国を支えていた私を悪役令嬢として追放した結果、無能な王太子は廃嫡され、偽ヒロインは投獄されました ~戻ってきてくれと土下座されても、辺境伯と幸せなのでお断りします~
第一章 卒業舞踏会の断罪
「レティシア・グランフェル公爵令嬢! 貴様との婚約を、ここに破棄する!」
王立学園の卒業舞踏会。
大広間を埋め尽くす貴族の子弟たちを前に、王太子アルベルトは高らかに宣言した。
金糸を編み込んだ白い礼服。国王譲りの金髪。そして、自分こそが正義であると疑わない青い瞳。
その傍らには、淡い桃色のドレスを着た男爵令嬢ミレーヌが寄り添っていた。
彼女は震える肩を両手で抱き、今にも泣き出しそうにうつむいている。けれど、長い前髪の隙間から覗く唇は、わずかに笑っていた。
対するレティシアは、広間の中央に一人で立っていた。
艶やかな黒髪を結い上げ、深紅のドレスをまとっている。その背筋は真っすぐで、突然の断罪にも取り乱す様子はなかった。
「理由を伺ってもよろしいでしょうか、殿下」
「まだ白を切るつもりか!」
アルベルトが怒鳴る。
「貴様は嫉妬に狂い、ミレーヌを階段から突き落とし、教科書を破り、さらには毒を盛ろうとした。これほど悪辣な女を、未来の王妃にするわけにはいかない!」
広間がざわめいた。
もっとも、驚いている者ばかりではない。
王太子の取り巻きである宰相子息ルーカス、騎士団長子息ディオン、神殿長の甥セドリックは、まるで用意していたかのようにレティシアを取り囲んだ。
「君には失望したよ、レティシア」
ルーカスが冷淡に言う。
「ミレーヌ嬢は平民にも分け隔てなく接する心優しい女性だ。それに比べ、君は身分を盾に彼女を苦しめた」
「弱き者を傷つけるなど、騎士の風上にも置けん!」
ディオンが吐き捨てる。
「神もあなたの罪をお許しにはならないでしょう」
セドリックは祈りの仕草をしながら、ミレーヌに同情的な視線を向けた。
レティシアは四人の顔を順に見た。
六歳でアルベルトの婚約者となって以来、王妃教育を受け続けてきた。
王国史、法律、外交、会計学、礼儀作法、乗馬、ダンス、近隣諸国の言語。
幼い頃から自由な時間などほとんどなかった。
アルベルトが勉強を放り出して遊びに出かけた日も、レティシアは王宮に残って彼の分まで政務を学んだ。
ルーカスが提出期限を忘れた学園祭の予算案を、夜を徹して修正したこともある。
ディオンが訓練中の事故で負傷した際には、グランフェル公爵家の伝手で最高の治療師を手配した。
セドリックが神殿への寄付金を集められず困っていたときは、自ら慈善演奏会を開催して資金を集めた。
彼らは、そのすべてを忘れたらしい。
「証拠はございますか?」
レティシアが尋ねると、アルベルトは勝ち誇った顔で指を鳴らした。
一人の侍女が進み出る。
レティシアの身の回りを世話していた下級侍女、アンナだった。
「アンナ。見たものを話せ」
「はい……」
アンナは怯えた様子で両手を握り合わせた。
「レティシア様が、ミレーヌ様のお茶に毒を入れるところを見ました。それから、階段の近くでミレーヌ様に『身の程を知りなさい』とおっしゃっているのも……」
「そうか」
レティシアは静かにうなずいた。
アンナは一瞬、罪悪感に顔を歪めた。
しかし、ミレーヌがわずかに目を細めると、すぐにうつむいてしまった。
「ほら見ろ! 証人もいる!」
「なるほど。証拠は彼女の証言だけなのですね」
「十分だ!」
「毒物そのものは?」
「ミレーヌの体調が回復した以上、残ってはいない」
「診察した医師は、毒物による症状だと断定しましたか?」
「細かい言い逃れをするな!」
アルベルトは顔を赤くした。
レティシアは小さく息を吐いた。
予想どおりだった。
あまりにも幼稚で、あまりにも雑な断罪だ。
けれど、この日のために彼らは周到な準備をしたつもりなのだろう。
国王夫妻は隣国の使節を迎えるため、離宮に滞在している。
グランフェル公爵夫妻も領地で起きた洪水への対応に追われ、王都を離れていた。
レティシアを守る大人がいない夜を、わざわざ選んだのだ。
「レティシア」
ミレーヌが、か細い声で呼びかける。
「私、あなたを恨んでいません。だから、罪を認めて謝ってください。そうすれば、殿下もきっと命までは取らないと……」
「命?」
レティシアは眉を上げた。
アルベルトも一瞬だけ気まずそうな顔をしたが、すぐに胸を張った。
「貴様には王都からの追放を命じる。グランフェル公爵家からも除名してもらう。二度と戻ってくることは許さん!」
「殿下に、臣下である公爵家の籍を勝手に除く権限はございませんが」
「黙れ!」
アルベルトの怒声が広間に響く。
誰も止めようとしなかった。
大半の者は王太子を恐れている。
残りは、レティシアが転落する瞬間を楽しんでいた。
完璧な公爵令嬢。
未来の王妃。
誰よりも美しく、賢く、常に毅然としていた女性。
そんな存在が地に落ちる姿は、退屈な貴族たちにとって極上の娯楽なのだ。
「承知いたしました」
レティシアがそう言うと、一同は拍子抜けしたように静まり返った。
「なに?」
「婚約破棄をお受けいたします。そして、王都からも出ていきましょう」
「ようやく罪を認めたか!」
「いいえ。罪は認めません」
レティシアは、正面からアルベルトを見つめた。
「私は無実です。しかし、殿下が私を信じられないとおっしゃる以上、婚姻関係を結ぶことは不可能でしょう。信頼なき結婚は、互いにとって不幸でしかありません」
「強がるな。公爵家からも捨てられ、何も持たずに生きていけるものか」
「そうかもしれませんね」
レティシアは優雅に一礼した。
「では、これまで私が王太子妃として無償で担当していた業務も、すべて返上いたします」
「業務?」
「聞いていなかったのですか?」
彼女は指を一本ずつ折った。
「王宮舞踏会の予算管理、各領地からの陳情書の分類、孤児院への助成金配分、南部穀倉地帯との小麦売買契約、北方三領との防衛協定、そして今年度の王室借款返済計画です」
アルベルトの顔から血の気が引いた。
宰相子息ルーカスが慌てて口を挟む。
「ま、待て。それらは宰相府の仕事だ!」
「ええ。ですから、今後は宰相府にお返しいたします。ルーカス様なら、きっと完璧になさるでしょう」
「それは……」
ルーカスは言葉を詰まらせた。
彼が毎月レティシアへ押しつけていた書類の中に、それらが含まれていたからだ。
レティシアはディオンを見る。
「グランフェル家が騎士団へ無償提供していた軍馬百二十頭についても、契約を見直します」
「なぜだ!」
「婚約の祝いとして行っていた支援です。婚約が終了したのですから、継続する理由はありません」
「卑怯だぞ!」
「契約書に明記されています」
続いて、セドリックを見る。
「神殿への寄付も今年度をもって停止いたします」
「神に仕える者を脅すのですか?」
「脅しではありません。寄付は善意によるものです。祈りを捧げるだけで資金が湧くのであれば、私の寄付など必要ないでしょう」
くすりと笑う声が広間のどこかから聞こえた。
セドリックの頬が赤くなる。
「もうよい!」
アルベルトは苛立たしげに叫んだ。
「負け惜しみを並べるな! 衛兵、この女を連れ出せ!」
「必要ありません。自分で歩けます」
レティシアは振り返った。
誰一人、彼女と目を合わせようとしない。
ただ一人、壁際に立つ銀髪の青年を除いて。
青年の名はクロード・ヴァルハイト。
王国北西部に位置する辺境伯領の若き当主であり、在学中にもかかわらず国境騎士団を率いて魔獣の侵攻を食い止めた英雄だ。
灰色の瞳には、同情ではなく鋭い観察の光があった。
レティシアは彼に軽く会釈し、大広間を後にした。
背後で、ミレーヌの弾んだ声が聞こえる。
「アルベルト様、これで私たち、幸せになれるのですね」
レティシアは振り返らなかった。
――ええ。
心の中で答える。
幸せになれるものなら、なってみなさい。
第二章 公爵家からの勘当
グランフェル公爵邸へ戻ると、父と母からの手紙が届いていた。
父たちは洪水被害への対応で帰還できないものの、王都で起きた事件については早馬で報告を受けていた。
手紙を開いたレティシアは、思わず目を細めた。
そこには、たった三行しか書かれていなかった。
レティシア、お前の勘当を命じる。
王都を離れ、北西部の廃領カーディナルへ向かえ。
当主グランフェル公爵、エドガー。
近くに控えていた侍女長マリアが青ざめる。
「そんな……旦那様が、お嬢様を勘当なさるなんて」
「お父様らしくないほど短い手紙ですね」
「お嬢様?」
「それに、勘当する娘へ敬称も罵倒もない。お父様なら怒っているときほど、十枚は説教を書きます」
レティシアは手紙を火にかざした。
蝋燭の熱に反応して、紙面に別の文字が浮かび上がる。
それは公爵家の人間だけが知る、特殊なインクで書かれていた。
王命の監視あり。表向きは勘当とする。
カーディナル領および私財の三分の一をお前に譲渡済み。
王家は信用できぬ。生き延びよ。
父と母は常にお前の味方だ。
マリアが両手で口を覆った。
「旦那様……」
「やはり、そういうことでしたか」
レティシアの胸にも、温かなものが広がった。
両親が自分を疑っていないことは分かっていた。それでも、はっきりと言葉にされると安堵する。
さらに封筒の底から、カーディナル領の権利証と金融証書が出てきた。
「マリア。私は明日の朝、王都を出発します」
「お供いたします」
「危険かもしれませんよ」
「お嬢様が六歳の頃からお仕えしております。今さら置いていかれる方が困ります」
「ありがとう」
レティシアは微笑んだ。
「ただし、私のことはもう『お嬢様』ではなく、レティシアと呼んでください」
「それは無理でございます」
「即答ですね」
「たとえ世界中がお嬢様を悪役令嬢と呼んでも、私にとっては大切なお嬢様ですから」
翌朝、二人は小さな馬車で王都を出た。
豪華な見送りはない。
持ち物も、衣類の詰まった鞄と数冊の帳簿だけ。
城門を抜けようとしたとき、後方から馬の蹄の音が聞こえた。
「レティシア嬢」
銀髪の青年、クロードだった。
「ヴァルハイト辺境伯。なぜこちらに?」
「あなたがカーディナルへ向かうと聞いた」
「情報が早いのですね」
「北西部へ向かう道は、私の領地を通る。途中まで同行させてほしい」
「監視でしょうか?」
「護衛だ」
クロードは真顔で答えた。
そのあまりに真っすぐな物言いに、レティシアはまばたきした。
「私が、罪人ではないと?」
「少なくとも、卒業式で語られた罪状は成り立たない」
「なぜ分かるのです?」
「階段から突き落とされたという日、あなたは王宮の図書室にいた。私も同じ部屋にいたから証言できる」
レティシアは記憶をたどった。
確かに三週間前、北方の防衛記録を調べているクロードと図書室で居合わせたことがある。
「では、なぜ昨日、証言してくださらなかったのですか?」
「衛兵が広間の外で待機していた。そこで反論すれば、あなたは拘束されていただろう。王太子は、事実を確認するつもりなどなかった」
静かな声だった。
けれど、そこにはアルベルトへの強い憤りが込められている。
レティシアは少しだけ考えた。
「同行をお願いいたします」
「任された」
そうして、断罪された令嬢と北境の騎士は、ともに王都を離れた。
第三章 追放先は、宝の山でした
カーディナル領へ到着したのは、王都を出てから十二日後のことだった。
そこは地図上では「廃領」と記されている。
三十年前、鉱山の閉鎖によって主産業を失った。
さらに川の氾濫が相次ぎ、耕作地の大部分が泥に埋まった。
前領主は再建を諦め、税を取り立てるだけ取り立てて逃亡。
人口は全盛期の半分以下にまで減少していた。
領都の門は傾き、石壁には蔦が絡まっていた。
レティシアを迎えたのは、痩せ細った老人と十数人の住民だった。
「新しい領主様でございますか」
老人がかすれた声で尋ねた。
「レティシア・グランフェル……いいえ、レティシア・カーディナルです。本日より、この地を預かります」
住民たちの表情は暗い。
貴族など、誰が来ても同じ。
そんな諦めが伝わってきた。
「最初に確認します」
レティシアは彼らを見回した。
「今年、領民から徴収した税はいくらですか?」
老人は答えにくそうに口を開く。
「収穫の七割でございます」
「七割?」
マリアが絶句した。
それでは農民が冬を越せない。
「今後三年間、農地に対する税を免除します」
住民たちは反応できなかった。
言葉の意味が理解できなかったのだろう。
「聞こえませんでしたか?」
「い、いえ。しかし、税をなくしては、領主様が……」
「私は、空腹の民から最後の一粒を奪うつもりはありません。まずは食べて、生き延びてください。税の話はそのあとです」
老人が膝をついた。
続いて、住民たちも次々に頭を下げる。
「領主様!」
泣き出す者までいた。
その日から、レティシアの戦いが始まった。
まずは領内の調査。
荒れ果てた城に寝泊まりし、自ら泥まみれになって田畑を歩いた。
閉鎖された鉱山にも足を運んだ。
帳簿では鉄鉱石の枯渇が閉鎖理由とされていたが、坑道を調べた老鉱夫は首をかしげた。
「鉄は掘り尽くしましたが、青く光る妙な石なら、いくらでも出ます」
「青く光る石?」
見せられた鉱石を、クロードが手に取った。
「魔晶石だ」
「ご存じなのですか?」
「北方の魔術師が、魔道具の燃料として使っている。質の高いものなら、鉄の百倍の値がつく」
レティシアはしばらく黙り込んだ。
そして、老人たちに尋ねる。
「前領主は、この石をどうしていましたか?」
「役に立たない石だと、谷に捨てておりました」
後日、谷を調べると、そこには青い鉱石の山があった。
王都の商人が見れば、卒倒したに違いない。
次にレティシアは、氾濫を繰り返す川を調べた。
川幅そのものには問題がない。
上流に無計画な堤防が築かれ、水の流れが一か所に集中していたのだ。
「この堤防を一部取り壊し、東側に放水路を造りましょう」
「ですが東側は沼地です」
「その沼地を利用します。水をため、乾期の農業用水にするのです」
王妃教育の一環として治水事業を学んでいたレティシアは、領民とともに工事計画を立てた。
クロードは領地から技師を呼び寄せた。
マリアは働く者たちの食事を用意した。
もちろん、すべてが順調だったわけではない。
魔晶石の採掘を再開しようとすれば坑道が崩れた。
放水路を掘れば大雨に見舞われた。
買い付けた小麦の種が半分腐っていたこともある。
それでもレティシアは諦めなかった。
失敗すれば原因を調べ、別の方法を試した。
三か月後、魔晶石を積んだ最初の荷馬車が、北方の魔術都市へ出発した。
半年後、放水路と貯水池が完成した。
九か月後、春まき小麦がかつてないほどの実りを見せた。
領都には商人が集まり始め、新しい宿屋や工房が建てられた。
住民たちは、いつしか彼女を「悪役令嬢」ではなく「青石の女領主」と呼ぶようになった。
そして一年がたつ頃には、カーディナル領は王国北西部でもっとも成長の著しい土地となっていた。
第四章 王都の崩壊
一方、レティシアを追放した王都では、すべてが順調に崩れ始めていた。
最初の問題は、卒業舞踏会の翌日に起きた。
王宮へ集められた陳情書が、一通も分類されていなかったのである。
これまではレティシアが内容を確認し、緊急度と地域ごとに分け、返答案まで用意していた。
ルーカスは、その仕事を「書類を並べ替えるだけ」と思っていた。
「なぜ、こんなに多いんだ!」
机を埋め尽くす紙の山を前に、彼は頭を抱えた。
農業、水害、相続争い、獣害、税金、街道整備。
専門知識がなければ内容を理解することすら難しい。
放置するうち、緊急性の高い報告は山の底へ沈んだ。
西部で発生した家畜の病気への対処が一か月遅れ、被害は三つの領地に拡大した。
次に問題となったのは、軍馬だった。
グランフェル公爵家からの支援が打ち切られ、騎士団は新たな馬を購入しなければならなくなった。
しかし、ディオンは軍馬の相場すら知らない。
悪徳商人に相場の三倍で老馬を売りつけられ、訓練中に何頭も倒れた。
「レティシアが意地悪をするからだ!」
ディオンはそう怒鳴った。
だが、契約書を確認した会計官は冷たく答えた。
「婚約中に限り無償提供すると明記されています。公爵家に非はございません」
神殿では、寄付金の停止によって無料診療所が閉鎖された。
セドリックは不足分を補うため、祈祷料を引き上げた。
すると民衆は神殿へ寄りつかなくなり、収入はさらに減少した。
そして、王太子アルベルトも例外ではなかった。
彼は難しい仕事をレティシアに任せてきた。
外国から届く書簡の翻訳。
大臣たちとの会議に使う資料。
式典で読み上げる演説文。
それらすべてが、突然なくなった。
「なぜ誰も用意していない!」
会議の当日、アルベルトは家臣たちへ怒鳴った。
「殿下ご自身でなさる仕事でございます」
老大臣が答える。
「以前はレティシアがやっていたぞ!」
「レティシア様は、王太子妃になられる予定でしたので」
「ならばミレーヌにやらせろ!」
呼び出されたミレーヌは、山積みの書類を見るなり首を振った。
「こんなの無理です。私、難しいことは分からないもの」
「未来の王妃になるのだぞ?」
「王妃って、綺麗なドレスを着て舞踏会へ出るのがお仕事でしょう?」
その言葉に、家臣たちは凍りついた。
ミレーヌは本気だった。
王妃は微笑み、国王の隣に座っていればよいと思っていたのだ。
政治にも、外交にも、国民の生活にも興味がない。
「でも、アルベルト様なら何でもできますよね?」
甘えた声でそう言われ、アルベルトは引き下がれなくなった。
「も、もちろんだ!」
実際には何もできなかった。
南部との小麦契約の更新を忘れ、王都の小麦価格は三倍に跳ね上がった。
隣国から届いた抗議文を招待状と勘違いし、歓迎の返書を送った。
借款の返済期限を守らず、王室の信用は大きく損なわれた。
それでもアルベルトは、自分の失敗だとは認めなかった。
「レティシアが引き継ぎをしなかったせいだ!」
ついには国王が離宮から帰還し、王太子を叱責した。
「たった一年で、よくもこれほど国を混乱させられたものだ!」
「ですが父上、すべてレティシアが……」
「彼女を追放したのはお前だろう!」
国王は額を押さえた。
「しかも、正式な裁判も調査もせず、卒業舞踏会で婚約を破棄したというではないか!」
「ミレーヌが被害を受けたのです!」
「その証拠は?」
アルベルトは黙り込んだ。
国王はただちに再調査を命じた。
その結果、信じがたい事実が次々に明らかになった。
ミレーヌが階段から落とされたと主張した時刻、レティシアは王宮図書室にいた。
破られた教科書は、ミレーヌ自身が新しい本を買った二日後に処分した古いものだった。
毒を盛られたという日、彼女を診察した医師は「食べ過ぎによる腹痛」と診断していた。
毒物など、最初から存在しなかった。
「そんなはずはない!」
アルベルトは調査報告書を床へ投げつけた。
「ミレーヌは嘘をつかない!」
だが、そのミレーヌはすでに王宮にいなかった。
王室の宝物庫から宝石を持ち出し、行方をくらませていたのである。
第五章 偽りの聖女
ミレーヌが逃亡してから三日後。
王都の裏通りにある粗末な宿屋で、彼女は商人風の男と向き合っていた。
「話が違うわ!」
机を叩き、声を荒らげる。
「私は王太子妃になるはずだったのよ!」
男は黒い外套の奥で笑った。
「あなたがレティシアを追放すれば、それでよかったのです」
「どういう意味?」
「あなたが王太子妃になれるかどうかなど、我々には関係ない」
男は取り出した短剣を、机の上に置いた。
柄には、隣国ザハリア帝国の紋章が刻まれている。
ミレーヌの顔が青ざめた。
「帝国……?」
「レティシア・グランフェルは優秀すぎた。彼女が王妃となれば、この国を内側から弱体化させることは難しい。そこで、あなたを利用した」
ミレーヌは単なる悪意だけで行動していたわけではない。
入学直後、彼女は偶然を装って男に近づかれていた。
男はミレーヌに、わずかな時間だけ相手の判断力を鈍らせる香水を渡した。
それを使えば、身分の高い男性たちから好意を得られると教えた。
効果は確かだった。
香水をつけ、涙を浮かべて頼みごとをすれば、誰もがミレーヌの言葉を信じた。
アルベルトも、ルーカスも、ディオンも、セドリックも。
やがてミレーヌは、自分が特別な存在なのだと思い込んだ。
愛されて当然。
望んだものは何でも手に入る。
レティシアの名誉も、王太子妃の地位も。
「私を助けて」
ミレーヌは震える声で言った。
「宝石ならあるわ。これを売れば、一生遊んで暮らせるでしょう?」
男は宝石袋を手に取った。
中身を確認すると、そのまま懐へしまう。
「ええ。ありがたくいただきます」
「じゃあ、国外へ連れていって」
「必要ありません」
瞬間、宿屋の扉が蹴破られた。
王国騎士団が雪崩れ込む。
男は窓から飛び出したが、待ち構えていた兵士に取り押さえられた。
ミレーヌも逃げようとしたものの、すぐに両腕をつかまれた。
「離しなさい! 私は未来の王妃よ!」
宿屋へ入ってきた国王直属の騎士は、冷ややかに告げた。
「王室宝物庫からの窃盗、および諜報活動への加担の疑いで逮捕する」
「違うわ! 私は騙されたのよ!」
「詳しい話は、裁判所で聞こう」
ミレーヌの叫び声が、薄暗い路地にいつまでも響いていた。
第六章 王国からの召喚状
カーディナル領にも、王都の混乱は伝わっていた。
しかしレティシアは、目の前の領地経営に忙しく、過去を気にする暇などなかった。
領民は二年で三倍に増えた。
魔晶石を利用した街灯が道路を照らし、貯水池の水を動力とする製粉所が完成した。
かつて泥だらけだった中央広場では、毎週市場が開かれている。
すべてが順調に見えたある日、王家の紋章を掲げた馬車がカーディナル城へ到着した。
使者が差し出したのは、国王からの召喚状だった。
レティシア・カーディナル女侯爵に王都への帰還を命じる。
過去の冤罪について公式に謝罪し、王太子との婚約を復活させたい。
「女侯爵?」
マリアが首をかしげる。
「お父様が、カーディナル領の爵位承認を申請してくださったのでしょう」
レティシアは手紙を机に置いた。
「お戻りになるのですか?」
「王命ですから、一度は参ります」
「婚約を受け入れるおつもりは?」
「ありません」
迷いのない答えだった。
窓辺に立っていたクロードは、ほっとしたように息を吐いた。
レティシアは見逃さなかった。
「私がアルベルト殿下と婚約しないことが、そんなに嬉しいのですか?」
「すまない」
クロードは珍しく視線をそらした。
「だが、嬉しい」
「正直なのですね」
「君に関して嘘をつきたくない」
灰色の瞳が真っすぐにレティシアを見つめる。
二年間、クロードは何度もカーディナル領を訪れた。
最初は護衛として。
次は魔晶石の商談相手として。
その次は治水の相談を受けるため。
やがて、理由などなくても訪れるようになった。
ともに領内を視察し、食事をし、夜遅くまで将来の計画を語り合った。
レティシアは、クロードといるときだけ、自分が王妃候補でも領主でもない、一人の人間に戻れる気がした。
「レティシア」
クロードが一歩近づく。
「王都へ行くなら、私も同行する」
「ヴァルハイト辺境伯として?」
「君を愛する一人の男として」
レティシアは目を見開いた。
クロードの耳が、わずかに赤くなっている。
「返事は、今すぐでなくていい」
「ずるい方ですね」
「ずるい?」
「そのように言われて、平静でいられると思っているのですか?」
「それは……すまない」
困ったように眉を下げる姿が、国境の英雄とは思えないほど不器用だった。
レティシアは小さく笑った。
「王都から戻ったら、お返事いたします」
「分かった」
「それまで、お待ちいただけますか?」
「一生でも待つ」
「そこまでお待たせするつもりはありません」
三日後。
レティシアは堂々たるカーディナル女侯爵として、王都へ出発した。
かつて追放されたときとは違う。
馬車の前後を、青と銀の制服を着た騎士たちが守っている。
領民たちは沿道に並び、口々に彼女の帰りを待っていると叫んだ。
「行ってまいります」
レティシアは、自分の力で築いた領地を振り返った。
二年前、彼女はすべてを失ったと思っていた。
本当は違った。
あの日、自分を縛っていた鎖から解放されたのだ。
第七章 二度目の断罪式
王宮の謁見の間には、国王、王妃、重臣たちが集まっていた。
玉座の前では、アルベルトが落ち着かない様子でレティシアを待っていた。
以前より頬がこけ、目の下には濃い隈がある。
レティシアが入室すると、ざわめきが広がった。
二年前よりも美しくなった。
そう囁く声が聞こえる。
黒髪には魔晶石で作られた青い髪飾りが輝き、深い青のドレスにはカーディナル領の紋章が刺繍されている。
追放された哀れな令嬢の面影など、どこにもなかった。
「レティシア」
国王が玉座から立ち上がる。
「まずは王家を代表し、謝罪する。そなたにかけられた嫌疑はすべて虚偽であった」
「謝罪をお受けいたします」
レティシアは礼をした。
「では!」
アルベルトが勢いよく踏み出した。
「これで誤解は解けた! 私たちはもう一度やり直せる!」
レティシアは黙って彼を見る。
アルベルトは、彼女の沈黙を感動だと勘違いしたらしい。
「苦労したのだろう? だが、もう心配はいらない。王太子妃に戻れば、以前と同じ暮らしができる。カーディナル領の管理も、王家が引き受けよう」
重臣たちが顔をしかめた。
謝罪の場で、発展した領地を取り上げるような発言をするとは。
「以前と同じ暮らし、ですか」
レティシアは静かに問い返した。
「ああ。私の隣に戻れ」
「お断りいたします」
謁見の間が静まり返った。
「……なんだと?」
「婚約の復活を、正式にお断りいたします」
アルベルトは理解できないという顔をした。
「なぜだ。私は王太子だぞ?」
「存じております」
「いずれ国王になる!」
「それも存じております」
「ならば断る理由がないではないか!」
レティシアの表情から、わずかに残っていた温かさが消えた。
「理由なら、ございます」
一歩、アルベルトへ近づく。
「殿下は私を信じず、事実を調べることもなく、大勢の前で断罪しました」
さらに一歩。
アルベルトが後ずさる。
「私が王妃教育のために費やした時間を、当然のものとして扱いました。私が行っていた仕事を理解しようともせず、失って初めて価値に気づいた」
「反省している! これからは大切にする!」
「それは、私個人が大切なのですか? それとも、私の能力と領地と財産が必要なのですか?」
「もちろん、君自身だ!」
「では、私の好きな花をご存じですか?」
アルベルトは口を開けた。
答えられない。
「私の誕生日は?」
「それは……春だったな」
「秋です」
ざわめきが起きた。
「私が苦手な食べ物は?」
「知らん。そんなことに何の意味がある!」
「意味はございます」
レティシアは言い切った。
「殿下は、私を見ていなかった」
アルベルトの顔が青ざめる。
「殿下が必要としているのは、自分の失敗を片づけ、王国を立て直してくれる都合のよい道具です。私は、二度とあなたの道具には戻りません」
「レティシア!」
「それに」
彼女は謁見の間の入口へ視線を向けた。
扉が開き、拘束されたミレーヌが騎士に連れられてきた。
その後ろには、ルーカス、ディオン、セドリックもいる。
三人とも爵位継承権を剥奪され、裁判を待つ身だった。
「本日は、私ではなく、皆様が裁かれる日です」
国王が低い声で命じた。
「証人を」
かつてレティシアを裏切った侍女アンナが入室した。
彼女は床へ膝をつき、泣きながら告白した。
「すべて、ミレーヌ様に命じられました」
「嘘よ!」
ミレーヌが叫ぶ。
「私は、レティシア様が毒を入れたところなど見ておりません。弟の治療費を出す代わりに、証言するよう言われたのです」
「あなたが勝手にやったことでしょう!」
「手紙が残っています」
アンナが差し出した手紙には、ミレーヌの命令が記されていた。
筆跡鑑定も終わっている。
続いて、ザハリア帝国の間者が記録していた報告書が読み上げられた。
ミレーヌへの指示。
判断力を鈍らせる香水の受け渡し。
レティシアを排除し、王国上層部を混乱させる計画。
すべてが明るみに出た。
「違うわ! 私は被害者よ!」
ミレーヌは泣きながらアルベルトに助けを求めた。
「アルベルト様、信じてください! 私はあなたを愛しているの!」
しかし、香水の効果はとうに切れていた。
アルベルトは、初めて目の前の女性を冷静に見た。
華やかな美貌の裏にある、身勝手な欲望。
誰かを陥れても、自分だけは愛されると信じて疑わない傲慢さ。
「私は……こんな女のために……」
アルベルトは崩れ落ちた。
「レティシア、許してくれ。私はどうかしていたんだ」
「香水の影響があったことは認めます」
レティシアは答えた。
「しかし、香水は存在しない感情を生み出すものではありません。判断力を鈍らせ、欲望を増幅しただけです」
アルベルトの肩が震えた。
「殿下の中には最初から、学ぶことから逃げたい気持ちや、忠告する者を疎ましく思う気持ちがあった。ミレーヌ様は、それを利用したにすぎません」
「では、私は……」
「ご自身の意思で、私を断罪なさったのです」
今度こそ、アルベルトは何も言えなくなった。
判決が下された。
ミレーヌは貴族籍を剥奪され、王室財産の窃盗と帝国への協力の罪で、北部修道院への終身幽閉。
ルーカスは宰相家の継承権を失い、地方役所で無給の補佐官として働くことになった。
ディオンは騎士資格を剥奪され、国境砦の労働隊へ送られた。
セドリックは神殿から破門され、横領した寄付金の返済を命じられた。
そしてアルベルトは、王太子の地位を廃された。
「第二王子エリオットを、新たな王太子とする」
国王の宣言が響く。
「アルベルトには西部の小領地を与える。自らの手で民を治め、王族としての責任を一から学べ」
「父上……」
「不満か?」
「……いいえ」
元王太子は、力なく首を振った。
それは観客を集めた華やかな復讐ではなかった。
処刑も、流血もない。
けれど彼らは、自分たちが軽んじてきた責任を、生涯かけて背負うことになった。
レティシアにとって、それで十分だった。
第八章 悪役令嬢の選んだ未来
裁判の翌日。
レティシアは王宮の庭園に呼び出された。
待っていたのは、国王と王妃だった。
「本当に、王家へ戻る気はないか」
国王が尋ねる。
「新しい王太子エリオットとの婚約も考えられる。彼はアルベルトと違い、勤勉な青年だ」
「陛下のお申し出は光栄です。しかし、お断りいたします」
「理由を聞いてもよいかしら」
王妃の問いに、レティシアは微笑んだ。
「私はもう、誰かの妻になるためだけに生きたくありません」
六歳で婚約し、未来を決められた。
王妃になることが自分の幸福だと教え込まれた。
けれど今は違う。
カーディナル領には、彼女の帰りを待つ人々がいる。
ともに働く仲間がいる。
そして、その隣にいたいと思える人がいる。
「私は、カーディナルの領主として生きていきます」
国王はしばらく黙っていたが、やがて穏やかにうなずいた。
「そうか。それが、そなたの選ぶ道なのだな」
「はい」
「ならば、王家は今後、カーディナル女侯爵の地位と領地の独立した統治権を保障する」
「感謝いたします」
庭園を出ると、クロードが待っていた。
「すべて終わったのか?」
「ええ」
「悔いはない?」
「ありません」
二人は並んで歩き始めた。
秋の薔薇が咲き誇る小道。
かつてアルベルトとの婚約式が行われた場所でもある。
あの日のレティシアは、王太子妃にふさわしくあろうと懸命だった。
本当の自分が何を望んでいるのかなど、考えたこともなかった。
「クロード様」
彼女は足を止めた。
「お返事をしてもよろしいですか?」
クロードの表情に緊張が走った。
国境で一万の魔獣と対峙しても眉一つ動かさなかった男が、今は判決を待つ罪人のように固まっている。
「聞かせてほしい」
「私は、あなたをお慕いしております」
クロードは息を止めた。
「それは……」
「求婚を、お受けいたします」
「本当に?」
「この場で撤回しましょうか?」
「いや、絶対にさせない」
クロードはレティシアの手を取った。
けれど、すぐに何かを思い出したように力を緩める。
「すまない。痛くなかったか?」
「大丈夫です」
「私は、その……こういうことには慣れていない」
「存じております」
「君を幸せにしたい。だが、君のやりたいことを邪魔するつもりはない。結婚後もカーディナル領を統治してほしい。私も可能な限り支える」
それは、かつてアルベルトが一度も言わなかった言葉だった。
命令でも、所有の宣言でもない。
レティシアの意思を尊重し、ともに歩くという約束。
「私からも、一つよろしいですか?」
「何でも」
「私も、クロード様を幸せにしたいです」
灰色の瞳が見開かれた。
やがて、クロードは泣きそうなほど優しく笑った。
春。
二人の結婚式は、カーディナル領の中央広場で行われた。
王都の大聖堂ではなく、領民たちが毎週市場を開く場所。
豪華な宝石や金細工ではなく、領内で育てた花と、青い魔晶石の灯りが会場を彩る。
グランフェル公爵夫妻も出席した。
「美しくなったな、レティシア」
父はそう言って泣き、母はその横で父の泣き顔を笑った。
マリアは誰よりも早く泣き始め、式が終わるまで一度も泣きやまなかった。
領民たちは歌い、踊り、夜通し二人を祝福した。
数年後。
カーディナル領とヴァルハイト辺境伯領は、王国最大の交易地域へと発展した。
魔晶石を利用した暖房設備が北方の家々に普及し、冬に命を落とす者は大幅に減った。
貯水池と放水路の技術は他領にも広まり、洪水と干ばつの被害を減らした。
両領が設立した学問所では、身分に関係なく子どもたちが学べるようになった。
レティシアは領主として働き続けた。
クロードも辺境伯として国境を守りながら、時間があればカーディナルへ帰った。
意見が違えば話し合い、失敗すれば互いに補い合った。
完璧ではない。
だからこそ、二人は幸せだった。
一方、アルベルトは西部の小領地で、初めて民の現実を知った。
作物の不作。
壊れた橋。
限られた予算。
最初の数年は失敗ばかりだった。
それでも逃げることだけは許されない。
かつてレティシアが作った行政書を読み、頭を下げて農民から話を聞き、少しずつ学んでいった。
彼がレティシアと再会することは、二度となかった。
ただ毎年、婚約破棄をした日になると、一通の謝罪文をカーディナルへ送った。
レティシアは返事を書かなかった。
許さないためではない。
アルベルトへの怒りも、恨みも、もう残っていなかったからだ。
彼女にとって、王都で過ごした日々は遠い過去になっていた。
ミレーヌは北部修道院で、毎日働くことを命じられた。
最初は泣き叫び、王太子が助けに来ると信じていた。
一年が過ぎても、二年が過ぎても、誰も来なかった。
ちやほやしてくれる者もいない。
甘い言葉をささやけば、代わりに仕事が減ることもない。
自分の食べるパンは、自分で麦を挽かなければ得られない。
ある冬の日、ミレーヌは修道院の窓から、魔晶石の街灯が輝く町を見た。
それがレティシアの領地からもたらされた技術だと知り、床に座り込んだ。
奪うことしか考えなかった自分。
失ってもなお、新しいものを築き続けたレティシア。
二人の差を、ミレーヌはようやく理解した。
けれど、もう遅い。
誰かを不幸にすれば、自分が幸せになれる。
そう信じた代償を、彼女は生涯かけて支払い続けるのだった。
終章 もう、悪役令嬢ではありません
結婚から五年後。
カーディナル城の執務室で、レティシアは一通の手紙を読んでいた。
差出人は、王都の王立学園に通う少女だった。
少女は男爵家の生まれで、身分を理由に同級生から嫌がらせを受けているという。
レティシア様は、悪役令嬢と呼ばれても負けなかったと聞きました。
私は怖くて、何も言い返せません。
どうすれば、あなたのように強くなれますか。
レティシアはペンを取った。
少し考え、ゆっくりと返事を記す。
私は、最初から強かったわけではありません。
怖いときも、悲しいときもありました。
強さとは、一人ですべてに耐えることではありません。
助けを求めること。
間違っているものを、間違っていると言うこと。
そして、他人に決められた物語ではなく、自分の人生を自分で選ぶことです。
あなたは一人ではありません。
同封した紹介状を持って、学園長を訪ねてください。
必ず力になります。
手紙を書き終えたところで、扉が開いた。
「レティシア、休憩しないか」
クロードが顔を覗かせる。
その後ろには、五歳になる娘と三歳の息子がいた。
「お母様!」
娘が駆け寄り、レティシアの膝へ飛びつく。
「今日は、街のお祭りでしょう?」
「そうでしたね」
「早く行きましょう!」
「お仕事は終わった?」
息子が首をかしげる。
「ええ。ちょうど今、終わりました」
レティシアは手紙に封をし、机を離れた。
城の外へ出ると、中央広場は多くの人でにぎわっていた。
焼きたてのパンの香り。
子どもたちの笑い声。
魔晶石の飾りを売る露店。
水路のそばでは、若者たちが楽器を奏でている。
ここはかつて、誰もが見捨てた廃領だった。
そして自分は、悪役令嬢として追放された。
もし、あの卒業舞踏会の日に戻れるとしても。
レティシアは、きっと同じ道を選ぶだろう。
婚約破棄を受け入れ、王都を去り、この場所へ来る。
傷つかなかったことにはしない。
裏切りを美しい思い出に変えるつもりもない。
それでも、あの日の涙も怒りも、今へ続く道の一部だった。
「何を考えている?」
隣を歩くクロードが尋ねる。
「昔のことを、少しだけ」
「つらいこと?」
「いいえ」
レティシアは首を振った。
「私が、私になるまでのお話です」
子どもたちが広場へ駆けていく。
クロードがレティシアの手を握った。
穏やかで、温かな手だった。
「幸せか?」
「ええ」
レティシアは、迷わず答えた。
「とても幸せです」
悪役令嬢。
かつて人々は、彼女をそう呼んだ。
けれど、他人がつけた呼び名など、その人の人生を決めるものではない。
傷つけられたからといって、傷つける側になる必要はない。
奪われたのなら、また築けばいい。
捨てられたのなら、自分を必要としてくれる場所を作ればいい。
誰かの物語の悪役にされたとしても、自分の物語では主人公でいられるのだから。
レティシアは家族とともに、光あふれる広場を歩いていった。
もう、誰にも振り返らない。
彼女の物語は断罪によって終わったのではない。
あの日、ようやく始まったのだ。
完




