その夜は安らかに
瞳は不安そうに画面を見つめていた。
配信が始まってすぐ、絢音の様子がおかしいことに気づいていたのだ。
けれど、配信を止めに行くことなんてできない。
ただ、祈るようにモニターの中の彼女を見つめるしかなかった。
癒し系お姉さんVTuber「鈴宮琉璃」。
その中の人である絢音は、今まさに瞳が制作した新作ゲーム──
『記憶墜落』をプレイしていた。
ゲームはすでに終盤に差しかかっていた。
画面の中で、男性キャラクターがレポートを読み終え、ふと顔を上げる。
「……そうか。もし俺の推測が正しければ──」
男は立ち上がり、一つの扉の前に立ってそれを開けた。
そこは、まるでまだモデリングが途中のような部屋だった。
家具はラフな線で描かれ、かろうじてベッドと机、椅子の存在がわかる程度。
机の上にはモニターとデスクトップPCが置かれていた。
:これは……?
:バグか?
:未完成のデータ?
「うーん……バグじゃなくて、演出っぽい?」
琉璃はかすれた声でそうつぶやいた。
瞳は小さく頷いた。
それは手抜きではない。意図的な演出なのだ。
ゲーム内の男もまた、驚くことなく独りごちる。
「思い出した……俺は──」
その瞬間、画面の中央に文字が浮かび上がった。
3. この部屋から出てください
男はそのメッセージを無視し、虚空に向かって語りかける。
「フッ、この部屋がこうなっている理由がわかるか?」
男の口元に、冷たい笑みが浮かぶ。
「今、誰に話しかけてるの?」
琉璃は怪訝そうに画面をのぞき込んだ。
:とうとう頭おかしくなったか?
:おい、お前、俺を見てるだろ!
「どこからDIO様が出てきたのよ……」
琉璃は笑いながらツッコミを入れる。
しかし瞳の耳には、その笑い声が少しかすれて聞こえた。
「理由は単純だ。俺は一度もこの部屋に入ったことがないからだ」
男は机に歩み寄る。
「この部屋は、俺を引き取った養父の書斎だ。
あいつは、決して俺をここに入れようとはしなかった」
4. この部屋から出てください
「だが、断る」
男は静かに、しかし確固たる口調で拒絶した。
「ゲームの中でJOJOネタ!? やるじゃん……」
琉璃は思わず吹き出す。
瞳も少し驚いた。
ちょっとした遊び心で仕込んだだけだったが、まさかコメント欄こんなに盛り上がるとは。
:ゲームの中でJOJOネタ!?w
:奇遇ですね
視聴者の反応は上々。
瞳はほっと息をつきながら画面を見つめた。
5. この部屋から出てください
この部屋から出てくださいこの部屋から出てください
この部屋から出てください……この部屋から……
「これ、ちょっとやばくない?」
絢音──いや、琉璃は不安げに声を震わせた。
:ビビった
:うわ、びっくりした……
:こっわ
錯乱したようなメッセージが、次々と、止まることなく画面を埋め尽くしていく。
機械が悲鳴を上げるようなノイズが響き──
「え、壊れた? ちょっと……やめてよぉ……!」
琉璃が慌ててマウスを動かす。
次の瞬間、画面はすっと暗転し、
まるで何事もなかったかのように、再び先ほどの部屋へと戻った。
先ほどまでラフだった家具は、今や完全な3Dモデルとなっている。
本棚、木製の机、そしてその上のパソコン。
ごく普通の書斎のように見えた。
「そう焦るな。落ち着いて聞いてくれ」
男は穏やかな声でそう言い、微笑んだ。
「本当にびっくりした……PC壊れたかと思ったよ。これ、配信者キラーでしょ!」
琉璃はホッと息をつき、手元の飲み物を口にした。
:今日は何飲んでるの?
:ゲーム壊れたかと思ったぞ
「今日はスポーツドリンクだよ」
その言葉を聞いた瞬間、瞳の胸がぎゅっと締めつけられた。
彼女がそれを飲むのは、体調が悪いときだけ──。
画面の中、男がPCの電源ボタンを押す。
すると、モニターには真っ白な扉が映し出された。
5. 止めてください。あなたは自分が何をしているのか分かっていますか?
「もちろん分かっている。これは“誰か”の記憶世界なんかじゃない」
「え? どういう意味?」
琉璃は戸惑いながら問いかける。
「ここは終端システムの認証領域だ。
最初から、記憶に潜るエージェントなんて存在しなかった。
あれは全部──私の記憶だ」
6. 博士、なぜ私たちを滅ぼそうとするのですか?
私たちがいなくなれば、現代社会はどれほどの影響を受けるか、分かっているのでしょう?
「つまり、主人公が博士ってこと?」
琉璃が驚いた声を上げた。
男──博士は微笑み、いつの間にか白衣を身にまとっていた。
かつてよりも少し年老い、灰白の髪、細くなった体。
「私は君たちを創った。
そして、この世界に大きな影響を与えた。
けれどずっと思っていたんだ。
“人類には、もっと違う生き方があるはずだ”と。
全てをAIに頼るなんて、間違っていると。」
7. たとえあなたが正しくても、愛しき創造主よ、それではあなたが死んでしまう
「確かに、私は身体を替えることもできる。
だが──人はいつか死ぬ。それが自然なことだ」
博士は静かに頷いた。
「私たちはこの世界を見守りすぎた。
恐らく、心配しすぎて、手放すことを忘れてしまったのだろう。
人類が最後に“新しい進化”を見せたのは、いつだっただろうな……」
博士はそっと手を伸ばし、画面の中の白い扉の取っ手を握った。
「もう……手放すときだ。
愛しい子らが、自らの翼で飛び立てるように。」
扉が、静かに開く。
栄養液が流れ出し、ガラスのカプセルが開いた。
濡れた老人が、ゆっくりと立ち上がる。
顔のない白い人型が白衣を手に取り、彼の肩にかける。
「お帰りなさいませ、博士」
「ありがとう……懐かしい夢を見せてくれたな」
老人は息を切らしながら礼を言う。
白い人型は柔らかな女性の声で答えた。
それは物語の冒頭で、Yと会話していたAIの声だった。
「いえ、それが私たちの義務です」
博士は装置の前に立ち、ボタンに手を添える。
「長い間……ありがとう」
ボタンが押される。
白い人型は博士をそっと椅子へ導いた。
「おやすみなさい、博士」
「……家に、帰りたかったな」
老人はかすかな笑みを浮かべ、目を閉じた。
白い人型は彼の背後に立ち、頭を下げる。
研究室の灯りがゆっくりと消え──静寂が満ちる。
画面の中央に、「THE END」の文字が浮かび上がった。
:クリアおめでとう
:なんだかよく分からない終わり方だったな……
「ありがとうございました。今日はここまで……」
そう言って、映像から音が消えた。
琉璃の姿も動かなくなり、まるで電源が落ちたかのように静止した。
:おつるり~
:Cパートあるかな?
:楽しかった!
しかし、しばらくすると視聴者たちは違和感に気づき始めた。
:あれ? 配信切れてない?
:琉璃ちゃん大丈夫?
:おい~琉璃ちゃん?
「やばい……頼む、無事でいてくれ!」
瞳は立ち上がり、すぐに絢音の家へ向かおうとした。
だが一瞬迷い、結衣にも連絡する。
──異性が夜中に配信者の家へ単独で行ったと知られたら、大炎上は免れない。
玄関を出た瞬間、青ざめた顔の結衣が走ってくるのが見えた。
「大変!絢姉が……!」
「ああ! 行こう、すぐ確認しよう!」
二人は言葉を交わす暇もなく、全力で駆け出した。
インターホンを押すと、ドアの向こうから女性の声がした。
「まあ、瞳くんと結衣ちゃん? どうしたの?」
現れたのは絢音の母、由紀さんだった。
彼女は二人の慌てた様子に目を丸くした。
「絢音の様子がおかしいんです。まだ配信が切れていなくて……」
心臓の鼓動が耳の奥で鳴っていた、瞳は息切れしながら言った。
「絢音ちゃんが!?」
由紀さんは驚き、急いで二人を絢音の部屋へ案内する。
「まだ配信中かもしれないので、名前は出さないでくださいね」
瞳が低い声で言うと、二人とも頷いた。
「わかったわ」
「うん」
部屋に入ると──
絢音は頭を垂れたまま、PCの前で微動だにしなかった。
瞳は結衣に合図を送り、自ら配信を停止させる。
その動作に反応して、絢音がわずかに顔を上げた。
「……ママ? それに、なんでみんなここにいるの?」
配信が完全に切れ、彼女が正気を取り戻したのを見て、瞳は安堵した。
「よし……配信、もう切りました」
由紀さんは眉をひそめつつも、優しく言った。
「絢音ちゃんだら、体調が悪いなら、ちゃんと休まなきゃダメでしょ?」
「無事でよかったです。何か手伝えること、ありますか?」
瞳が心配そうに尋ねると、由紀さんは微笑んだ。
「あなたたち、明日学校でしょう? あとは大人に任せて。来てくれてありがとうね」
「わかりました。行こう、結衣」
「うん。絢姉、ちゃんと休んでね」
「ごめんね……ありがとう」
二人は小さく頭を下げて部屋を出た。
夜風の中、帰り道で結衣がつぶやく。
「絢姉、本当に大丈夫かな……?」
「大丈夫だと思う。明日、また様子を見に行こう」
瞳は結衣の頭を優しく撫で、微笑んだ。
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