エピローグ あなたの息が、風になる ― 祈りのように、恋のように ―
午後の光がやわらかく、部屋の中を包んでいた。
ベランダの鉢はもう花をつけ、ミントは青く伸びている。
風が吹くたび、葉が小さく揺れ、ささやくような音を立てた。
みさとは、机の上に日記を開いた。
もう何も書くことはないのに、
紙の上には、息をするような白い余白が残っている。
そこに、光の粒が落ちた。
珠の破片――あの銀の光。
手のひらに乗せると、まだ温かい。
「あなたの息、まだここにあるんだね」
そうつぶやいて、目を閉じる。
耳を澄ますと、遠くから風の音。
それは誰かの呼吸にも似ていて、
ひとつひとつが、懐かしい。
空の青が、少しずつ深くなる。
鳥の影が窓を横切り、
風の中で猫の鳴き声が響いた。
あの灰色の猫が、屋根の上にいた。
夕陽を背に、ゆっくりとこちらを見た。
まるで「大丈夫」と言うように、
尾をひと振りして、空に溶けていく。
みさとは微笑んだ。
「わたし、ちゃんと息してるよ」
風が頬を撫で、髪を揺らした。
その風の中に、悠真の声が混じっていた気がした。
――ありがとう。
どこからともなく聞こえるその声に、
みさとは静かに頷いた。
目を閉じて、ゆっくりと息を吸う。
世界が胸の奥まで満ちてくる。
吐くとき、涙がこぼれた。
けれど、それは悲しみではなかった。
呼吸の音が、風の音と重なる。
それは、もう区別のつかない“いのちの響き”だった。
ミントの葉が揺れる。
陽の光がそれを透かし、部屋に緑の影を落とす。
彼女は日記を閉じ、静かに呟いた。
「生きるって、息を分け合うことなんだね。」
外の空に、白い雲が流れていく。
その中に、微かに銀色の光。
――風になった彼が、笑っている。
そして、みさとは微笑んだ。
もう、どんな夜も怖くなかった。
息の果て 風となりゆく 祈りかな
生きて出会えし 奇跡を抱いて。




