【黒崎】秘書ちゃんの一日
スマホのアラーム音が部屋中に響き渡る。
朝の日差しが若い女性の整った顔立ちを優しく照らし、彼女は眉をわずかにひそめた。
「ん……朝かぁ……」
黒崎凛は眠そうに目を開け、スマホのアラームを止めると、重い足取りで洗面所へ向かい、ゆっくりと身支度を始めた。
洗顔を終えると、黒崎は冷蔵庫を開け、前日に買っておいた朝食を取り出してリビングへ戻り、少しずつ口に運びながら食べ始めた。
「ん、お嬢様からのメッセージだ。どれどれ……昨日美味しいアイスクリームを食べたって。ふふ、アイス食べたんだ。よかったじゃない」
スマホの未読メッセージを見て、黒崎は穏やかな笑みを浮かべ、器用な指先で素早く返信した。
黒崎が「お嬢様」と呼ぶのは、朝倉社長の姪で、時折会社に遊びに来る少女のことだ。
社長が忙しい時には黒崎が面倒を見ることも多く、それがきっかけで二人は友人になった。
相手はまだ学生で生活リズムが合わないため、互いに先にメッセージを残しておいて、後で返事を待つというのが日常だった。
朝食を済ませると、黒崎はスーツに着替え、鏡の前で髪を整え、軽くメイクを施した。
身だしなみを確認した後、ビジネスバッグを手にして家を出た。
玄関を出た瞬間、少し気だるげだった表情が一変し、真面目で有能な秘書の顔つきへと切り替わる。
「おはようございます」
黒崎の通勤手段はいつも電車だ。会社に到着すると、受付の二人に淡々と挨拶する。
「黒崎さん、おはようございます!」
落ち着いた雰囲気の鈴木さんは静かにうなずき、若々しい田中さんは手を振りながら明るく挨拶した。
二人とも、この若い秘書が社長に最も信頼されている右腕だということをよく知っていた。
社員たちに挨拶をしながら、黒崎は社長室へ向かう。
七夜夢は小規模ながら洗練されたゲーム会社だ。
現在、若手ゲームデザイナーとの共同運営タイトル『エンドレス・エクスペディション』と『ネコ待ちカフェ』を除いて、単独で開発しているゲームは一作のみ。その他は提携や代理運営によるものだ。
しかし、朝倉社長の鋭い経営判断のもと、会社は順調に成長を続けている。
黒崎は軽くノックをし、中から「どうぞ」と声がしたのを確認してからドアを開けた。
「黒崎、おはよう」
朝倉社長は社内でも有名な仕事人間で、朝からすでにオフィスで忙しく働いていた。
黒崎の記憶にも、社長が出社していなかった日はほとんどない。
「社長、おはようございます」
黒崎は丁寧に一礼した。
「今日は長谷川先生が来る日だったな?」
社長はふと思い出したように尋ねる。
「はい。本日午後七時に開発会議へいらっしゃいます」
黒崎は頷きながら答えた。
長谷川瞳、高校生にして大ヒット作を生み出した若きゲームデザイナー。
七夜夢は彼と共同運営の契約を結んでおり、必要に応じて会社に来てもらい、新機能の開発や現状の課題について会議を行っている。
相手が高校生であるため、会議は放課後に行われるのが常だ。
当然ながら一部の社員からは不満の声も上がったが、彼と接するうちに、ほとんどの人が彼の謙虚さに好感を抱くようになった。
特に若い女性社員の中には、彼の端正な顔立ちに目を輝かせる者も少なくなかった。
さらに、誰かが助言したのか、本人がそうしたいのかは不明だが、彼は毎回お菓子や飲み物を差し入れに持ってきており、次第にみんなが彼の来訪を楽しみにするようになっていった。
「午前中には定例会議が一件、午後は商談がございます」
黒崎はタブレットを取り出し、本日のスケジュールを説明し始めた。
一日中の業務を終えた後、黒崎は受付からの連絡を受けた。
「黒崎さん、長谷川先生がいらっしゃいました」
「分かりました、すぐ行きます」
黒崎が外に出ると、ちょうど瞳が持参したお菓子を皆に配っているところだった。
「黒崎さんも、どうぞ」
少年は微笑みながら、お菓子を差し出した。
「……ありがとう」
黒崎は一瞬黙り込んだ後、礼を言ってそれを受け取った。
「こちらへどうぞ。会議室はこっちです」
「はい」
瞳を連れて会議室へ入ると、すでに中は人でいっぱいだった。
「おはよう、長谷川君」
開発部の部長は細身で背の高い中年男性で、にこやかに挨拶をした。
「おはようございます、西野さん」
瞳は他の参加者一人ひとりにも丁寧に挨拶をした。
今日の会議のテーマは、『エンドレス・エクスペディション』に新機能を追加することだった。
ユーザーの定着率を上げるため、対戦型の「ランク戦」機能を導入しようという案が出されていた。
自分のカードを“ボス”として配置して、他のプレイヤーからの挑戦を受けたり、逆に自分が挑戦したりできる
「この部分ですが、僕はこう考えています。プレイヤーはまだ強化してないカード、あるいは既存カードで挑戦できます。ただし、既存カードは強化できません。でも他のカードを入手することは可能です」
「いや、それは分けた方がいいと思う。あるいは、特定のモードでしか使えないようにするか……」
瞳は大人たちに囲まれながらも堂々と意見を述べていた。
表情には多少の緊張が見えるものの、話しぶりはスムーズで、自分の考えをはっきりと伝えることに臆していなかった。
(すごいな……私が高一の時、何してたっけ……)
黒崎は議事内容を記録しながら、どこか感慨深げに思った。
議論が一段落し、瞳がほっとした様子で帰ろうとした時、黒崎は彼を玄関まで送って行き、ふと口を開いた。
「あの、長谷川先生!」
「はい?」
少年は少し不思議そうに立ち止まり、黒崎を見た。
「『ネコ待ちカフェ』のことなんですが、ちょっとお伺いしたいことが……」
「はい、どうぞ」
「今後、コンテンツの追加とか、もっと猫を飼えるようになる予定はありますか?」
ゲームをすでにクリアした黒崎は、唯一の不満である猫の飼育数の制限について、少し恥ずかしそうに聞いた。
「えっと……まだ決めてないですが、コンテンツの追加はたぶんあります、あ、でも黒崎さんのご意見は参考にさせていただきますね」
瞳は少し間を置いてから、真剣に答えた。
「本当ですか?ありがとうございます」
黒崎の笑顔を見た瞳は、少し驚いたような表情を見せた。
「どうかしましたか?」
「いえ……黒崎さんの笑顔、初めて見た気がして。ご意見もありがとうございます。そして、僕のゲームを遊んでくれて、本当に嬉しいです」
瞳は年相応の笑顔を見せた。
「それでは、失礼します」
「お疲れ様です」
「あ、うん、お疲れ様です」
黒崎は、瞳がエレベーターに乗るまで見送った後、ほんのりと頬を赤らめながら小さくつぶやいた。
「……あれ、なんなのよ。なんか……ずるい」
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