第1章 朝の気配と、猫の眼
朝の光は、まだ眠そうに差し込んでいた。
カーテンのすき間から流れこむ空気が、頬に触れる。
みさとはまばたきをして、夜の名残りを追い出すように小さく息を吐いた。
あの珠のことを思い出した。
昨夜、夢と現実のあいだで見た光。
目を覚ましたときには、もうどこにもなかった。
――夢だったのかもしれない。
けれど、指先に残る感触だけが現実だった。
そこだけが、まだ温かい。
みさとはシャツを着替え、台所へ向かう。
朝の空気は澄んでいて、冷たい水のように肺の奥まで入ってくる。
息を吸うたびに、心臓がわずかに跳ねる。
その音を確かめるように、彼女は深呼吸をした。
「……今日も、ちゃんと息ができる」
そう呟くと、ひとりで少し笑った。
外では、郵便受けの音がした。
新聞の投げ込まれる鈍い響き。
彼女は玄関を開ける。
そこに、悠真がいた。
「おはようございます。」
低い声。柔らかな朝の音。
隣の家の青年で、同じアパートの住人。
いつもより少し早い時間に会うのは、これが初めてだった。
「おはようございます。早いですね。」
みさとが言うと、彼は照れくさそうに笑った。
「仕事があるんです。……でも、空気が気持ちよくて。」
息を吸いながら言ったその顔が、光に透けていた。
その瞬間、みさとは胸の奥がざわめいた。
昨日の夜に聴いた“音”の続きを、どこかで感じた気がした。
「じゃあ、いってらっしゃい。」
そう言うと、彼は軽く会釈して歩き出した。
足音が遠ざかるたび、朝の空気がまた静かになる。
――どうしてだろう。
息をするたび、胸の奥が少し苦しい。
部屋に戻ると、窓辺のカーテンがわずかに揺れた。
その布のすき間から、小さな光が差しこむ。
光の筋の中で、ひとつの影が動いた。
猫だった。
見覚えのない、灰色の猫。
みさとをまっすぐ見つめている。
その目は、昨日の夢と同じ色をしていた。
猫は一度、ゆっくり瞬きをした。
それが合図のように、みさとは息をのんだ。
体の奥で、なにかがまた微かに震えた。
――呼ばれている。
でも、何に? 誰に?
答えはまだ、胸の奥に沈んでいた。




