のこされたもの
容疑者死亡により書類送検で終わると確定した『藤澤会幹部銃乱射事件』の実行犯。検死が終わると、通常であれば遺体は遺族へ返すか、所轄の所長の責において火葬手続きを取り自治体運営の無縁墓地に埋葬される。だが、GINは海藤辰巳が最期に遺したものを思うと、彼を無縁仏として割り切ることが出来なかった。
――愛してる。ただそれだけ、なんだ。俺のことを待たずに、前を向いて……笑って生きて。
本間が海藤関連を記した高木ファイルの中から、かつて海藤辰巳の婦女暴行罪被害者として告訴した女があの計画のもうひとりの協力者と判り、そちらへ守谷克美の所在を尋ねてみたのだが。
「引き取り? だったらアタシが引き取るわ。渡しなさい」
こちらが警察手帳を出したにも関わらず、彼女は気の強そうな鋭い目つきでごり押しの要望を突きつけて来た。
「身内でないと。ご厚意は感謝しますが、戸籍上の娘さんに当たる守谷克美さんでないと引渡しが出来ません。ご理解とご協力をいただけるとありがたいんですが」
彼女が口惜しげに下唇を噛む。悩んだ末に彼女が出した答えは
「アタシは高木さんと辰巳しか信用しない。帰って」
だった。GINと本間は、顔を見合わせると同時に、深い溜息を互いについた。
「気持ちは解らないでもないけどさ。辰巳の奴、何もここまで徹底して守谷克美を隠さなくてもよかったのに」
「所帯を持っていないお前には、解らんだろう」
仕事の合間を縫っての、言ってみれば自己満足でしかないこの人探し。海藤辰巳の内縁、守谷克美の行方は、依然掴めないままだった。
「なあ。無縁仏ってことで、細かいことは言われないんじゃないの」
不正が大嫌いな本間に対し、一か八かの賭けに出る。
「……何を考えている」
問う本間の本音は、実際のところ質問などしていない。GINは仏壇へ祀る方の小さな骨壷を手に取ると、それを両手に挟み拝む仕草で頭を下げた。
「これだけ、見逃してくれっ」
「お前こそ、何故そこまで海藤辰巳に拘る」
本間が眉間に深い皺を寄せて訊いて来た。それは糾弾というニュアンスではなく、本当に言葉どおりのものだった。彼は海藤辰巳の思念をGINから掻い摘んで聞いただけだ。あの空気を知るのは、零と自分しか今はいない。
「あの場にいなかったお前には、話したところで解らないよ」
本間へそう告げた言葉が、無意識に彼の言葉をそのままもじった皮肉な答えになっていた。彼はしばらく難しい顔をしたままGINの手許を見つめていた。
「……遺体を確認するまで、あの事件の犯人が市原雄三と信じ続けて待つのだろうか、彼女は」
答えるまでもなかった。高木ファイルに綴られていたふたりの生い立ち、ふたりで生きて来た十七年。荒い画像でもひと目で判る、きつめの大きな瞳をした少女が零していたあの笑顔。辰巳を慕い信じ切った彼女なら、自分の死を隠す工作をして消えた辰巳を疑うことなど思いつきもせず、いつまでも帰りを待つだろう。
「神祐、折りを見て信州ふたり旅と洒落ようか。たまには由良以外の為に有休を使うのもいいだろう」
本間はそう言いながら、骨壷を掲げるGINの手許に着ていたスーツジャケットをばさりと被せた。
ようやく松本を訪れることが出来たのは、それから半年以上も過ぎた如月の寒いある日だった。
駅前通から少し外れた小路のビルの一角で、隠れるように営まれているレトロな雰囲気の喫茶店。フラクトゥーアの白文字で『Canon』という店名が記されている。半年前にも追い返された、あの“克美の幼馴染”という女性にまた逃げられてしまうだろうか。無駄な時間を費やすのかも知れないと思うと少々うんざりするが、今回は“辰巳”がいる。ふたりはそれに賭ける思いで木目の重い扉を開けた。
からん、と涼しげなドアベルの音が店内に慎ましくこだまする。
「いらっしゃ……刑事さん」
前回訪れた際に「克美の幼馴染だ」と自己紹介した愛美が、先に店内へ入った本間を見て途中で言葉を詰まらせた。前回よりは、幾分か警戒の視線が緩い気がする。ラフな私服で来たのが功を奏したと言うべきか。
「愛美さん、今日はオフですから。俺はマンデリンを。神祐は?」
「……本日のお勧め」
促されてもコーヒーの品種なんて解らない。本間も紅茶党のはずなのに。
「……どうぞ」
閑古鳥とも言えそうな無人の店のカウンター席を彼女は勧めた。それを受けて本間が、普段なら決して見せない微笑を浮かべる。所轄を顎で使えるキャリアの癖に、現場顔負けのリサーチをした上で相手を訪ねる。どこにそんな時間があるのかと思う。GINは本間の一歩後ろで、ひとり密かに唇を噛んだ。
「その後、克美さんは見つかりましたか」
本間は前回彼女から受けた「こちらも所在が掴めなくて困っている」という見え透いた嘘を逆手に取る恰好で口火を切った。
「ええ。もうお店にも出てるんですよ。今日は三ヶ月健診でたまたま私が留守を預かってるんですけど」
遠回しに牽制を掛ける彼女の額に小さな玉の汗が浮き出した。
「克美ちゃんが帰って来る前に、お帰りいただきたいです。子供に聞かせられる話じゃないでしょう?」
「子供?」
咄嗟にそう口にしたのはGINだった。
「ええ。彼女、お母さんになったんです」
GINの隣で、カップがかしゃんと耳障りな音を立てた。
「失礼なことを伺いますが、その、父親は」
本間の問う声が、幾分か震える。GINの背中にも嫌な汗が伝い落ちた。
「もちろん、辰巳さんと克美ちゃんの子です。私は反対したけど、認めてあげないとあの子が壊れてしまい兼ねないから」
愛美は一気にそれだけ言うと、瞳を潤ませ唇を噛んだ。
沸騰を知らせるケトルの音が、長い沈黙を破った。GiNはコポコポと小さな音を立ててコーヒー豆が粟立つ様を、軋む思いで漫然と見つめていた。
「……今日伺ったのは、守谷克美さんに海藤辰巳の引き取りをお願いしたかったからなのですが」
本間が目の前に置かれたマンデリンに手を伸ばしながら、ぽつりとそう呟いた。
「やめてください、そんなこと」
悲鳴に近い声が店内に響いた。
「そのようですね」
本間が深い溜息とともにそれだけ返すと、不味そうにコーヒーを口にした。
だがGINはどうしても引き下がることが出来なかった。誰も知らない。海藤辰巳の本当の気持ち。
「これだけでも、彼女の傍に置いて欲しくて」
GINはそう言いながら、デイバッグから白い生地で包まれた小さな包みを取り出した。
「本当はここへ帰りたかったんです、あいつは。せめて、あなたが彼女に返しても大丈夫だと思える時まで預かってもらうことは出来ませんか」
小さな包みから今も尚溢れ続ける彼の想いが、GINの声を震わせた。それが愛美の心を溶かしたのだろうか。彼女が初めて、険しい表情を少しだけ崩した。
「辰巳さんの、知り合いだったの?」
答えようのない問いには、本間が代わりに答えてくれた。
「高木徹警視正の元部下です。我々はあの事件の時、海藤辰巳を救出するよう高木さんから指示を受けていました。こちらへこんな形でしか連れ帰ることが出来なくて申し訳ありません」
カウンター席から立ち上がって深々と頭を下げる本間に次いで、GINも慌ててそれをなぞった。
「部下でしかないあなた達が、どうしてそこまであの事件や辰巳さんに拘るんです?」
警戒の声がGINを焦らした。ついと勢いよく頭を上げる。視界の隅に驚いた表情の本間を捉えたが、どうでもよくなっていた。
「これを届けられなかったら、俺達、これから先もずっと眠ることも出来やしないっ」
GINにしか届かない辰巳の残留思念。あまりにも強く思い過ぎて留まってしまった遺骨から、少しずつ溶け出す辰巳の思念。
――いつか思い出に出来ると思ったのに。帰りたい、あの楽園へ。
「死んだ奴の気持ちは、もうどうでもいいってことなんですか?!」
「神祐、やめろ」
強く腕を引かれて、はっと我に返る。気づけば愛美が大きく目を見開き、静止画像のようにぴたりと動かなくなっていた。
「……すみません」
しくじった。感情に走って、懐柔に失敗した。そう思うと、もう用のないこの場所に長居などしたくはなかった。時が止まったように穏やかに流れる時間。心地よく流れるバロック音楽が、ここへいつまでも留まりたいと思わせる。楽園、と辰巳の思念が語るそれを思うと、居心地のよさ故に、一刻も早く拒まれたここから辰巳を連れ出してやりたかった。GINは折角の芳香も味わわないまま、一気に温くなったコーヒーを飲み干した。本間も立ったまま、財布を懐から出し始めている。
「突然のご訪問を失礼しました。克美さんが戻らない内に退散した方が賢明ですね」
本間はそう言ってカウンターへ紙幣を一枚置き、コートを羽織って踵を返した。
「待って。あの、少しお待ちいただけますか」
本間に続いて扉の方を向いたGINの背後からそう呼び止められた。
「翠ちゃんなら、克美ちゃんの心友だったら、どうしたらいいのか判断してくれるかも」
そう呟く彼女のそれは、独り言だろうか。ただ、その物言いから彼女自身もどうしたらいいのか考えあぐねているということだけははっきりと判った。
「連絡を取っていただけますか」
本間は特に、翠と呼ばれた人物に頓着するでもなく、ただそれだけを愛美に乞うた。
彼女は頷き、すぐに受話器を取ると、ほどなく小さな声で、通話の相手にことの次第を話してくれた。
「うん。……そう、でも本人でないと引き渡せない、って。でも、私よりも翠ちゃんの方が克美ちゃんのことをよく解ってるから……うん、分かった。じゃあ、そこで、今から三十分後」
そんなやり取りのあと、彼女はすぐに向き直り、メモに住所と簡単な地図を書いてふたりの前に差し出した。
「安西翠という女性が、この喫茶店でならお会い出来るそうです。タクシーの運転手さんにそれを手渡せば分かります。この辺りの人なら誰でも知ってる温泉街の入口にあるお店ですから」
「わかりました。ご協力感謝します」
本間がここへ来てから初めて自信に満ちた微笑を浮かべてそう礼を述べた。
温泉街へタクシーで向かう道中で、本間から辰巳に関する別件を聞いた。
「安西翠、恐らく海藤辰巳がこちらで問題を起こした来栖煌輝の案件でごたごたがあった、その妹、来栖翠だろう」
「何それ。あいつ、サ店の店主をしながら潜伏してたんじゃないのか?」
「もぐりで興信所紛いの仕事も請け負っていたらしい。子供のお守に近いものから、浮気調査のほか、最終的には海藤組関連の仕事を高木さんが回していたようだ」
バックミラー越しに運転手がちらりと後部座席を興味深げに覗いているのが目に入った。
(で、その案件の内容って?)
――コロシだ。
「え……どういう」
兄である来栖煌輝から性的虐待を受けていた来栖翠が、自分を殺して欲しいと匿名で克美へ依頼した。克美が彼女を助けて欲しいと辰巳に訴えた、その解決方法が来栖煌輝の消去だった。
(高木さんが、マンション無差別爆破事件として処理する指示を小磯さんに出している記録がファイルに残っていた)
小声で話しているにも関わらず、本間のその言葉が異様にGINの耳に大きく響いた。
「海藤辰巳の独断らしい。その後来栖翠は信州から上京して暮らしていたはずだ。だがなぜか今ここにいる。後ろ暗い事情のある者同士ということで、こちらの言い分も汲めるだけの人物であるといいんだがな」
本間が苦々しいとも期待しているとも見える複雑な顔をしてそう呟いた。
辿り着いたそこは、誰も客の来そうにないと思わせる、随分古びた喫茶店だった。その古ぼけたドアをくぐって、ぐるりと店内を見渡す。
「本間さんと風間さん、ですか」
そう声を掛けて来た、ひとりしかいないその客を見た途端、GINの脳裏に辰巳の回想が巡った。
(守谷克美? いや……違う)
よく見れば、辰巳の中にいた彼女よりも、明るい栗色の髪をしている。毛先には緩いウェイブが掛かり、浮かべる微笑は儚げで寂しい。彼の中にあった克美に、そんな表情は一度もなかった。今にも消えそうな目の前の彼女と、守谷克美が同一人物とは考えられなかった。
「安西翠と申します。遠いところお越しいただいたのに、余計なご足労をお掛けしてすみません」
落ち着いたモスグリーンのワンピース姿は、女性らしい清楚な色気を漂わせていた。落ち着きを感じさせるのは見た目だけではなかった。自分達と同世代と思しき彼女なのに、非常に丁寧な言葉遣いが実年齢よりも年上に見せた。
「こちらこそ、突然お伺いしてすみません」
テーブルの向かい側の席に立ち、本間がそう言って名刺を手渡す。それに倣ってGINも名刺を差し出した。
「守谷克美に関する一切の件について、私が海藤辰巳から任されております」
深々と両手で名刺を受け取りそう語る翠が面を上げた途端、表情を変えた。第一印象を覆すほどの鋭い視線が、彼女の大きな吊り目を一層きつく見せた。
「彼の遺骨は私がお預かりします。ですから、今後一切お訪ねにならないでください。彼女は藤澤会銃乱射事件とは一切関係ありません」
きっぱりと、上から下す語調で淡々と告げる。そこにGIN達のつけいる隙を与えまいとする強い緊張が感じ取れた。
「……ご結婚されたのですね、来栖ではなく、安西翠さん、ですか」
本間が彼女の言葉に対し、まるで見当違いな言葉を返して席についた。あわせて腰掛けるGINの目に、零れそうなほど大きく目を見開く翠が映った。
「誤解しないでいただきたい。我々は職務で伺ったのではなく、あくまでも私用です。むしろお渡ししたいものがここにあるとばれると、我々も具合が悪い状況でして」
厳密に言えば、これもまた窃盗罪です。自嘲気味に零す本間を、翠が驚いた顔で見守りながら彼女自身も腰を落とした。
「あの、ひょっとして、二年前に私が行方不明になった時、高木さんの指示で私を探してくれた刑事さんじゃあありませんか」
また、彼女の表情が変わる。自分で発したその名に、彼女自身が瞳を潤ませた。
「えと」
GINにそんな覚えはない。咄嗟に出たうろたえる声に、本間の声が重なった。
「はい。高木さんとは入職する前から個人的に懇意にさせてもらっていました。彼を目指して刑事になったようなものです。あの人の信頼が、自分にとって何よりの誇りです」
彼女にそう答える本間の言葉は、彼女へプロバガンダするというよりも、見えない誰かに向かっての宣誓に聞こえた。
「自分が、事件当時現場にいました」
本間の言葉を継いで、GINが翠へ掻い摘んだ状況を報告した。少しでも彼女の理解と信用を得たくて、どれだけ待たされても構わないから克美と直接会わせるという確約が欲しかった。
「高木さんから、辰巳を救出し保護隠蔽せよ、との指示を事前に受けていました。高木さんの失脚なんて、想定外だったんです。任務を遂行出来なかったことのお詫びと、それから、彼からの遺言と、それと、彼の一部だけでも、彼女に届けたくて」
次第に言葉がたどたどしくなる。語りながら取り出した小さな包みが、GINの思念を侵蝕していく所為だった。
「風間、さん?」
「巧く、説明出来ません。額に、失礼します」
GINは顔色を変えた本間を敢えて無視し、翠の強い瞳の内訳を信じた。
彼女は克美の心友だ。挑む目つきは、何を引き換えにしてでも守ると訴えている。辰巳の意志を引き継いで。ならばきっと、解ってくれるはずだ。《能力》を晒す危険を冒すほどこちらも同じ思いなのだと。
グローブを外した右手で彼女の額にそっと触れる。一瞬驚き身を退いた彼女が、ぴたりとその動きを止めた。大きな瞳があっという間に小さな波を現し、決壊と同時に彼女の肩が小刻みに揺れた。
「……克美さんに、直接届けるチャンスをください。言葉なんかじゃ、俺には巧く伝えられない」
両手で口を覆って号泣し続ける彼女に、いつまでも待つから、と願い出た。
彼女に触れた瞬間、彼女の思念も途切れ途切れに伝わって来た。たくさんの秘密や克美に隠している事実、思い。辰巳に対する記憶や思い。そして克美とどれほどの繋がりなのか。
「あの事件の実行を遅らせていたのは貴女、だったんですね。貴女は彼女にとって、辰巳とはまた別の意味で、大切な存在だった」
彼女は嗚咽を漏らしながら、小さく一度だけ頷いた。
「そして貴女のタイムリミットも近づいている。両方の気持ちを理解出来てしまう」
のこすものと、のこされたもの。彼女のこんな華奢な細い肩に、そんな重いものがふたつも載っているとは思わなかった。
彼女から引いたGINの右手は、膝には戻らず長い前髪の上から乱暴に目頭へと移された。
長い長い時が流れ、嗚咽さえもなくなり静まり返った店内で、ようやく翠が面を上げた。
「……すみません。取り乱しちゃって。恥ずかしいですね」
彼女はそう言って顔を上げると、無理な笑みを浮かべた。少し砕けた口調が、信頼を勝ち取れたとGINに確信させた。
「それに、驚きました。信じられないけれど」
そう言いながらも、少しも怯えた瞳をしていない。怯むことなくまっすぐGINを見つめるその色は、言外にGINを慰めていた。
「私、すごく秘密好きなんです。風間さんには今解っちゃったんだろうな、って思いますけど」
翠のその言葉を受けて、隣で本間が苦笑する。テーブルの下で本間の手に触れていた手が、既にGINを介して翠の思念を本間にも伝え終えていた。
「相身互い、とご考慮いただき感謝します。翠さん」
本間がそう告げると、また彼女は少し目を見開き、そして小さくくすりと笑った。
「仲がいいんですね。それもテレパシーみたいなもののひとつ、ですか?」
主人とその親友みたい、と呟く彼女が、とても遠い目をしてここにいない夫を懐かしんだ。
「もし私に何かあったとしても、あなた方のご意向は主人に伝えておきますから。あの人も絶対に解ってくれます。辰巳さんのことを“気の毒なバカ”って言ってるくらいですから。秘密は厳守します。諸々すべて」
そう言って深々と頭を下げる。
「男の人には、解らないかも知れません。克美ちゃんは、辰巳さんにしばらく雲隠れをするからと告げられた時、彼の子を望みました。大切な人の子だから、それを願ったんです。自分がどうなろうとも、その人との絆が欲しい」
翠は、そう言って遠いどこかを見つめた。女ってわがままな生き物なんです、と儚げに笑う彼女の言葉が寂しげに響いた。
「私もね、これでも一応新米のママなんです。産むにはリスクが高い、心臓がもたない、と言われていたんですけど、自分の命よりも主人の子を選択しました。主人の家族でいたかったから」
今生きているのは、ただの幸運です、と、彼女は軽い口調でとんでもないことを笑って言いのけた。その胆の据わり具合がGINの中で、本間兄妹の母がよく見せる印象と重なった。
「遺していく私でさえ、そう思っちゃうくらいです。遺された克美ちゃんが彼の子を欲しがる気持ちが痛いほど解ります。辰巳さんは誰よりも家族を欲しがっていた。ずるいかも知れないけれど、そんな彼が自分の子を置いてそのまま帰って来ないはずがないって、克美ちゃんは信じています。信じることで、心が壊れるのを防いでいるような状態……。とてもじゃないけど、今は事実を受け容れるなんて、無理です。だから、あなた方に克美ちゃんと会わせる約束は出来ません」
遠くを見つめる視線が再びふたりのもとへ戻って来たその瞬間、彼女は出会い頭に見せた厳しく険しい、妥協を許さない強い瞳で言外にふたりを威圧した。
「辰巳さんの遺骨は、私と主人が責任を以てお預かりいたします。お渡しください」
「……」
完敗だった。そんな彼女にこれ以上食い下がることは、本間にもGINにも不可能だった。
ギィ、と店の扉が開く。ウェストエプロンをつけたままの店主と思しき初老の男が、少し驚いた顔を見せた。
「ああ、いらっしゃい。なんだね、翠ちゃん、藪ちゃんが急ぎで呼んでるって言うから慌てて行っただに。面倒だからコーヒー淹れろってだけだったじ。まったくあのじじい」
カチャカチャと慌しくグラスの音を立てながら、方言混じりの早口で店主が翠に向かってまくし立てた。
「やだ、そんなことだったの? ごめんなさい。アタシが出掛けるって言った所為ね。急いで帰らなくちゃ」
そんな彼女の切り替えの早さに、内心で舌を巻く。話はしまいとばかりに席を立つ彼女のそれは、鉄壁の防御と諦めざるを得ないとふたりに改めて感じさせた。
「本間さん、それと風間さん」
彼女が振り返ったカウンターからこちらへ向き直り、微笑んだ。
「私、信じてるんです。克美ちゃんが辰巳さんの本当の気持ちを受け容れられる日が来ること」
自信に満ちた誇らしげな微笑を、窓からの陽射しが眩く照らす。GINはその荘厳ともいえる微笑にどきりとした。
「いつかご連絡出来ることを祈りながら過ごすことにします。残りのお届けものを届けていただく為に」
彼女はそれを最後に、二度とふたりに視線を合わせなかった。
そっと包みを手に取ると、壊れかけているその胸に抱きしめた。
「辰巳さん……お帰りなさい……」
一瞬、涙が見えた気がした。彼女と辰巳の、誰も知らない別の関係がある。それはGINと本間だけの胸に留めることにした。
最終の特急で東京へ向かう。
「なあ。本当に連絡くれるかな」
アルプスの尾根がかたどるシルエットが遠のいていく様を窓の内から見つめながら、本間に問い掛けてみた。
「安西翠の亭主次第、というところかな。盲点だった」
「え、知っていたのか」
予想外の答えに、本間の方へ振り向かされる。
「安西翠と言われて思い出したよ。今回の案件とは無関係と判断して、流し読みしかしていなかった。亭主は渡部薬品の専務に新任された、安西穂高だ――恐らく」
告げた本間の口から深い諦めの溜息が漏れる。面倒臭そうな口調で、翠が二年前に行方をくらました原因となった、当時渡部穂高と名乗っていた渡部薬品の御曹司だと説明した。
「世襲が続いた腐り掛けている会社のぼんぼんだ。守谷克美本人との関連性はかなり薄いし、甘ったれた環境で育っていて大した人物ではない」
ついでのように教えられたのは、安西穂高が表向き妻帯者だということを隠しているということだった。
「甘やかされて育った御曹司が、遊び足りなくて隠している、といったところだろう。あの女性も海藤とは別の意味で……不器用な生き方だな」
そんな男など当てにならん、と本間は忌々しげに吐き捨てた。
「彼女、連絡くれるかな」
「どうだかな。俺には解らん。志保の思惑を探るので精一杯だ」
「うわぁ……面倒臭っ。俺、絶対結婚とかしない」
「同棲は認めんぞ。それ以前に家の父親が許すはずがない」
「由良が出て来ちゃえば万事オッケー」
「余裕で冗談を言ってる場合か? この頃父が由良に見合い写真を持って来ているぞ」
「マジ?」
「ぐずぐずしてると、その内本気で由良がキレるぞ」
いつ《能力》のことを打ち明けるつもりだ、と問われても答えられなかった。
「……もうちょっと、考えさせて」
「まったく、由良に関しては小心者だな」
本間が呆れた声で言ったあと、困ったような、それでも笑顔らしい笑顔をようやく浮かべてくれた。
自分に降って湧いた難題から目を逸らそうと、翠のことを考える。
彼女は命の残数を数えながら、それでもいつになるか解らないその日を信じ、希望を捨てずに生きるのだろう。
(どうしてあんなに信じられるんだろうな)
初見の自分のことさえ、彼女は信じた。言動や肩書きという意味ではなく、人間として似た価値観で理解出来るか否か、といった類の、“心の有り様”を信じてくれた。
(本間と由良以外で、初めてだったな)
自分の《能力》を体感し、GINの中に流れる思念を欠片だけでも受け取ったのに、それでも恐れることのなかった人物。
「なあ、本間」
「ん?」
「翠さん、あの人ってなんか天使みたいな人だったな」
「は?」
「あれを俺から直接食らってビビらなかった人って初めてかも知れない」
「俺はどうなる」
「本間は別格。知ってから触ったじゃんかよ、俺」
珍しく拗ねた顔で睨む本間の本意を無視し、GINはささやかな願いを口にした。
「あの人が少しでも長い時間、チビや旦那と過ごせるといいな、とか思った」
「……お前、また由良のことから逃げたな」
「その話はもう終わろうよ……」
この時のGINはまだ、翠とは別の意味で、自分にも考える時間があまり残されていないことを知らなかった。