ジャッジメント・エヴィデンス』であった。

 そして、よく理解できないうちに、ゼルスはそれを私の服の胸元に取り付けた。

「いいかコノハ。お前が過去に盗賊だった事はもう変わらない事実だ。

 だから、その罪を償うんだ。王属騎士になって、多くの人を救え。お前の実力なら、きっと出来るから」

『ジャッジメント・エヴィデンス』。『悪を裁く者の証』という意味を持つバッジ。

それが今、確かに私の胸元で輝いていた。

「ゼルスさん……」

「それじゃあ、俺はもう行かなきゃ。これやるから。あと、部屋にあるものも全部持ってってくれ」

 そう言い、ゼルスは私に地図を手渡して立ち上がる。

 私も立ち上がろうとするが、腰が震えて立てない。

 慌ててゼルスの足に縋り付く。

「どこに行くんですか⁉」

「……遠いところだな」

 遠いところ、それが精神的になのか、物理的になのか私には分からなかった。

 だけど、もう会えなくなる。そんな気がした。

「……また、会えますよね」

「会えるさ」

 静かで、平坦で、しかし力の篭った声。

 私はその答えに満足して、足から手を離した。

 もう身体の震えは止まっていた。

 涙ももう流れていない。

 袖でごしごしと顔を拭って、立ち上がった。

 私は今、ちゃんと笑えるだろうか?

「ゼルスさんっ!」

 背を向けるゼルスに向かって、叫んだ。

 振り返った彼のフードが、風に煽られて捲れた。


 初めて交差した目と目。

 自然と笑みが零れた。

 今までの作り笑いなんかと違う、心の底からの笑顔だった。

 快活な笑いだった。気持ちの良い笑いだった。

 人生でこんなに、心のそこから笑えたのは初めてだった。

「ありがとうございましたっ」

 するとゼルスも、ふっと微かに微笑んだ。

「またな」

 そして私たちは同時に背を向けた。

 心地よい風が通り抜けた。

 ゼルスの気配はもう、消えていた。


 空を仰ぎ見れば、雲は遠くへ消え去り、清清しい群青が広がっている。

 それは、果てしなく、どこまでも続くようで。

「最高に素敵な世界だったよ、神様」心の中でそう呟いた。

 そうだ、スキップをしよう。

 クスリと笑って、

 私は軽い足取りで一歩を踏み出した。


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