第6章 息を渡す日 ― 息が風になり、想いが残る ―
あの日から、季節がひとつめくれた。
街の空気は乾いて、朝の光は少し硬い。
みさとは、ベランダのミントを剪っていた。
葉の匂いが立ちのぼるたび、あの夜の呼吸が蘇る。
悠真とは、それから何度も会った。
でも、ふたりの距離は少しずつ変わっていった。
近づくことよりも、「同じ呼吸でいること」のほうが
むずかしいのだと知った。
彼は旅に出るという。
古い工房を継ぐため、海の向こうへ行く。
「帰ってきたら、また猫の話をしましょう」
そう笑う声に、穏やかな風が混じった。
「ねえ、息を忘れないで」
みさとは小さく言った。
その言葉は、風に乗って彼の背中に届いた気がした。
悠真は振り向かずに手を振った。
ベランダの鉢に手を伸ばす。
ミントの葉が風に揺れ、音を立てる。
その音は、誰かが「生きている」と知らせているようだった。
空を見上げる。
雲が形を変えながら流れていく。
風の中に、ひとつの息が混ざる。
それは、確かに彼のものだった。
みさとは目を閉じ、深く息を吸った。
冷たい空気が肺の奥まで届く。
その瞬間、胸の奥で珠が光った。
――まだ、つながっている。
彼がいない空にも、声はある。
姿を見せない猫のように、
息だけがそっと、彼女の頬を撫でていった。
部屋に戻ると、机の上に古い日記帳。
初めて猫になった夜の記録が、そこにあった。
震える文字で書かれた一文。
「わたしは、息をしている。」
その文字をなぞる。
それだけで、涙が零れた。
窓の外で風が鳴る。
まるで、誰かが笑っているようだった。
みさとは日記を閉じ、両手で珠を包む。
それはもう、光らなかった。
でも温かかった。
まるで、心臓の奥でまだ息をしているみたいに。
「ありがとう」
その言葉は小さく、でも確かだった。
外の空気が動いた。
風が、彼女の髪を揺らす。
どこかで猫が鳴いた。
新しい季節の音だった。
渡す息 見えぬ空へと 溶けていく
呼ばれずともに 在るということ。




