第3章 雨のあとの部屋 ― ぬれた空気の中で、心が息を探す ―
雨は、まだ降っていた。
細い糸のような雨が、窓の外をすべっていく。
部屋の中の空気が湿って、息を吸うたびに胸の奥が重くなる。
みさとはカーテンの隙間から外を見ていた。
屋根を打つ雨音が、鼓動みたいに響く。
その音に合わせて、体のどこかが少しずつ猫に近づいていく気がする。
指の先が、柔らかく痺れていた。
テーブルの上には、ミントの鉢。
真央からもらったまま、まだ根が浅い。
雨の日の匂いと混ざると、甘いような、寂しいような香りがした。
「……どうして、息をするだけで痛いんだろう」
小さくつぶやく。
答えはない。
息の代わりに、部屋の中で猫の鳴き声がひとつ響いた。
振り向くと、あの灰色の猫がいた。
いつのまにか、窓の下に座っている。
濡れた毛を整えながら、静かにみさとを見上げていた。
「あなた、また来たの?」
そう言いながら、そっと手を差し出す。
指先が空気を撫でると、猫は瞬きをしてから、ゆっくり歩み寄った。
その瞬間、胸の奥で“音”が生まれる。
――あの夜と同じ、言葉にならない音。
息が合う。
彼女と猫のあいだに、小さな呼吸の橋がかかる。
時間が溶けて、現実が少し遠くなる。
「……おかえり」
自分でも驚くほど、自然にその言葉が出た。
猫の体温が、掌を通して伝わってくる。
そのぬくもりに合わせて、彼女の心も少しずつ溶けていった。
外の雨が、急に弱くなる。
静けさの中で、誰かの足音が近づいてくる。
扉をノックする音。
「管理人です、ちょっといいかね」
みさとは慌てて猫を抱き上げ、ソファの影に隠した。
「どうぞ」
ドアを開けると、麦わら帽子をかぶったおばあさんが立っていた。
「雨漏りしてないかね。ここの屋根、少し古くてね」
「大丈夫です。ありがとうございます」
おばあさんはうなずき、部屋を見渡した。
猫の匂いに気づいたように、目を細める。
「へえ、いい匂いがするねえ。
雨のあとって、記憶がいちばん濃いのよ。
息を吸うたびに、昔の自分が顔を出す」
その言葉に、みさとは目を伏せた。
おばあさんは微笑む。
「猫を見かけたら、優しくしてあげなさい。
人より先に、心の湿り気を見抜くからね」
そう言い残して、ドアを閉めた。
残ったのは、雨上がりの静寂。
窓の外に、虹の気配。
みさとはそっとソファの影を覗いた。
猫はいなかった。
代わりに、ミントの葉の上に小さな水滴が光っていた。
それは、まるで息の名残りのように揺れていた。
彼女は指先でその水滴をなぞり、掌に移した。
冷たくて、やさしい。
そして、その中に自分の顔が小さく映っていた。
――わたしは、まだここにいる。
胸の奥でそう呟いた。
雨の匂いの中に、微かな光が戻っていく。
息の跡 指でなぞれば 水の音
忘れた心が また呼吸する。




