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陸軍モノ

嵐の中の戦い

作者: 仲村千夏

 稲光が夜空を裂いた。

 轟く雷鳴とともに大地が震え、雨脚は容赦なく兵士たちを打ちすえていた。八月のはずだが、吹きつける風は冷たく、体温を奪っていく。戦場はもはや泥の海と化し、兵士たちの軍靴は足をとられて重さを増すばかりだった。


 ドイツ軍の分隊が這い進んでいた。敵の陣地まで残り二百メートル。だが、視界は雨と泥で数十メートルに限られている。頼りになるのは地図ではなく、前方にかすかに灯る赤い閃光――ソ連軍の銃口の火だけだ。


 「止まるな! 塹壕まで突っ込むぞ!」

 先頭を進むハルトマン伍長の怒声が、雨音にかき消されそうになる。彼は二十五歳。かつては大工見習いだったが、今は泥だらけの鉄兜をかぶり、手にはKar98kを握っている。背後には七人の部下が続いていた。


 雨は彼らに味方していた。ソ連側の見張りも、これほどの嵐の中では動きに気付くのが遅れる。だが同時に、彼らの銃も湿気に弱り、手榴弾の導火線も濡れて危うい。自然すら敵に回ったかのような戦いだった。


 稲光が再び走り、大地を白く染める。その瞬間、前方のソ連陣地に人影が蠢いた。叫び声と共に、モシン・ナガンの銃口が火を噴く。雨の帳を破る銃声。弾丸は泥を跳ね、すぐ横をかすめていった。


 「散開!」

 伍長の声と同時に、兵士たちは泥へ身を投げ出す。冷たい水が制服を貫き、全身が重くなる。だが止まれば蜂の巣だ。ドイツ兵は匍匐しながら少しずつ距離を詰める。弾丸の雨をかいくぐり、ただ前へ。


 ソ連側でも必死の防御が続いていた。

 塹壕の中で、アレクセイ上等兵は震える手でライフルを握り直す。彼は二十歳になったばかり、農村出身の若者だった。徴兵されて一年、数度の戦闘をくぐり抜けてきたが、こんな嵐の中の戦いは初めてだった。


 「奴らが来るぞ! 撃て!」

 分隊長が怒鳴り、兵士たちは次々と射撃する。雨で照準は狂い、銃身も熱を持つ。だが敵は迫っていた。泥まみれで這い寄る影が稲光に浮かび上がり、確かに近づいているのが分かる。


 アレクセイは照星をにらみ、息を止めた。狙いを定めて引き金を引く。乾いた反動と共に弾丸は飛び、前方の黒い影が崩れ落ちた。だが、安堵する間もなく別の影が近づいてくる。敵の数は尽きることがない。


 「くそっ……」

 彼は泥に伏せ、再び弾を込める。震える手でクリップを押し込み、銃を構える。彼の耳には、もう雨の音と銃声の区別がつかなくなっていた。


     ◇


 ドイツ軍の突撃は徐々に加速していた。伍長は振り返り、仲間に合図を送る。

 「シュトール! 手榴弾を!」

 若い兵士が頷き、懐から卵型手榴弾を取り出した。雨で濡れたピンを引き抜き、前方へと投げ込む。泥を跳ね上げ、轟音が響く。塹壕の一角が崩れ、悲鳴が混じる。


 「今だ、突入しろ!」

 伍長の号令で兵士たちは一斉に立ち上がり、塹壕へと飛び込む。そこは狭く、泥水が溜まった壕だった。すぐ目の前に赤軍兵が立ち上がり、銃剣を突き出す。伍長はとっさに銃床で受け止め、もみ合う。泥に転げ、互いの顔に雨と汗が滴る。


 「ウラーッ!」

 別の赤軍兵が叫び声を上げて突っ込んできた。彼の銃剣が若いドイツ兵の脇腹を裂き、悲鳴が上がる。だが直後にMG34が火を噴き、敵をなぎ倒した。狭い塹壕に弾幕が走り、血と泥が混じって飛び散る。


 伍長は息を荒げ、敵兵の胸から銃剣を引き抜いた。視界の端で、仲間が次々と倒れていくのが見える。嵐の中では誰も助けを呼べず、ただ自分の生存だけに必死だった。


     ◇


 アレクセイは耳をつんざく爆音に吹き飛ばされ、泥水に叩きつけられた。鼓膜が破れたのか、世界は一瞬静まり返る。目を開けると、隣の戦友が動かなくなっていた。血が雨水に溶け、赤い筋を描いて流れていく。


 「いやだ、まだ死ねない……」

 彼は必死に立ち上がり、銃を構える。塹壕にはドイツ兵がなだれ込んでいた。泥だらけの顔、獣のような息遣い、殺意だけを宿した目。彼は引き金を引き、至近距離で一人を撃ち倒す。だがすぐに背後から押し倒され、銃剣が喉元に迫る。


 その時、稲光が再び走った。

 閃光に照らされた敵兵の顔は、恐怖に歪んだ自分と同じ若者だった。互いに叫び声を上げ、銃剣を押し合う。雨水が刃に滴り、二人の間で火花が散る。

 どちらも退けない。退けば死ぬ。


     ◇


 戦いは一時間以上続いた。

 やがてソ連軍の抵抗は散発的になり、生き残りは後方へ退いた。ドイツ軍は塹壕を占領したが、その代償は大きかった。伍長の部下は半数以上が倒れ、残る者も傷だらけだった。


 「……終わった、のか」

 伍長は泥に腰を下ろし、荒い息を吐いた。嵐はまだ止まず、雨は冷たく降り注いでいる。勝利の歓声もなく、ただ嵐と死者だけがそこにあった。


 アレクセイは後方へ引きずられていた。弾は尽き、銃剣も折れ、ただ必死に生き延びた。仲間の多くは塹壕に残ったまま。彼の目には、敵も味方も区別がつかない泥と血の塊しか映っていなかった。


 ――嵐の中、勝者も敗者もなかった。

 あるのは、奪ったはずの塹壕に積み重なる死体と、止む気配を見せない雨だけだった。

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